【つの版】度量衡比較・貨幣172
ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。
文政年間(西暦1818-30年)、水野忠成により行われた一連の貨幣改鋳により、幕府は多額の出目(改鋳利益)を得たものの、貨幣価値の下落により激しい物価上昇(インフレーション)が生じます。しかし長年の緊縮政策で冷え込んでいた経済市場は大量の貨幣の流入で一気に活性化し、田沼時代に匹敵する好景気が到来したのです。
◆口◆
◆琴◆
返地転封
文政4年(1821年)末、幕府は直轄地としていた蝦夷地を松前氏に返還します。寛政11年(1799年)に東蝦夷地を幕府に没収された松前藩は、代償として武蔵国埼玉郡に5000石を賜りますが、享和元年(1801年)には召し上げられて毎年3500両を賜ることとされます。文化4年(1807年)には西蝦夷地および和人地をも没収され、陸奥国伊達郡梁川藩に9000石(実高1.86万石)で転封されました。公称1万石とはいえ蝦夷地との交易で莫大な利益をあげていた松前氏は財政難に苦しみ、350名余の家臣のうち240名余を除籍して倹約粗食を旨としつつ、幕府や公家に蝦夷地返還を働きかけます。
松平信明はこれを拒み続けましたが、水野忠成は蝦夷地の防衛や開発に多額の費用がかかるとして許可したのです。松前氏から多額の賄賂を受け取ったためとも言われますが、当時の賄賂は取次手数料程度のことでしかなく、松前氏には死活問題ですから手段は選んでいられません。ロシアの脅威もこの頃にはおさまっており、以後は安政2年(1855年)に再び蝦夷地が幕府直轄地となるまでの34年間は松前藩が蝦夷地を支配下に置くこととなります。
文政6年(1823年)、水野忠成は田沼意次の四男・意正を、陸奥国下村藩から父の所領であった遠江国相良藩に転封させています。彼は安永3年(1774年)に老中・水野忠友と養子縁組し、その娘・八重姫を娶って水野忠徳と名乗っていましたが、天明6年(1786年)に意次が失脚すると離縁され、忠成が彼女と再婚して家督を継承しました。忠徳は母方の姓である田代氏を名乗り、田代玄蕃と改名します。
意次には7人の男子がいましたが、意次失脚後に生き残ったのは彼だけでした。嫡男・意知の子の意明は遠江国相良藩から陸奥国下村藩に転封され、寛政8年(1796年)に病没します。弟の意壱・意信が家督を継ぎますが次々と早世し、意次の甥の子にあたる意定が相続しますが、文化元年(1804年)にまたも早世します。このため唯一残った血縁者の田代玄蕃が田沼家の家督と下村藩主の地位を末期養子として相続し、田沼意正と名乗ったのです。
水野忠成が老中になると、意正はかつての縁で引き立てられ、文政2年(1819年)には60歳で西丸若年寄に就任します。その4年後、ついに念願の父の旧領へ復帰したのです。かつては5万7000石もあった石高は1万石に減らされましたが、田沼意次はこの地では年貢を軽減し殖産興業を勧めた名君として慕われており、相良藩はこれより幕末まで存続することとなります。
同文政6年には、田沼意次を失脚させた松平定信の子・定永が陸奥国白河藩から伊勢国桑名藩へ転封されています。この2年前、定信と定永は白河藩に命じられていた江戸湾警備の負担に藩財政が耐えきれないとして下総国佐倉藩への転封を申し入れていましたが、佐倉藩主の堀田正愛と争いになっていました。そこで幕府は佐倉藩に江戸湾警備の任務を肩代わりさせることとし、定永を桑名へ(藩祖の定綱が桑名藩主だったため)、桑名藩主の松平忠堯は武蔵国忍藩へ、忍藩主の阿部正権は陸奥国白河藩へ転封することとしたのです(三方領知替え)。突然の移封により各藩では混乱が起き、定永は白河時代の1.4万両に加えて9万両の借金を被ったといいます。
文政7-8年(1824-25年)には江戸市中で「びやぼん」という楽器が流行しました。これは「口琴」ともいい、口に銜えて指で鳴らす金属製のもので、古くは陸奥国や蝦夷地で用いられていたといいます(アイヌの「ムックリ」は竹製ですが)。庶民はこれを金権政治の諷刺に用い、「びやぼんを吹けば出羽どん出羽どん(水野忠成の官名は出羽守)と、金が物言う今の世の中」という狂歌を作りました。また田沼時代の金権政治が復活したとして「水の(野)出て元の田沼となりにけり」と言い触らしたといいます。寛政の改革の頃は「白河の清きに魚のすみかねて、元の濁りの田沼恋しき」と歌われましたが、庶民は勝手なものですね。
文政改革
文政10年(1827年)には、関八州(関東地方)の農村部に対して「御取締筋御改革」と称する行政改革を行いました。江戸のお膝元として食料供給を担ってきた関八州ですが、廻米制度が整備されて全国から米が江戸に海路で集まるようになると、農民たちは利益を得るため商品作物や手工業品の生産に転換します。しかし豪商・豪農は中小農民に資金を貸し付けて借金漬けとし、その土地を奪って大土地所有者となったため、多数の農民やその家族が土地を捨てて江戸に流入し、膨大な貧民層を構成します。相次ぐ飢饉や天災により江戸へ流れ込む飢民の数は増え続け、生産手段のない彼らは生きていくために盗賊となり、江戸や関東の治安を悪化させていきました。
寛政の改革では彼らをもとの農地に帰そうとしたり、手に職をつけさせて盗賊に戻らぬようにしましたが、なお充分ではありませんでした。また関八州は幕府直轄領ばかりでなく、旗本や諸大名、寺社領などが各地に散在していたため、盗賊たちが逃げ込めば逮捕を領主に依頼するしかなく、広域的な警察活動を行うことが難しい状況でした。そこで幕府は文化2年(1805年)に「関東取締出役」という役職を新設し、関八州を領主の区別なく巡回して無宿者や盗賊の取締りができるようにしました。
これは勘定奉行の配下に置かれ、定員は8名、身分上は足軽格でしたが、無宿者や博徒を「目明し(いわゆる岡っ引き)」として使うことができ、かなりの権勢を誇りました。しかし「目明し」たちはお上の権威を笠に着て他の無宿者や博徒に威張り散らし、カネを恐喝したり逆らう者を不当に逮捕したりしたため、かえって別の社会問題となります。また水戸藩では彼らが領内で活動することを嫌って幕府に苦情を提出し、目明したちも敬遠して入ることを控えるようになりました。
このような状況を改善するため、勘定奉行の曽我助弼は文政10年2月に45か条からなる触書を関八州の農村に対して発布します。治安維持のため武器や無宿人・浪人を取り締まること、祭礼・婚礼などにおける質素倹約、娯楽や賭博の禁止、強訴や徒党の禁止、余業や若者組に対する制限が命じられ、さらに水戸藩領以外の全農村に対して、領主を問わず「改革組合村(寄場組合)」の編成が命じられました。
これは近隣の村々3-5つをまとめて「小組合」、小組合を10前後まとめて「大組合」としたものです。村には豪農層から選ばれた名主や村役人がいますが、その中から小惣代が選ばれて小組合を運営し、小惣代から大惣代が選ばれて大組合を運営します。また大組合の中から寄場/親村という運営拠点が選ばれ、その名主を寄場惣代として関東取締出役の指揮下に置いたのです。
この公的な行政組織の編成により、幕府の命令が速やかに伝達されることとなり、村内の揉め事が村内や組合内で処理されて一揆が防止され、相互監視による治安の強化が達成されました。無宿人や浪人を目明しとして使うより、村人自身に村の秩序を守らせた方が効率的なわけです。この組合体制は幕府崩壊まで存続し、一部地域では明治時代まで続いたといいます。
文化・文政時代には英国船もしばしば日本沿岸に出没し、通商を求めたり民衆と勝手に商取引を行ったりしていました。これを規制するため文政8年(1825年)には「異国船打払令」が発布され、国内には攘夷論が沸き起こります。文政11年(1828年)にはオランダ商館付きの医師シーボルトが日本地図を国外へ持ち出そうとして露見する事件が起きました。
◆
水野忠成は金権政治家と批判されながらも、様々な行財政改革を行って幕府を立て直しました。しかし田沼意次と同じく、彼の時代の末期には大飢饉が起こり、飢えに苦しむ民衆は一揆・打ちこわしを起こします。水野忠成はこれに対処しますが天保5年(1834年)に73歳で逝去し、傾いた幕府の立て直しは水野忠邦に委ねられることになります。そろそろ近代に入りますし、次回は文政時代の物価や庶民の生活について見てみましょう。
◆口◆
◆琴◆
【続く】
◆
いいなと思ったら応援しよう!
つのにサポートすると、あなたには非常な幸福が舞い込みます。数種類のリアクションコメントも表示されます。