【つの版】度量衡比較・貨幣198
ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。
新たなインデックスを作成しました。
江戸時代には地方に300近い大名がおり、徳川将軍家を宗主として一定の自治を行っていました。彼らの統治する領地と支配機構を、歴史上は「藩」と呼びます。幕府と同じく諸藩でも、時流に適応し財政危機を脱するため、藩政改革が盛んに行われました。今回は信濃国の南、甲斐国です。

◆風林◆
◆火山◆
甲斐馬牧
甲斐国は現在の山梨県に相当し、海に面していない内陸国ですが東海道に属しています。東部の都留郡、中北部の山梨郡、中南部の八代郡、西部の巨摩郡の4郡があり、国衙は当初は笛吹川の北の山梨郡山梨郷(現笛吹市春日居町国府)に置かれ、のち笛吹川の南の八代郡(現笛吹市御坂町国衙)に移転したと推定されます。また金川の東の笛吹市一宮町国分には甲斐国分寺があり、10世紀頃にはここに国衙があったともいいます。
甲府盆地南部では北東から流れ来る笛吹川と、北西から流れ来る釜無川が合流して富士川となり、富士山の西側を南流して駿河湾へと注いでいます。また富士山北麓の山中湖からは桂川(相模川)が出て都留郡を貫き、西へ向かって相模平野に出、南に曲がって相模湾に注いでいます。これらの河川によって甲斐国は海と繋がっています。「甲斐」の語源には諸説ありますが、山々の間(峡=かひ)にあるからとも、交通の要衝として「交ひ」に由来するともいいます。ただし富士川も相模川も山あいを流れる急流で、陸路も難所が多く、人や物を大規模に輸送するのにはあまり向いていません。
古墳時代前期には甲府市に天神山古墳、大丸山古墳が築かれ、4世紀後半には県下最大級の甲斐銚子塚古墳が築造されています。前方後円墳であり三角縁神獣鏡などが出土することから、ヤマト王権に従属する在地首長の墓と思われ、記紀に見える「甲斐国造」ではないかと推測されています。縄文時代以前から人が住んではいたものの、寒冷で土地は痩せており、4世紀末に朝鮮半島から輸入された馬の牧場が開かれたことで大いに発展しました。
『延喜式』には甲斐国に穂坂・真衣野・柏前という3つの御牧が存在したと記され、朝廷へ毎年30疋ずつ馬が献納されていました。このうち穂坂牧は現韮崎市穂坂町、真衣野牧は現北杜市武川町牧原、柏前牧は現北杜市高根町清里念場原に存在したと推測されます。いずれも甲斐国西部の巨摩郡に属し、山の麓に広がる高原地帯で、馬の飲み水や柵となる河川もあり、馬牧には最適地でした。巨摩とは駒のこととも、馬牧の管理者として送り込まれた高麗(狛)からの渡来人に由来するとも言われます。
東海道は富士川沿いを通らず、駿河国沼津から北上して御殿場を抜け、足柄峠から相模へ向かっていました。その手前の横走駅(駿東郡小山町)から支線の「甲斐路」が北へ伸び、籠坂峠・御坂峠を越えて甲斐国府に達しています。甲斐から東へ桂川(相模川)沿いに進めば相模や武蔵に通じ(後の甲州街道)、北は信濃国佐久郡と諏訪郡に接しています。西の伊那谷との間には峻険な山並みが聳え、越えるのは不可能ではないものの困難でした。こうした内陸の交通や物資輸送には、馬が欠かせなかったのです。
現甲府市酒折には、日本武尊が訪れたとされる「酒折宮」があります。彼は蝦夷を平定したのち常陸・相模を経て甲斐に入ったとされ、新治・筑波から9夜10日かかったと伝えられます。仮に茨城県つくば市からとすれば180㎞あまりで、1日18㎞ほどの行軍となります。
甲斐源氏
長元3年(1030年)、河内源氏の源頼信が甲斐守に任じられ、東国を揺るがしていた平忠常の乱の鎮圧に追討使として差し向けられます。甲斐の軍馬を動員して圧力をかけたゆえか、忠常は戦わずして降伏しました。河内源氏と甲斐国の関わりはこの頃に始まります。
頼信の孫に新羅三郎義光がおり、常陸介・甲斐守を歴任しました。彼の嫡男義業は常陸国久慈郡佐竹郷に本拠を置いて佐竹氏の祖となり、三男義清は常陸国那珂郡武田郷を領して武田氏の祖となり、四男盛義は信濃国佐久郡平賀郷に入って平賀氏の祖となります。義清は大治5年(1130年)に所領の境を巡って紛争を起こし、翌天承元年(1131年)甲斐国巨摩郡市河荘へ配流されますが、息子の清光らとともに巨摩郡平塩岡(現西八代郡市川三郷町市川大門、甲府盆地の南端部で笛吹川の南岸)に館を構え、長承2年(1133年)には市河荘司となります。当時の甲斐の知行国主は権中納言の藤原長実で、彼の父顕季は義光の主君でしたから、縁を頼って所領を移したのでしょう。これ以後、義清の子孫は甲斐国に進出して甲斐源氏の祖となります。
義清には清光・師光・遠光らの男子があり、清光は甲斐北西部の逸見荘(現北杜市長坂町)へ進出してこの地の馬牧を支配下におさめました。彼の子らのうち嫡男の光長は逸見氏を名乗りますが、弟の信義は南の武田荘(現韮崎市武田)に移って武田氏を称し、祖父以来の甲斐源氏の宗主として甲斐一国を保つこととなります。甲斐国には院や皇室の所領が多かったこともあり、治承4年(1180年)には以仁王の令旨を受けて後白河院を救うべく挙兵し、源頼朝と連携して平家の軍勢と戦い、駿河に進出しました。
頼朝は甲斐源氏や木曽義仲を支援して平家と戦わせる一方、自らは伊豆と関東を平定して奥州藤原氏を牽制しつつ、信義の叔父・遠光および信義の子信光らを味方につけます。義仲の敗死後、信義の嫡男・忠頼は謀反の疑いにより頼朝に暗殺され、信義は頼朝に子々孫々まで敵対しないという起請文を提出させられたうえで隠居に追い込まれます。遠光の長男・秋山光朝、信義の弟・安田義定も粛清され、甲斐源氏は信光・遠光らのもと鎌倉幕府の御家人に組み込まれました。信光は安芸守護、遠光は信濃守に任じられ、彼らの子孫は甲斐のみならず諸国に広まっていくこととなります。
遠光の次男・長清は巨摩郡小笠原郷を領して小笠原氏の祖となり、父に続いて信濃守となった他、承久の乱の後に阿波守護となっています。彼の子孫には阿波の三好氏などもおり、南北朝時代に小笠原氏は北朝につき、信濃守護職を授かって戦国時代に及びました。長清の弟・光行は巨摩郡南部牧を授かって南部氏の祖となり、鎌倉時代末期に子孫が陸奥国へ移動しました。
甲斐武田
鎌倉時代には武田氏は甲斐と安芸の2つに分かれ、互いに惣領の座を争いました。鎌倉時代末期には甲斐国山梨郡石和を拠点とした政義が幕府より甲斐守護に任じられ、幕府滅亡後は後醍醐天皇、ついで足利尊氏に従って甲斐守護職を認められています。しかし政義はのちに尊氏に背いて南朝につき、1343年(南朝の興国4年/北朝の康永2年)に討ち死にしました。
安芸守護の武田信武はこれに乗じて甲斐守護職を兼任し、子の信成を守護代として派遣しました。信武没後は信成が甲斐守護、弟の氏信(信頼)が安芸守護となります。尊氏は自分の息子・基氏を「鎌倉殿(公方)」に任じて東国を統括させ、母方の従兄弟にあたる上杉氏を関東管領に任じて輔佐させましたが、甲斐国は伊豆・奥羽ともどもこの政権の下に組み込まれました。
信成の孫・信満は、応永23年(1416年)に勃発した鎌倉公方・持氏と前関東管領・上杉禅秀の対立に巻き込まれます。姉妹が禅秀に嫁いでいたため彼に味方したものの、幕府が持氏を支援して禅秀を討伐したため失脚し、翌年自害に追い込まれたのです。持氏は戦後に甲斐の国人・逸見有直を守護に擁立しますが、幕府は信満の弟・信元を推し、信元が没すると信満の子・信重が幕府の支持を受けます。ところが信重の弟・信長や守護代の跡部氏が相争っていたうえ、持氏指揮下の守護として鎌倉に赴けば殺される危険があるため下向できず、永享10年(1438年)にようやく入国できました。
その後も信重が暗殺されたり、子の信守が早世するなど安定せず、信守の子の信昌、その子信縄を経て、信縄の子の信虎の代にようやく甲斐一国を統一することに成功します。これまで甲斐国の守護所は石和(笛吹市石和町)にありましたが、信虎は永正15年(1518年)に甲府(甲府市古府中町)に移転し、居館となる躑躅ヶ崎館を築き、城下町を整備して有力国衆らを住まわせました。ここに戦国大名・武田氏が成立することとなります。
戦国時代の武田氏については、前にかなりやったのでいいとしましょう。彼らは有力国衆を統合し、甲斐国の馬牧を掌握して軍事力を高める一方で、領内の金山を開発して資金源を確保し、信濃・駿河・遠江に勢力を広げていきました。その勢力は北の上杉氏、東の北条氏、南の今川氏や徳川氏、西の織田氏を脅かし、天下屈指の戦国大名として東国に覇を唱えたのです。
しかしいかに黄金が産出しても、経済力では畿内を抑えた織田信長の方が上でした。信玄の没後、武田自慢の騎馬軍団は信長がカネで揃えた大量の火縄銃の前に大敗を喫し、7年間は持ちこたえたものの諸将の動揺は抑えきれず、天正10年(1582年)の甲州征伐であっという間に崩壊します。ところが信長も同年に本能寺の変で横死し、旧武田領は大混乱に陥るのです。
甲州動乱
甲州征伐の後、信長は甲斐一国22万石と信濃国諏訪郡を河尻秀隆に与えました。ただ甲斐南西部の河内領(のちの南巨摩郡と西八代郡)は、武田氏の分家で徳川家康に降った穴山梅雪(信君)の所領として安堵されています。ところが梅雪は本能寺の変の時に家康と堺におり、東へ逃げる途中に山城国宇治田原で落ち武者狩りに遭って討ち取られ、秀隆も本能寺の変の16日後に武田家の遺臣に襲撃されて戦死します。
無主状態となった甲斐には相模から北条氏直が攻め込みますが、三河に帰国した家康は梅雪の子・勝千代(10歳)と穴山衆を支援して甲斐に侵攻します。また越後の上杉景勝もこれを好機として北信濃に侵攻し、甲斐・信濃・西上野の国人衆は三大勢力の間を立ち回ることとなります。最終的に景勝は北信濃の一部を、氏直は西上野を確保するにとどまり、甲斐一国と信濃の大部分は家康の手中におさまりました。穴山勝千代は河内領などを安堵され、名目上武田氏の家督を継いだものの、実権は家康に握られます。
秀吉と家康が戦った小牧・長久手の戦い(1584-86年)の終結後、勝千代は天正15年(1587年)6月に16歳で病没し、家康は自分と武田家遺臣・秋山氏の娘(梅雪の養女)の間に生まれた万千代に3歳で武田氏の家督を継がせます。しかし小田原征伐後に家康は関東へ転封され、これまで領国であった三河・遠江・駿河・信濃・甲斐は秀吉に没収されてしまいます。
代わって甲斐一国および信濃の一部を含む24万石には、秀吉の甥(姉の子、秀次の弟)にあたる秀勝が封じられますが、8ヵ月ほどで美濃岐阜城13万石へ転封され、加藤光泰が交代します。彼は家康・秀勝が準備していた甲府城の建設に着手し、検地を行いますが、文禄2年(1593年)に朝鮮で病没し、嫡男貞泰が後を継ぎます。しかし14歳ゆえ家康の抑え役として不足であるとして美濃に移され、浅野長政が甲斐のうち5万5000石、長政の子・長慶(幸長)が22万5000石を授かり、1万石は蔵入地(直轄地)とされました。
浅野長政は豊臣政権の「五奉行」の一人であり、関東平定や奥州仕置に際しても中心的な役割を担った人物です。秀吉は奥州の伊達氏・南部氏、下野の宇都宮氏・那須氏・成田氏(武蔵忍城から烏山に転封)らを長政父子の与力(加勢)としてつけ、彼らの取次と家康の牽制を命じました。甲斐国は山に囲まれた堅牢な地であり、相模・武蔵・駿河・信濃に道が通じ、関東を領する者にとっては攻めにくく、西への進出を阻む土地でした。
しかし長政は秀次事件で一時失脚し、その後に復帰したものの幸長ともども石田三成と対立、慶長4年(1599年)家督を幸長に譲って武蔵国府中に隠居、家康と接近します。同年には幸長の弟・長重が江戸へ招かれ、翌年正月には秀忠の小姓となっています。このため会津征伐・関ヶ原の戦いでは家康に味方し、長政は江戸城の留守居を任され、幸長は先んじて美濃を平定、東軍の勝利に大いに貢献します。この功績により幸長は紀伊和歌山城37万6000石余に加増転封されました。また長政は4歳年上の家康の近侍・相談役となり、隠居領として常陸国真壁に5万石を授かりました。
家康は要衝の地である甲斐を直轄地とし、譜代の重臣・平岩親吉を甲府郡代に任じて3郡6万3000石を授けます。彼は天正壬午の乱の後にも郡代として甲斐を治めた経験があり、加藤氏・浅野氏らが建設した甲府城に入って国内を整備します。また甲斐の金山などは武田家の遺臣であった大久保長安が甲斐奉行として取り仕切り、幕府の資金源として開発を進めています。長安は八王子や相模を経て江戸と甲府を結ぶ「甲州街道」も整備しています。
なお甲斐東部の都留郡(郡内地方)には、以前ここの領主であった鳥居忠次の子成次が封じられ、谷村城を居城として谷村藩(郡内藩)を立てました。この地は駿河・武蔵・相模と接する要衝として重視され、武田家の時代には桓武平氏秩父氏流の小山田氏が割拠しています。
江戸時代において、甲斐は江戸のある武蔵に近い要地であることから、しばしば徳川家の一門が封じられ、親藩(甲府藩)が立てられました。それらは長続きしませんでしたが、政治や経済に大きな影響を及ぼしています。
◆風林◆
◆火山◆
【続く】
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