【つの版】度量衡比較・貨幣197
ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。
そろそろ新しいインデックスを作りましょう。
江戸時代には地方に300近い大名がおり、徳川将軍家を宗主として一定の自治を行っていました。彼らの統治する領地と支配機構を、歴史上は「藩」と呼びます。幕府と同じく諸藩でも、時流に適応し財政危機を脱するため、藩政改革が盛んに行われました。今回は信濃編の最後、木曽です。ただし木曽は長らく美濃国の一部とされており、信濃とされたのは近世以後です。

◆木◆
◆曽◆
木曽地域
木曽地域は、信濃国/長野県の南西に位置する山間部で、木曽川の上流部にあたります。およそ現在の木祖村、木曽町、上松町、王滝村、大桑村、南木曽町を含み、明治時代に成立した西筑摩郡(1968年に木曽郡と改称)は松本市奈川、塩尻市贄川・木曽平沢・奈良井、岐阜県中津川市の山口・馬籠・神坂も含みます。東は木曽山脈を挟んで伊那盆地、南は美濃東部、西は飛騨、北は松本盆地に接しています。
木曽川は、木曽村の鉢盛山南部を水源とし、御嶽山から流れ来る王滝川を合わせ、延長60㎞におよぶV字渓谷「木曽谷」を形成しながら南西に流れ、岐阜県中津川市に入ります。さらに飛騨川と合流して濃尾平野に出、愛知県との境をなし(このあたりでは尾張川、境川、広野川とも呼ばれます)、揖斐川および長良川と併流(古くは合流)しながら愛知県と三重県をかすめ、伊勢湾に注ぐ大河です。遥か内陸の信濃と美濃・尾張・伊勢および海を繋ぐことから、古来交通に用いられましたが、非常に峻険な難所でした。日本武尊も木曽を通らず、伊那谷から神坂峠を越えて美濃に入っており、東山道も木曽ではなく神坂峠を通っています。
『続日本紀』によると、大宝2年(702年)から岐蘇山道の開削が進められ、和銅6年(713年)に吉蘇路が開通しました。吉蘇と小吉蘇の両村は美濃と信濃の間で所属が争われましたが、吉蘇路を開拓したのが美濃国司であったことから、美濃国恵奈(恵那)郡の絵上郷に所属すると朝廷から認定されています。両国の境は縣坂(奈良井と木祖村の間の鳥居峠)および境峠(奈川と木祖村の間)と定められました。
木曽義仲
しかし平安時代末期から鎌倉時代・南北朝時代にかけて、木曽(の一部)を信濃とする認識がしばしば文献記録に現れます。久寿2年(1155年)8月、源頼朝の兄・義平は叔父の義賢を武蔵国比企郡大蔵館に攻め、これを討ち取りました。義賢の子・駒王丸は時に数え2歳でしたが、畠山重能と斎藤実盛のはからいで逃がされ、乳父(乳母の夫)で信濃権守であった中原兼遠によって信濃国へ逃れました。彼が駒王丸を匿った地を、14世紀初め頃までに編纂された鎌倉幕府の史書『吾妻鑑』では「信濃国木曽」と記すのです。
このため駒王丸は元服すると木曽次郎義仲と名乗り、木曽冠者と呼ばれました。ただ『源平盛衰記』では「信濃国安曇郡に木曽という山里あり。義仲ここに居住す」とあり、安曇郡は松本盆地の北ですから、木曽谷とは別の場所です。また松本盆地南西の朝日村(東筑摩郡)は木曽川源流の鉢盛山の東麓にあり、義仲が「朝日将軍」とも呼ばれたことから、広義の木曽としてこのあたりに匿われたのではないかという説もあります。とすると木曽義仲は美濃側の木曽谷とは無関係となります。義仲の初陣である市原合戦(善光寺裏合戦)は北信の川中島、現長野市若里で行われていますから、松本盆地から犀川を下って攻め寄せたのでしょうか。
また『吾妻鑑』によると文治2年(1186年)、関東知行国(鎌倉殿=頼朝が知行とする諸国)のうち信濃国に「大吉祖荘」という荘園があり、宗像少輔(藤原北家小一条流の親綱)の領であるといいます。これは木曽谷北部、王滝川の北にあったとされ、南には仁和寺無量寿院を領家とする小木曾荘という別の荘園(同一とも)があったといいます。
その南、美濃国恵那郡の木曽川以南には遠山荘という荘園があり、摂関家が所領としていました。『吾妻鑑』によると元暦2年(1185年)5月、源義仲の娘・菊姫がこの荘園の一村を賜ったとありますが、義仲はその前年に戦死しています。同年8月に文治と改元されると、頼朝の重臣・加藤景廉が遠山荘を功績により拝領し(建久6年/1196年とも)、木曽南部にも勢力を広げたようです。景廉の娘は常陸大掾氏の末裔・真壁友幹に嫁ぎ、小木曾荘の地頭職をその子孫に受け継がせています(美濃小木曾真壁氏)。南北朝時代にも真壁氏は小木曾荘の地頭として存続しますが、観応の擾乱の後に常陸国真壁郡山田郷の真壁氏惣領家を相続したようです。
代わって出現したのが木曾氏(木曽氏)です。寛政元年(1789年)に編纂された木曽家の家譜『高遠記集成』によると、義仲の五男ないし四男の基宗(義宗)に始まるとしますが、木曽代官の山村良景が編纂した『木曽考』では義仲の三男・義基(万寿丸)を祖とします。彼は父の敗死後、安曇郡の豪族・仁科義重に庇護され、のち木曽谷の領主になったといいます。また義仲の子らは外祖父である上野国沼田の藤原伊予守家国を頼り、鎌倉幕府より上野と相模に所領を賜ったとも、子孫が沼田家の養嗣子となって家督を継ぎ、家村の時に足利尊氏に従って中先代の乱の鎮圧に功績をあげ、木曽・高遠・洗馬・安曇野に広大な所領を賜ったとも伝えますが、同時代記録には一切見えないので後世の捏造です。実際は上野国の沼田氏が地頭として木曽谷に入ったもので、当初は藤原秀郷の末裔として藤原姓を称していました。
史料上は現木曽町の水無神社・黒沢御嶽神社の棟札に「至徳2年(1385年)」「伊与(予)守藤原家信」とあるのが初見で、正長元年(1428年)の木曽白山神社の棟札には「当地頭藤原家友」とあります。文正元年(1466年)に菩提寺の興禅寺(木曽町福島)に寄進した梵鐘銘に「美濃州慧那郡木曾庄萬松山興禅々寺住持比丘大壇那源之朝臣家豊」とあり、この頃から源姓を称したようです。応仁元年(1467年)に将軍足利義政から信濃守護・小笠原家長の子定基に宛てた御教書には、「濃州凶徒等退治の事、木曽殿に仰せつけられ、合力致し」とあり、同じく定基宛の細川政国の書状にも「木曽兵部少輔」と協力するようにと記載されています。
木曽義昌
家豊の子・義元(義清)から、諱の字を木曽氏の通字「家」から源氏の通字「義」に改めています。永正元年(1504年)義元が隣国飛騨との争いで30歳で戦死すると、子の義在が後を継ぎ、小笠原定基の娘を娶りました。彼は木曽谷の本道と宿駅を整備し、材木を美濃に輸出して米穀を輸入し、半世紀の間国人領主として木曽谷に君臨しました。なお天文18年(1549年)木曽川の東にある定勝寺の鐘銘には「信州木曾庄」と記されており、この頃には木曽川の東を信濃、西を美濃とする地理認識があったようです。
義在の子・義康の時、武田晴信(信玄)の信濃侵攻が始まり、天文23年(1554年)には伊那谷を制圧、木曽氏や遠山氏ら美濃東部の国人領主らも恭順させました。義康は信玄の娘・真理姫を嫡男義昌の正室に迎え、木曽氏は武田氏の親族として重視されましたが、美濃や飛騨に対する最前線として負担も増加していきます。天正10年(1582年)2月に義昌は織田氏に寝返り、弟の上松義豊を人質として送ります。激怒した勝頼は甲府にいた木曽氏の人質を処刑しますが、義昌は織田軍を招き寄せ、武田氏は滅亡しました。
信長は義昌の功績を讃えて褒美を授け、筑摩郡と安曇郡を与えます。義昌は小笠原氏の居城であった深志城(のちの松本城)に進出して城代を置きますが、間もなく本能寺の変が勃発し、信濃は混乱に陥ります。越後の上杉景勝は小笠原洞雪斎を派遣して深志城を奪還させ、義昌は木曽谷へ撤退しました。ついで北条氏直に従いますが、氏直が甲斐を巡って徳川家康に敗れると家康に鞍替えし、筑摩・安曇両郡の安堵を求めました。しかし家康は小笠原氏の深志城復帰を認めたため、義昌は秀吉に恭順します。ところが秀吉と家康が和睦し、木曽氏は家康の傘下に入れられました。
天正18年(1590年)、家康が関八州に移封されると、義昌はこれに従って木曽谷を離れ、下総国阿知戸(現千葉県旭市網戸)に1万石を授かります。ここは九十九里浜の北にあり、数百年間山中に割拠していた木曽氏は初めて海辺に所領を授かることとなりました。義昌は芦戸城を居城として城下町を整備し、菩提寺として東漸寺を開基した後、文禄4年(1595年)ないしその翌年に没しています。子の義利が継ぎますが粗暴なふるまいにより慶長5年(1600年)改易され、その後の消息は定かでありません。
木曽代官
木曽義昌が退去すると、秀吉は木曽谷を蔵入地(直轄地)とし、家来の石川貞清(尾張犬山城主)を木曽代官として治めさせました。木曽谷は95%が山林で、米は輸入に頼る土地でしたが、秀吉は木曽谷の豊富な木材に目をつけ、各地の城や邸宅の建設に用いたのです。
木曽義利の改易後、その一族や家臣たち(木曽衆)は牢人となって信濃や甲斐などに散らばりましたが、同年に会津征伐・関ヶ原の戦いが起きると、家康は下野国小山に木曽衆の主だった者たちを呼び集め、木曽谷を領地として与えることを条件として奪還を命じました。石川貞清は美濃や尾張の諸将ともども西軍につきましたが、木曽衆は呼びかけに応じて続々と挙兵・内応し、8月のうちに木曽谷を奪還、美濃東部までも平定します。これにより家康は東海道を進んで美濃を平定し、9月に関ヶ原の戦いで勝利したのです。
10月、家康は木曽衆の代表である山村良候(出家して道祐)を木曽代官に任命し、木曽谷1万石を木曽衆に知行地として配分すると告げました。しかし道祐は「木曽谷は交通の要衝であり、良質な木材の産地でもあるから、我らが領有すべきではござらぬ」と申し出ます。そこで家康は木曽衆に6200石を加増したうえで美濃国恵那郡・土岐郡・可児郡に所領を授けました。
良候の子・良勝は隠居した父に代わって木曽代官となり、木曽谷中央の福島関所と木曽谷の村々の管理を命じられます。大坂の陣終結後の元和元年(1615年)には尾張徳川家の家来とされますが、以後明治維新まで250年以上にわたり子孫代々木曽代官をつとめました。木曽の木材流通については、尾張名古屋藩の方で触れることにしましょう。木曽谷全体が信濃国筑摩郡に属すると定められたのは、享保9年(1724年)のことといいます。
◆信◆
◆濃◆
ようやく信濃編を終えました。次回からは東海道に戻り、甲斐・伊豆・駿河・遠江…と見ていきましょう。
【続く】
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