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【つの版】度量衡比較・貨幣196

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 江戸時代には地方に300近い大名がおり、徳川将軍家を宗主として一定の自治を行っていました。彼らの統治する領地と支配機構を、歴史上は「藩」と呼びます。幕府と同じく諸藩でも、時流に適応し財政危機を脱するため、藩政改革が盛んに行われました。今回は南信の続きで、伊那編です。

長野県

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伊那地域

 伊那いな郡は、北は諏訪郡、東は赤石山脈(南アルプス)を挟んで甲斐国と駿河国、南は遠江国と三河国、西は木曽山脈を挟んで美濃国と木曽に接する領域です。現在の上伊那郡、伊那市、駒ヶ根市、下伊那郡、飯田市を含み、信濃国内では最も大きな郡でした。

 諏訪湖から流れ出る天竜川は南に流れ、その中流域には伊那谷(伊那平)と呼ばれる盆地があって、東西4㎞、南北60㎞にわたっています。天竜川は奥三河と遠江の境をなした後、遠江側の浜松で遠州灘に注ぎます。また東山道は美濃から神坂峠を越えて伊那谷南部に入り、天竜川沿いに北上して塩尻峠を越え、筑摩郡に入っていました。

 天竜川の上流側(北部)を上伊那、下流側(南部)を下伊那と分けますが、中世まで伊那郡と諏訪郡の境は大田切川でしたから、上伊那郡宮田村までは諏訪郡であったことになります。郡衙(郡の役所)は下伊那の麻績おみ(現飯田市座光寺)にあったと思われ、東山道と天竜川に沿い、陸路と河川での交通を抑えていたようです。のちにここは「元善光寺」と呼ばれ、長野市の善光寺はここから諏訪を経て本尊が遷座したものと伝えられるようになりました。伊那郡の国分寺があったのでしょう。江戸時代の中山道は伊那を通らず、塩尻から木曽路に入って美濃へ抜けていますが、天竜川があり盆地を通る伊那路はなおも物流の要衝として栄えました。

 伊那(古くは伊奈)の地名由来については諸説あります。比較的有力な説として、安曇郡が安曇氏から名付けられたように、猪名部ゐなべという職能集団や、それを統括する猪名部みやつこ・猪名部おびとといった氏族に関係があるのではといいます。『日本書紀』によると応神天皇31年、新羅から船舶を作るために船大工たちが貢納されましたが、これが猪名部らの始祖と伝えます。彼らは河内北部(のちの摂津国)の猪名川流域(猪名野)に住み着いて河内王権のために船舶建造にあたり、軍事氏族である物部氏が彼らを統括していました。猪名野にはのちに馬牧が置かれ、清和源氏の初期の拠点ともなっています。信濃の伊那には天竜川が流れており、山林もあって船舶建造や馬牧にはうってつけですから、彼らがここに移住したというのはあり得ることです。伊勢北部には員弁いなべ郡(現いなべ市など)があり、伊勢湾に注ぐ員弁川に沿っていて、木曽川を遡り神坂峠を越えれば伊那谷に至ることができます。実際ヤマト王権が信濃へ進出する際には伊那谷を通る必要があったでしょうが、古くは猪(ゐ)と伊(い)は発音が異なっており、語源としては微妙ではあります。

南北朝乱

 6世紀後半頃、伊那に進出した氏族が金刺部かなさしべ氏/金刺氏です。大和国磯城島の金刺宮に宮居した欽明天皇に仕えたことからその名があり、科野国造と先祖を同じくするとされ、奈良時代から平安時代初期にかけて伊那郡・諏訪郡をはじめ信濃諸郡の郡司・大領、国衙の馬牧の主任官となりました。のち諏訪大社下社(諏訪湖北岸側)の大祝家ともなりますが、上社大祝家の諏訪氏(みわ氏)とは対立するようになります。

 鎌倉時代、諏訪氏は北条得宗家の御内人となって繁栄し、鎌倉幕府滅亡後は得宗家の遺児・北条時行を奉じて中先代の乱を起こし、一時鎌倉を奪還しました。これは足利尊氏に鎮圧され、諏訪頼重・時継父子は鎌倉で自害しますが、時行は伊豆に落ち延びて再起し、尊氏と対立する南朝の後醍醐天皇に身を寄せます。後醍醐天皇の皇子・宗良親王は時行に奉じられ、伊勢・遠江を経て伊那に入り、大河原城(現下伊那郡大鹿村)に宮居して信濃における南朝勢力の旗印となります。諏訪氏もこれに従いますが、尊氏は信濃守護の小笠原氏に鎮圧を任せ、金刺氏は諏訪氏と対立して北朝につきます。この諏訪氏と金刺氏の争いは、時行や宗良親王が没し諏訪氏が北朝に降った後も、戦国時代まで長く続きました。

 大鹿村の塩川沿いには鹿塩温泉という天然の塩水温泉が湧出しており、内陸深くの山間部にありながら古来製塩が行われていました。岩塩でも化石海水でもなく何故ここに湧くのかは定かでありませんが、宗良親王がここに拠点を置いたのも、おそらく製塩の利益によるのでしょう。なお、この地には北条時行の墓と称するものが存在します。

高遠飯田

 この頃、諏訪氏の庶流が伊那郡北部の高遠(現伊那市高遠町、大田切川以北なので古くは諏訪郡のうち)に移って高遠氏を名乗り、諏訪氏の惣領職を巡ってしばしば宗家と対立することとなります。

 高遠は三方を山に囲まれ、三峰川と藤沢川を濠とする要害の地で、西は伊那谷に向かって開け、北は藤沢川を遡れば諏訪に赴くことができます。高遠氏はここを拠点として伊那郡に勢力を広げ、同じく諏訪氏庶流である箕輪の藤沢氏と手を結んで宗家に対抗しました。

戦国甲信越

 戦国時代、諏訪頼満は金刺氏・高遠氏らを屈服させて諏訪の諸家を再統一し、甲斐国主の武田信虎と対抗しましたが、晩年には和睦して信虎の娘を孫の頼重に娶らせました。しかし天文10年(1542年)信虎が子の晴信(信玄)に追放されると、晴信は諏訪氏との同盟を破って信濃へ侵攻し、金刺氏・高遠氏・藤沢氏らを調略して味方につけます。三方から攻め込まれた諏訪氏はやむなく屈服し、晴信は宮川以西を高遠氏の当主・頼継に与えます。

 ところが頼継は諏訪氏の惣領の位と諏訪郡全土の支配権を要求し、藤沢氏と結んで武田領側に侵攻しました(宮川の戦い)。これに対し晴信は頼重の遺児を奉じて迎撃し、頼継は大敗を喫して高遠城へ逃げ帰ります。その後も小笠原氏らと組んで武田氏に対抗した頼継でしたが、天文14年(1545年)に高遠城も攻め落とされ(高遠合戦)、頼継は武田氏に仕えますが天文21年(1552年)に自害させられます。晴信/信玄は自らの子の勝頼に高遠氏の家督を継がせ、高遠城主に任じました。頼継の家臣であった保科正俊らは勝頼に仕え、武田氏の重臣として各地を転戦しています。

 保科氏は信濃国高井郡保科荘を本貫として平安時代から続く武家ですが、15世紀後半に村上氏との争いに敗れて高遠に移住したと推測されます。

 下伊那の中心地である飯田には鎌倉時代以来坂西ばんざい氏が地頭としており、信濃守護の小笠原氏も分家を住まわせて拠点化していましたが、信玄は天文23年(1554年)に制圧し、飯田城、大島城などを整備して下伊那の防衛を固め、美濃や三河、遠江へ侵攻する拠点としました。この頃までには小笠原氏、木曽氏らも信玄の軍門に降っています。勢いを恐れた美濃国恵那郡の豪族・遠山氏も信玄に服属し、今川氏が義元の死後に衰えると駿河・遠江・三河に侵攻、武田氏は織田信長や徳川家康を脅かす巨大な勢力となります。しかし信玄没後に長篠の戦いで打ち破られると動揺し、天正10年(1582年)の甲州征伐で崩壊することになります。

 同年に本能寺の変が起きて信長が横死し、信濃や甲斐を巡って武田の遺臣や上杉・北条・徳川ら周辺の大勢力が争うと(天正壬午の乱)、保科正俊らは北条氏に従って上伊那を奪還しますが、間もなく南から侵攻してきた徳川家康に降り、所領を安堵されます。飯田など下伊那は国衆の下条氏が家康の家臣となって抑えますが、松尾小笠原氏との領地争いに敗れ、三河出身の菅沼定利が代わって飯田城主となりました。

 天正12年(1584年)秀吉と家康の間で争いが起きると、家康は木曽を抑えようと信濃の諸将を派遣しますが失敗します。翌天正13年(1585年)に上田城主の真田昌幸が家康から離反し、家康の重臣の石川数正も秀吉のもとに出奔します。松本城主の小笠原貞慶は秀吉に寝返り高遠城に攻め寄せますが、正俊は奇策を用いて寡兵で敵軍を打ち破りました。しかし小田原征伐後に家康が関八州に転封されると、正俊らもこれに従って信濃を離れます。

 秀吉は毛利秀頼を飯田城主として伊那郡10万石を授け、飯田城と高遠城には城代が入りますが、秀頼が3年後に病没すると子の秀秋が1万石を相続し、秀頼の娘婿である京極高知が6万石を相続、翌年10万石に加増されます。関ヶ原の戦いで高知は東軍につき、戦後は丹後12万3000石に加増転封されました。代わって飯田城には小笠原秀政(貞慶の子)が5万石で入りますが、高遠城と上伊那には保科正光(正俊の孫で正直の子)が2万5000石で入りました。ここに上伊那を治める高遠藩、下伊那を治める飯田藩が成立します。

伊那藩政

高遠藩

 保科正光は徳川家からの信頼篤く、大坂の陣でも奮戦して戦功をあげ、各地の城番や江戸城の普請をつとめ、秀忠・家光の上洛にも従っています。妻は真田昌幸の娘でしたが跡継ぎがおらず、異母弟の正貞を養嗣子としていましたが、元和3年(1617年)秀忠のご落胤である幸松丸を養嗣子とします。翌年正光は筑摩郡に5000石を加増され、高遠藩は3万石となりました。正貞は廃嫡されますが幕臣となり、のち上総飯野藩主となっています。

 寛永6年(1629年)、18歳の幸松丸は異母兄の家光・忠長と対面して気に入られます。寛永8年(1631年)に正光が没すると家督を相続し、保科正之と名乗りました。彼は高遠で善政を敷きますが、寛永13年(1636年)に出羽山形藩20万石に加増転封され、7年後には陸奥国会津藩23万石に封じられます。保科家相伝の品々は正貞に譲られ、以後正之の子孫は会津松平家として幕末まで存続します。3万石から20万石余の大名に栄転したことから、高遠の領民3000人が正之を慕って出羽や陸奥に移住したといいます。

 入れ替わりで山形藩主であった鳥居忠春が3万2000石で高遠藩主となります。異母兄の忠恒が無嗣改易され、末弟の彼が家督を継いだのですが、大幅に石高を減らされてしまいました。忠春は所領を取り戻すため盛んに幕府の普請や公務をつとめ、各所へ贈物を行いますが、小藩では出費に財政規模が追いつかず、重税を課せられた百姓が木曽へ逃散する有様でした。忠春は収入を増やそうと検地を行ったものの、贅沢好きでわがままな暴君であったため恨みを買い、寛文3年(1663年)に侍医に斬り付けられて死亡しました。子の忠則が後を継ぎますが、元禄2年(1689年)家中取り締まり不足として閉門を命じられます。忠則は間もなく逝去し(自害とも)、鳥居家は改易されて能登下村藩に転封されました。

 高遠藩領は2年間幕府領となった後、元禄4年(1691年)内藤清長(晩年に清枚と改名)が3万3000石で封じられ、以後廃藩置県まで8代180年内藤家が高遠藩主として存続しました。しかし幕府の公務や普請を命じられて財政は厳しく、藩政改革も行われましたが長続きしませんでした。幕末の7代藩主頼寧は名君で、藩政改革を行ったほか幕府の若年寄もつとめています。

飯田藩

 飯田藩5万石の藩主となった小笠原秀政は、慶長18年(1613年)父祖伝来の所領があった松本藩へ8万石で加増転封されます。飯田藩領はしばらく幕府領となった後、元和3年(1617年)脇坂安元が5万5000石で入りました。

 彼は賤ケ岳七本槍の一人・脇坂安治の子で、70歳で没するまで37年間飯田を治め、掘割・城下町・街道・伝馬を整備して、藩政の基礎を築きました。養嗣子の安政(堀田正盛の次男)は家督相続の際に安元の弟・安総へ上総国の所領2000石を分け、引き続き藩政を軌道に乗せるとともに、幕府の公務を果たしています。寛文12年(1672年)播州龍野藩へ5万3000石で国替えとなり、以後脇坂家は龍野藩主として存続しました。

 代わって飯田藩主となったのは、下野国烏山藩主だった堀親昌です。祖父は信長・秀吉に仕え越前国主となった堀秀政、父は越後国蔵王堂藩主、下野国真岡藩主を経て烏山藩主となった親良です。石高は2万石で、親昌は飯田藩主となった翌年に逝去しますが、堀氏はしばしば養子をとりつつ12代200年にわたり藩主家として存続しました。

 4代藩主・親賢の時、宝永4年(1707年)丁亥に南海トラフを震源とする巨大地震宝永地震)と富士山の噴火宝永噴火)が起き、飯田藩にも大きな被害をもたらします(亥の大変)。ついで正徳5年(1715年)乙未には天竜川が大洪水を起こし、領内の4割の田畑を失います(正徳のひつじ満水)。もともと2万石の小藩に過ぎず、山間で田地も痩せている飯田藩では大打撃を受け、藩主親賢はショックのあまり病没しました。

 子の親庸が後を継ぎますがまだ8歳の少年で、家老たちが中心となって藩政を主導しますが、享保3年(1718年)には飯田の南の遠山郷(現飯田市和田)で大地震が発生し(遠山地震)、またも大きな被害を受けました。親庸は世継ぎを儲けぬままその10年後に没し、弟の親蔵が継いで16年後に没し、その子の親長が延享3年(1746年)8歳で跡を継ぎます。

 親長と彼を輔佐する家老・柳田為美は、黒須楠右衛門を普請奉行、中村惣兵衛を作事奉行として、荒れ狂う天竜川の治水を命じました。2人は現下伊那郡高森町に堤防を築き、さらに天竜井という用水路を開削して灌漑を図りました。この「惣兵衛川除」は、昭和36年(1961年)の水害(三六災害)で破壊されるまで200年余りも周辺を水害から守り、田畑を潤したのです。

 しかし2万石の小藩がこれだけの大事業を行うには、相応の資金源が必要でした。郡奉行に転任した黒須楠右衛門は財源確保のため、宝暦11年(1761年)末に「千人講会所」を設置しました。これは家中や領民に出資金を募り融通するというシステムですが、人々は負担の増加に反発し、翌年2月に打ちこわしを行って楠右衛門の罷免と千人講の廃止を求めました。やむなく親長らはそのようにし、財政改革は頓挫します。

 なお、上伊那郡片桐では名主の松村理兵衛により寛延3年(1750年)から堤防建設が始まっています。この事業は高遠藩の支援を受けて3代58年間も続けられ、近世天竜川最大の河川工事となりました。

 10代藩主・親寚ちかしげは飯田藩きっての名君で、文化6年(1809年)に起きた藩政改革反対一揆を無事に収め、幕府の要職を歴任して老中に登りつめ、水野忠邦を輔佐して天保の改革を推進しています。

竹佐陣屋

 天和元年(1681年)、尾張徳川家当主・光友の次男である松平義行は、信濃国伊那郡に1万5000石、高井郡と水内郡にあわせて1万5000石、合計3万石を授かりました。これは「高井藩」と呼ばれますが、元禄13年(1700年)に高井郡・水内郡の所領を幕府に返上して美濃国石津郡・海西郡の計1万5000石と取り替え、石津郡高須に居を構えたことから、以後は「高須藩」と呼ばれます。要は尾張徳川家(名古屋藩)の支藩で、宗家に跡継ぎが絶えた時は相続権を持ち、実際何人かの名古屋藩主を出しています。伊那郡における知行地は46か村に及び、伊那郡竹佐村(現飯田市竹佐)に陣屋が置かれ、郡代が派遣されて統治しました。

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【続く】

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