「かつて子供だった私の居場所を見つけられない」という声に感じるオトナとしてのやりきれなさ
この記事の末尾の一段落。
子どもは楽しそうに観ているし、それをとやかく言うつもりはありません。
ただ、かつて子どもだった私は、今期のプリキュアには居場所を見つけられなかった。
その事実が、少しだけしんどいのです。
なかなか強烈な一文であると同時に、本質的な指摘をしていると自分は受け取った。
成長すると飽きてくる的なテンプレは各所で出てくるものの、今や「大きなお友達」という言葉が誕生して30年以上が過ぎた今となっては時代遅れな議論と言わざるを得ない。
コレは昨年9月に藤井セイラ先生の連投及び長文noteを読んで感じたことに通じる。
製作者として親御さんに対しては「別にアンタのために作っているわけじゃないよ」という立場でしかない、と思えるかどうか、それは昔はゾーニングされていたからこそ守られていた部分もあるわけだ。
コレは単なるセンチメンタルの話に留まらない。
表現規制運動の動機付けが健全育成から体感治安にシフトしてきた中で、根本の部分にあるのは「こんなのがあってはならない」という本音である。
その感覚をさらに分解していくと、「こんな漫画、誰が読むんだろう」といった「自分は楽しめない、不快に感じるものの存在に耐えられない」という感情の存在が否定できない。
この世にあるものは、自分のために存在する、という傲慢さを感じ取ってしまう。
引用したnote記事の筆者は、傲慢な方ではないだろうから、「その事実が、少しだけしんどい」と表現されたのではないかと、お察しする。
昨年9月に拙稿で指摘したのだが、party princessやってる皆様であるとか、Bibbidi Bobbidi Boutiqueに大人サイズの衣装を置いてほしいと言う皆様は、このような壁を感じない人種なのかもしれない。
むしろ、一線を引いているからこそ、あのような主張をしているのかもしれず、そこの評価は難しい。
