京都検定試験一級を目指す|今週の学び(7月6日)「二級試験の過去問」
京都検定試験一級を目指す|今週の学び
7月6日「二級の過去問を解いてみた」(無料)
7月13日「京都府内の古墳」
7月20日「祇園祭の昭和史」
7月27日「重森三玲の庭園」
いつもご覧いただきありがとうございます。
これまで積み重ねてきた京都検定の学習記録を、メンバーシップでも共有していくことにしました。紀行文とあわせて、京都という土地をどのように読み解いているのか、その過程も一緒に楽しんでいただければ嬉しいです。
あくまで勉強の記録ですので、気負わず、ゆるく続けていければと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。
6月30日~7月6日
今週は、公式テキストを開きつつ、Gemini(AI)を使って、以下の内容をまとめました。
・京都府内の主要な古墳
・重森三玲の庭園
・宮城十二門
・大内裏
日本史は大好きなのですが、古代史だけはどうにも興味が湧かず、丸暗記しようとしても、なかなか記憶に定着しません。そこで、AIの力を借りることにしました。
作庭家・重森三玲についても、受験者自身が情報を集める必要があるため、こちらもAIを活用して情報収集を行いました。
宮城十二門は公式テキストに記載されていますが、細かな内容までは触れられていません。そのため、理解を深める目的でAIを利用しました。ウィキペディアで調べる方法もありますが、必要以上に情報量が多く、理解するまでに時間がかかってしまうのが難点ですね。
◇ ◇ ◇
AIの便利なところは、「200字程度でまとめて」というプロンプト(命令文)を入力すると、必要な情報をちょうどいい分量に整理してくれることです。京都検定一級といっても、学術論文を書くわけではありません。小論文は150~200字程度ですので、その文字数に慣れるという意味でも役立っています。
というわけで、この一週間は情報を整理することに時間を費やしました。
◇ ◇ ◇
京都検定に関する質問もどうぞ
メンバーシップ限定という形で、いただいたご質問にお答えしていきます。
プライベートに関わる内容など、一部お答えできないものもありますが、ぜひお気軽にメッセージをお寄せいただけると嬉しいです。
【特集】2級の過去問を解いてみた
結果
正解数:81問
誤答数:19問
✕:6, 9, 11, 22, 35, 39, 41, 42, 52, 58, 63, 64, 68, 78, 81, 84, 86, 87, 98
正答率:81/100(81点)
「1級試験合格を目指しているのに、81点しか取れないの?」と思われるかもしれません。その評価は甘んじて受け止めます。
2級の過去問を使って勉強するのも一つの方法ですが、四択の選択肢に頼る癖がつくと、昨年経験したような「本番で肝心のキーワードが思い出せない」という罠に陥ってしまいます。
四択問題は深追いせず、あくまで知識の網羅性を確認するための道具と割り切ることが、1級の記述式を突破するための確かな戦略と言えそうです。
◇ ◇ ◇
第27回京都検定二級試験で間違えた問題については、Geminiに解説を依頼しました。問題文の転載はできないため、正答の解説のみを出力してもらっています。
AIの解説を読んで感じたのは、誤答した問題は公式テキストに載っていないものばかりだったということです。まだまだ勉強不足だと実感しました。
二級試験にチャレンジする方へのアドバイスとしては、「公式テキストに準拠している問題は必ず正答すること!」ですね。70%以上は公式テキストから出題されるため、残り30%はヤマカンでも合格ラインに届くと思います。
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以下の解説文は、かなりの文量(一万字以上)になっています。今回の二級試験で100点、もしくはそれに近い点数を取れる人は、普通に化物です。
ちなみに、以下のAIによる解説には、事実と異なる内容が含まれている場合があります。正しい解説を知りたい方は、公式の過去問題集をご購入ください。
Geminiによる解答解説
(6)正解は、『京都所司代』の初代を務めた『板倉勝重』です。
慶長7年(1602年)、徳川家康が自らの京都の宿館、および天皇の住まう御所の守護を目的として二条城(現在の元離宮二条城)の築城を決定した際、その造営の総責任者(総奉行)として一切の指揮を執ったのが、家康からの信任が極めて厚かった板倉勝重です。
1. 総奉行としての大仕事と二条城の完成
二条城の建設は、西国大名たちに労働力や資材を負担させる「天下普請」の形式がとられたため、非常に大規模で複雑なプロジェクトでした。
作事奉行との連携 総奉行である勝重は、実務や建築のデザイン、大工たちの差配を担当した作事奉行の中井正清らと緊密に連携を取りながら、驚異的なスピードで工事を進めました。
慶長8年(1603年)の完成 翌慶長8年の3月には見事に御殿が完成し、家康は出来上がったばかりの二条城に入城して、天皇からの「征夷大将軍」の宣下を受ける拝賀の式典を執り行いました。
2. 京都所司代としての名裁きと統治
板倉勝重は、築城の総奉行を務めると同時に、京都の治安維持、朝廷や公家の監視、あるいは西国大名の動向を睨む幕府の最高機関「京都所司代」の初代として、長く京都の街を治めました。
「板倉政要」に遺る名判官 勝重は非常に理知的で公正な人物であり、数々の難事件を鮮やかな知恵で解決したことから、後世に『板倉政要』という裁判記録・逸話集が作られるほど、京都の町衆からも「名奉行」として深く慕われました。息子の板倉重宗も2代目所司代を継ぎ、親子2代で初期の江戸幕府による京都統治の基礎を盤石なものにしました。
「二条城の造営総奉行」「初代京都所司代」という、徳川幕府による京都支配の幕開けを象徴する重要な人物が出たら、迷わず板倉勝重の名前を導き出せるように、作事奉行の中井正清とセットで記憶を完璧にしていきましょう。
(9)正解は『印刷(近代活版印刷)』の発祥です。
明治3年(1870年)に烏丸御池の地に設立された「點林堂」は、京都における近代活版印刷の先駆を付けた場所であり、烏丸御池駅構内にある記念碑(銘板)は、まさに京都の近代印刷業の発祥を記念して建立されたものです。
1. 槇村正直の勧業政策と「點林堂」の設立
明治維新による事実上の東京遷都によって、人口が激減し、活力を失いかけた京都を復興させるため、京都府大参事(のちの知事)の槇村正直は、強力な近代化政策(勧業政策)を推し進めました。
情報の発信や教育の普及、産業の育成には「印刷技術の近代化」が不可欠であると考えた槇村は、明治3年(1870年)、烏丸御池上る(現在の御池通両替町付近)に、官許の印刷・出版会社である「點林堂」を設立させました。
2. 京都における近代活版印刷の幕開け
それまでの京都の印刷は、伝統的な「木版印刷(整版)」が主流でしたが、點林堂は京都でいち早く近代的な「金属活版印刷」の技術を導入しました。
本木昌造の門下生を招聘 長崎で日本近代活版印刷の祖である本木昌造に学び、大阪で活版伝習所を開いていた陽其二(陽山)の門下生などを京都に招き入れ、最新の鋳造技術や印刷技術を導入したのです。
知のインフラとしての貢献 點林堂は、京都府の布告(公文書)の印刷を引き受けたほか、明治2年に一斉に開校していた日本初の学区制小学校「番組小学校」で使用する教科書や教材、そして京都初の新聞などの印刷を一手に担いました。これにより、京都の教育と文化の近代化は大いに加速することとなりました。
3. 地下鉄烏丸御池駅の記念碑
現在、京都市営地下鉄烏丸御池駅の改札内コンコースには、この歴史を顕彰する「京都の近代印刷発祥の地」の記念銘板(モニュメント)が設置されています。
明治時代、御池通周辺にはこの點林堂をはじめ、京都府の「勧業場」などが次々と置かれ、京都の近代化を牽引する産業の一大中心地でした。烏丸御池駅の記念碑は、そうした先人たちの挑戦と、京都が誇る印刷文化のルーツを今に伝えているのです。
「烏丸御池駅構内のコンコースの記念碑」「明治3年の點林堂」「近代化の発祥」という、明治期の産業史・文化史をピンポイントで突いてくる問題が出題されたら、自信を持って印刷(または近代活版印刷)の語句を導き出せるように、記憶を完全に上書きしておいてくださいね。
(11)正解は、『若一神社』です。
京都府京都市下京区西大路八条に位置し、平清盛ゆかりの史跡として、また境内にそびえる巨大なくすのき(大楠)で広く知られています。
1. 西八条殿の跡地
この場所は、平清盛がその全盛期に広大な邸宅を営んだ「西八条殿」の跡地の一部にあたります。仁安元年(1166年)、清盛がこの地で紀州の熊野権現を勧請し、若一王子を祀ったのが神社の始まりとされています。
2. 平清盛公御手植の大楠
境内(西大路通に面した場所)にある大楠は、仁安2年(1167年)に清盛が太政大臣に任ぜられた際、その感謝の意を込めて自ら植えたものと伝えられています。樹齢は800年を超え、京都市の保存樹にも指定されています。
3. 西大路通の蛇行と大楠の逸話
昭和14年(1939年)、京都市による西大路通の拡幅工事および市電の延伸計画の際、この大楠の伐採が計画されました。しかし、工事関係者に次々と不幸や奇妙な事故が起きたことから、「清盛公の祟り」として恐れられ、伐採は中止されました。そのため、道路は計画を変更して大楠を避けるように不自然に大きくカーブして造られ、現在もその名残で道路が蛇行しています。
「平清盛ゆかりの神社」「西八条殿の跡地」「御手植の大楠」「西大路通の蛇行」というディテールが揃ったら、迷わず若一神社を導き出せるように整理しておきましょう。
(22)正解は、『龍吟庵』です。
京都市東山区にある臨済宗大本山・東福寺の塔頭の一つであり、日本の建築史・禅宗文化を紐解く上で極めて重要な国宝建造物を有しています。
1. 日本に現存する最古の方丈建築
東福寺の第三世住持である大明国師(無関普門)の住居跡として建てられた塔頭です。 その本堂にあたる「方丈」は、室町時代初期の嘉慶元年(1387年)に建立されたもので、日本に現存する最古の方丈建築として国宝に指定されています。
2. 建築としての特徴
一重、入母屋造、柿葺の建物です。正面に蔀戸を用いるなど、近世の標準的な方丈形式が確立する前の、寝殿造の面影を強く残した書院造との融合様式を今に伝えています。中央前面の部屋(室中)の正面が壁になっており、仏壇を設けないなど、古式ならではの非常に貴重な構造が特徴です。
3. 昭和の名作庭家・重森三玲による三庭
方丈を取り囲むように、昭和を代表する作庭家・重森三玲《しげもりみれい》によって作庭された、それぞれ趣の異なる3つの枯山水庭園があります。
南庭(無の庭):白砂を敷き詰めただけの、禅の境地を表現した庭。
西庭(龍の庭):寺号にちなみ、黒砂と石組みで海の中から黒雲を巻き起こして昇天する龍の姿を描いた、アヴァンギャルドな名庭。
東庭(不離の庭):鞍馬の赤石を配し、大明国師が幼少期に熱病で山に捨てられた際、2匹の犬が狼から国師を守ったという伝説を表現した庭。
(35)正解は、『志野流』です。
室町時代、東山文化の中心であった八代将軍・足利義政の命により、将軍家が所持していた膨大な名香を分類し、公家の三条西実隆が所持していた名香と合わせて精選し、「六十一種名香」を定めた志野宗信を流祖とする、武家を祖とした流派です。
1. 志野流の誕生と「六十一種名香」の選定
室町幕府の八代将軍・足利義政は、茶道や華道、香道などの諸芸を体系化し、東山文化を築き上げました。その義政の側近(同朋衆など)として香の鑑賞・作法の構築に深く関わったのが、武家出身の志野宗信です。
名香の精選 宗信は、義政から将軍家所持の名香(佐々木道誉らが収集したものなど)180種の分類を命じられました。さらに、公家の三条西実隆が所持していた66種の名香を合わせ、それらの中からさらに厳選、追加、入れ替えを行うことで、香木の絶対的な規範となる「六十一種名香」を定めました。この中には、天下の名香として名高い「蘭奢待(東大寺)」なども含まれています。
六国五味の確立 宗信は、この選定の過程で、香木をその性質や産地によって6つの種類(伽羅、羅国、真那賀、真南蛮、寸聞多羅、佐曽羅)に分類し、味覚に例えた5つの味わい(甘、酸、辛、苦、鹹)で鑑賞する「六国五味」の判別法を極め、香道の基盤を創り上げました。
2. 香道の二大流派:「志野流」と「御家流」
香道には、今日まで受け継がれている大きな二大流派があります。出題の「武家を祖とする」という特徴と対比して覚えておくと万全です。
志野流(武家の流派) 志野宗信を祖とします。道具は木地(漆などを塗らない自然の木目)の「志野棚」などを用い、簡素でありながらも厳格で、精神鍛錬を重んじる武家らしい直線的で引き締まった手前作法が特徴です。
御家流(公家の流派) 志野宗信とも交流が深く、ともに香道の体系化に尽力した公家の大臣・三条西実隆を祖とします。華麗な蒔絵の香道具を用い、和歌や古典文学の素養を背景に、優雅で伸びやかに香りを楽しむ、貴族・公家らしい伝統を今に伝えています。
(39)正解は、『三ツ輪座』(正式名称:宮川町歌舞練場三ツ輪座)です。
2025年に建て替え工事が完了(同11月にこけら落とし)した新・宮川町歌舞練場内の劇場であり、宮川町のシンボルである紋章「三つ輪」にちなんで命名されました。
1. 新劇場「三ツ輪座」の誕生と特徴
老朽化に伴う再開発プロジェクトにより、世界的な建築家・隈研吾氏の設計監修のもと、元新道小学校跡地とともに一体的に整備され、2025年に生まれ変わりました。
伝統の継承とデザイン 旧歌舞練場のシンボルであった力強い大屋根の形状をそのまま継承し、正面エントランスには大正時代の歌舞練場に存在した「唐破風」の屋根が復元されています。伝統的な佇まいと、隈研吾氏ならではの和モダンな現代建築が見事に融合した空間です。
劇場の構造 地下1階(1階席)と地上1階(2階席)で構成されるホール「三ツ輪座」は、旧劇場のキャパシティをほぼ維持した全483席(車椅子席含む)となっています。春の風物詩である「京おどり」などの伝統芸能の公演はもちろん、クラシックコンサートなど幅広いジャンルに対応できる最新の設備を備えています。
多目的空間「花心庵」 歌舞練場の2階には、展示会、講座、研修会、お茶席などのレセプションに活用できる約80㎡の多目的スペース「花心庵」も併設されています。
2. 宮川町の紋章「三つ輪」の由来
劇場名の由来となった宮川町の紋章「三つ輪」は、明治時代中期、芸妓の育成機関であった女紅場が京都府立となった際、「社寺・町家・花街」の三者が結束・合流して学校施設を創設した記念として考案されたと伝えられています。また、八坂神社(祇園社)の三基の神輿を表すという説や、地名の「宮川」の「みや」に語呂を合わせたという説もあります。
(41)正解は、『天龍寺』です。
臨済宗天龍寺派大本山である天龍寺(京都市右京区嵯峨)では、毎年2月3日の節分会に合わせて、境内の塔頭七ヶ寺を巡る伝統的な「七福神巡り」が行われます。
独自の「七福神」構成
天龍寺の七福神は、一般的な組み合わせ(布袋尊・寿老人を含むもの)とは少し異なり、布袋尊と寿老人の代わりに「不動明王」と「稲荷」が含まれているのが大きな特徴です。
福笹とお札の巡礼
参拝者はまず総門前で絵馬のついた「福笹」を受け取り、境内を囲むように並ぶ以下の七つの塔頭を順に参拝します。各塔頭でそれぞれお札(短冊)を授与され、福笹に結び付けながら巡拝していきます。

掛け声は「福は内」のみ
すべての塔頭を巡り終えると、豪華な景品があたる空くじなしの大福引きに挑戦できます。また、法堂前で行われる特設舞台からの豆まきでは、「天龍寺には鬼がいない(鬼は居つかない)」という信仰に基づき、「鬼は外」は言わず「福は内、福は内」の掛け声のみで豆が撒かれることでも有名です。
(42)正解は、『積善院(積善院凖提堂)』です。
京都市左京区聖護院中町にある本山修験宗の寺院(聖護院の塔頭)であり、毎年2月23日に「五大力さん」の愛称で親しまれる大祭が盛大に営まれます。
1. 2月23日の「五大力尊春季大祭」
毎年2月23日、積善院にて五大力菩薩(秘仏の五大明王像)が開帳され、一年の災難除け、特に「盗難除け」を祈願する法要が行われます。当日は全国から山伏(修験者)が集結し、堂内および境内で大々的な祈祷を捧げます。
2. 山伏による豪快な「柱源断食護摩供」
境内に特設された護摩壇で、山伏たちが呪文を唱えながら薪を投げ入れる豪快な「柱源護摩」が厳修されます。燃え盛る炎に祈りを捧げる山伏の姿を一目見ようと、多くの参拝者で境内が埋め尽くされます。また、参拝者には名物の「粕汁」が振る舞われることでも有名です。
3. 崇徳上皇の慰霊を起源とする「ひとくい地蔵」
境内に祀られている「ひとくい地蔵」の本来の名称は「崇徳院地蔵」です。 崇徳上皇の崩御(保元の乱による讃岐への配流後)の後、京都では大火や疫病、飢饉が相次ぎ、平清盛までもが世を去りました。これらをすべて上皇の祟りであると恐れた都人が、その御霊を慰めるために建立したのがこの地蔵尊です。 後世になり、その読み方である「すとくいんじぞう」が訛って「ひとくいじぞう」と呼ばれるようになりました。もともとは別の場所に安置されていましたが、1899年(明治32年)、京都帝国大学付属病院の建設に伴って現在の積善院へと移転されました。
(52)正解は、『里芋』(またはハス芋、唐芋などサトイモ科の植物)です。
京都の夏の食卓や祇園祭の時期(7月)にかかせない代表的なおばんざい「ずいきの炊いたん」は、里芋などの葉柄(葉と茎をつなぐ柄の部分)を乾燥させたり、生のまま用いたりしたものです。
1. 「ずいき」の種類と京都の食文化
ずいきには大きく分けて「赤ずいき」「白ずいき」「青ずいき」などの種類があり、京都ではそれぞれ特徴を活かした調理法で親しまれています。
赤ずいき
一般的な里芋や八つ頭の葉柄で、赤紫色をしています。夏におばんざいとしてよく作られる「ずいきの炊いたん」や、酢の物(酢を入れると鮮やかな赤色に発色します)によく使われます。
白ずいき(新茶屋ずいきなど)
栽培の際に遮光して白く育てた高級品で、主に料亭などで使われます。初夏から夏にかけて、冷やし物や吉野煮などで涼味を演出します。
青ずいき(ハス芋)
サトイモ科のハス芋の葉柄で、全体が緑色をしています。シャキシャキとした食感が特徴で、生で酢の物や和え物、汁物の具にされます。
2. 行事食としての「ずいき」
ずいきは、単なる日常のおばんざいとしてだけでなく、京都の重要な年中行事とも深く結びついています。
祇園祭の行事食(7月)
ずいきは「お腹を掃除する」と言われ、古くから夏バテ防止の薬効があると信じられてきました。そのため、京都の町衆は7月の祇園祭の期間中、暑さを乗り切るための滋養強壮として「ずいきの炊いたん」を好んで食べます。
北野天満宮の「ずいき祭」(10月)
秋(10月1日〜5日)に行われる北野天満宮の「ずいき祭」では、神輿の屋根がずいき(乾燥させた赤ずいきなど)で葺かれ、胴体や五色の鈴なども様々な野菜や果物、穀物で飾られた「ずいき御輿」が巡行することで非常に有名です。
(58)正解は、『ヤスケナイ(安気ない)』です。
京ことばで「品がない」「下品である」「格調が低い」という意味を表し、「コートナ」や「ハンナリ」といった上品さを表す言葉の対極に位置する表現です。
「コートナ(地味で上品)」や「ハンナリ(上品で明るい)」が洗練された美意識や気品を褒める言葉であるのに対し、「やすけない」は「品がない」「安っぽい」「下品で格調が低い」という、品格の欠如を指摘する際に使われる京ことばです。
語源とニュアンス
漢字では「安気ない」などと当てられます。単に価格が安いという意味にとどまらず、見た目や言動、雰囲気が「安っぽくて落ち着きがない」「品位が感じられない」という、京都ならではの厳しい審美眼が含まれた表現です。
対比される表現
コートナ:公徳な。控えめで、玄人好みのする渋い上品さ。
ハンナリ:華なり。陽気で、パッと花が開いたような華やかな上品さ。
ヤスケナイ:それらの洗練された情緒がなく、粗野で品格に欠ける様子。
このように、京都の言葉には「上品さ」のグラデーションを繊細に表現する言葉がある一方で、それに値しないものを「ヤスケナイ」と一喝する独自の文化が息づいています。
(63)正解は、『立岩』です。
京都府京丹後市丹後町間人の竹野川河口にそびえる、周囲約1km、高さ約20mの巨大な一枚岩(巨岩)です。京都府指定文化財(天然記念物及び名勝)に指定されており、山陰海岸ユネスコ世界ジオパークを代表する見どころの一つとなっています。
1. 地質学的な特徴と景観
今から約1,500万年前(中新世)に、地下から上昇してきたマグマが冷えて固まってできた普通輝石安山岩の岩床です。その後の長い年月をかけた侵食によって周囲の柔らかい岩石が削り取られ、この硬い岩だけが残されました。 岩肌には、マグマが冷却・収縮する際に形成された、見事な垂直方向の「柱状節理」が直線的に発達しています。また、竹野川が運んできた白い砂が砂州となり、陸地と離れ島であった立岩を繋いだ「トンボロ(陸繋砂州)」の地形を形成しており、黒々とした岩肌と白い砂浜、日本海のコントラストが美しい名勝地です。
2. 麿子親王の鬼退治伝説
立岩には、聖徳太子の異母弟(または生母の第三皇子)にあたる麿子親王の鬼退治伝説が残されています。 親王がこの地で鰾古・軽足・土車という3匹の鬼を退治した際、土車をみせしめとしてこの大岩に封じ込めたと伝えられています。そのため、今でも強風が吹き荒れ波が高い夜などには、岩の底から鬼の泣き声が聞こえてくるという言い伝えが残っています。
(64)正解は、『チマキザサ(粽笹)』です。
京都市左京区の花脊や広河原といった北山間地域に自生するササの一種で、祇園祭の各山鉾で授与される代表的なお守り「厄除け粽」を巻く材料として古くから使われてきました。
1. 特徴と京都北山(花脊)の恵み
チマキザサは、北海道から本州の日本海側などの山地に生育するイネ科の植物です。
特に京都の洛北・花脊地域などに自生するものは、「香りが非常に良い」「葉の裏に毛がないため加工がしやすい」という優れた特徴を持っています。そのため、古くから祇園祭の厄除け粽をはじめ、和菓子を包む笹や、京料理に添える敷笹として最高級のデザイン・品質を誇り、重宝されてきました。
2. 祇園祭を支える伝統と課題
祇園祭の期間中、各山鉾の会所で買い求められる「厄除け粽」は、疫病退散や災難除けとして京都の家々の玄関先に1年間吊るされる伝統的な授与品です。
この粽を巻くために、毎年何十万枚ものチマキザサの葉が花脊などの山林から採取されてきましたが、近年はニホンジカによる食害や林業の衰退、気候変動などによって自生数が激減し、深刻な深刻なササ不足に直面しています。
3. 「ほんまもん」を守るための取り組み
京都の伝統文化である「地元のササで巻いた厄除け粽」を守るため、現在では保存会や市民、地域住民が一体となり、シカの侵入を防ぐ防護ネットの設置、チマキザサの植樹や育成、ボランティアによる採取体験ツアーといった持続可能な保護活動が活発に行われています。
(68)正解は、『京瓦』です。
関西パビリオンの京都ゾーン(京都府出展)では、空間デザインの基調として、京都の伝統産業であり建築文化を支えてきた「京瓦」の技術を用いた陶板(タイル)が、床から壁面、什器にいたるまで張り巡らされました。
2025年の大阪・関西万博において、関西パビリオン内に設けられた京都ゾーンでは、「1200年の智慧から紡ぐ未来」をテーマに掲げ、空間のベースとなる床や壁面に京都の伝統産業である「京瓦」の素材と技術を大胆に取り入れました。
職人の技による特製タイル 京瓦の最大の特徴である、奥深い銀色の輝きを放つ「いぶし瓦」の技術がベースとなっています。この空間のために職人の手によって一枚一枚丁寧に焼き上げられた特製の瓦タイル(陶板)が、床から壁面、展示台の側面にまで敷き詰められました。
伝統の「いぶし銀」が魅せる現代美 京瓦が持つ独特の「いぶし銀」の質感と、現代的なグラデーションやエッジの効いたデザインが融合し、伝統を未来へとつなぐ京都らしい重厚かつ洗練された空間を演出しました。
持続可能性(サステナビリティ)の象徴 京都の町家や社寺の屋根を守ってきた京瓦は、天然の粘土を原料とし、気候風土に耐える高い耐久性を持っています。万博のテーマであるSDGs(持続可能な開発目標)の精神にも合致する、京都の知恵を世界に伝える重要なシンボルとして活用されました。
(78)正解は、『愛染明王』です。
京都市左京区岡崎にある細見美術館は、平安時代後期(12世紀)に描かれた、絹本著色の「愛染明王像」(重要文化財)を所蔵しています。
現存最古の確証的な図像
愛染明王は、平安時代に密教の「愛染王法(敬愛・縁結びや厄除けの修法)」が盛んになるにつれて盛んに信仰されるようになりました。細見美術館のものは、端正な格調と平安仏画ならではの繊細な美しさを残す、現存最古の作例として非常に有名です。
表現の美しさ
一面三目六臂(一つの顔、三つの目、六本の腕)の憤怒相でありながら、どこか気品を漂わせる表情や、朱色の肉身、鮮やかな彩色、そして着衣に施された繊細な「截金」文様など、平安後期の優れた宮廷的・貴族的な美意識が細部にまで息づいています。
細見コレクションの柱
細見美術館の礎となった細見家三代(古香庵・東念・博)のコレクションは、もともと優れた日本の仏教・神道美術の収集から始まっており、この「愛染明王像」はその歴史的な質の高さを象徴する至高の名宝の一つです。
(81)正解は、『オニバス』です。
2025年(令和7年)に市政施行70周年を迎えた亀岡市では、市民の郷土愛を深め、豊かな自然環境を次世代へ継承することを目的に、新たな「市の草花」の選定を行いました。その結果、同年10月に「キキョウ」とともに、平の沢池に自生していることで広く知られる「オニバス」が正式に選ばれました。
1. 市政70周年における選定の背景
亀岡市はこれまで「市の花」として「ツツジ」を制定していましたが、市政70周年の節目に、より地域に根差した歴史や自然を象徴する草花を「市の草花」として新たに選定しました。
明智光秀の家紋「水色桔梗」や谷性寺(ききょう寺)にちなんだ「キキョウ」と、地域の貴重な自然遺産である「オニバス」の2つが選ばれています。
2. 平の沢池のオニバス自生地
亀岡市大井町にある「平の沢池」は、中池・上池・下池の3つからなる広大なため池で、「関西の棚田百選」にも選ばれている美しい田園地帯に位置しています。
ここに自生するオニバス(スイレン科の一年草)は、京都府内で唯一の野生の自生地として極めて貴重な存在です。京都府のレッドデータブックで絶滅危惧種(絶滅寸前種)に指定されているほか、亀岡市の天然記念物にも指定されています。
3. オニバスの特徴
オニバスは日本在来の浮葉植物で、夏(8月〜9月頃)になると、表面に鋭いトゲが密集した巨大な丸い葉を水面に広げます。大きなものは葉の直径が2メートル近くに達することもあります。その葉を突き破るようにして、紫色の神秘的な花を咲かせるのが特徴です。
平の沢池では、地域住民や保存会による外来種の駆除や水質保全といった懸命な保護活動によって、この貴重な姿が現在も守り伝えられています。
(84)正解は、『琴滝』です。
京都府船井郡京丹波町市森にある、落差約43メートルの京都府内最大級の滝です。
1. 名前の由来と景観
巨大な一枚岩の岩肌を、13弦の琴の糸のように優美に水が流れ落ちる様子からその名が付けられました。周囲は深い緑に囲まれており、静寂の中に響く滝の音が大変美しい名勝地です。
2. 「京都の自然200選」に選定
京丹波町を代表する自然景観として「京都の自然200選」に選ばれており、滝へと続く遊歩道も整備されています。近隣にある京都府唯一の「質志鍾乳洞」とともに、森の京都・京丹波町の豊かな自然を体感できる人気スポットとなっています。
(86)正解は、『元伊勢内宮皇大神社』(または単に皇大神社)です。
京都府福知山市大江町(旧加佐郡大江町)に鎮座する神社で、三重県の伊勢神宮(内宮)が現在の地に遷座するよりも前に、一時的に天照大神を祀ったとされる「元伊勢」の伝承地の一つとして非常に高い格調を誇ります。
1. 日室ヶ岳(ひむろがたけ)を神体山とする信仰
皇大神社から遥拝できる場所にそびえる日室ヶ岳(標高約407m)は、その見事な円錐形の美しい姿から「大江町のピラミッド」とも称される霊峰です。
一願成就の神体山
日室ヶ岳そのものが神の宿る山(神体山)として古くから信仰されており、禁足地(立ち入り禁止の聖域)とされてきました。たった一つだけ願い事を叶えてくれる「一願成就の山」としても広く信仰を集めています。
夏至の太陽の信仰
夏至の日には、皇大神社境内にある遥拝所の正面(日室ヶ岳の山頂)にちょうど太陽が沈んでいくという神秘的な景観が見られます。この太陽と山の位置関係から、古代から続く太陽信仰や巨石・山岳信仰の聖地であったと考えられています。
黒木の鳥居
皇大神社には、樹皮がついたままの丸太(杉の木)を組んで作られた、日本最古の鳥居の様式を残す「黒木の鳥居」が立っていることでも有名です。
2. 福知山市が展開する「食」の観光振興
大江町を包括する福知山市は、豊かな歴史や自然だけでなく、近年は「食」をテーマにした観光ブランドの確立に非常に力を入れています。
「スイーツのまち福知山」
福知山は、かつて由良川の水運を利用した流通の拠点であり、古くから丹波の豊かな特産品(丹波栗、丹波黒豆など)が集まる場所でした。そのため菓子文化が大きく発展し、名物の「からすの卵」をはじめとする和菓子から、世界的なパティシエ(世界チョコレートコンテストの総合優勝者など)を輩出するにいたるまで、ハイレベルな洋菓子店・カフェが密集する「スイーツのまち」として全国に発信しています。
「肉のまち福知山」
福知山市は、明治・大正期から牛や馬の市場(家畜市場)が非常に栄えた歴史を持っています。そのため、現在でも市内には良質な焼肉店や精肉店、肉料理を提供する飲食店が非常に多く存在します。京都府北部を代表する「肉のまち」として、ブランド牛である「丹波牛」の提供や、多彩な肉グルメのイベントなどを通じた観光振興が展開されています。
(87)正解は、『君尾山』です。
京都府綾部市にある標高582mの山で、山頂近くに国宝の二王門を持つ真言宗醍醐派の古刹「光明寺」が佇んでいます。その境内から山林へと続く参道・林道の先に、樹齢2,000年とも伝わる京都府指定天然記念物の巨木「君尾山のトチノキ(別名:光明寺の『幻の大トチ』)」が自生しています。
京都府第一位の巨木
この大トチは、主幹の周囲が約10.4メートル、樹高が約23メートルに達し、トチノキとしては京都府下で最大、全国でも第4位の規模を誇る圧倒的な巨木です。古くから地元では「樹齢2,000年」とも言い伝えられ、長きにわたり君尾山の豊かな森のシンボルとして息づいてきました。
「幻」と呼ばれる由縁
かつては林道からさらに道なき急斜面(けもの道)を下った深い沢のそばにひっそりと佇んでいたため、容易に辿り着けないことから「幻の大トチ」と称されるようになりました(現在は周囲の遊歩道や案内看板、安全のためのロープなどが整備されています)。
国宝・光明寺二王門と巨樹の森
聖徳太子による創建と伝わる光明寺の周辺は、大トチだけでなく、幹周り9メートルを超えるモミの巨木やカツラの大木が群生する神秘的な「巨樹の森」が広がっています。また、鎌倉時代(1248年)に建立され、京都府北部(丹波・丹後地域)で唯一の国宝建築物である「光明寺二王門(二王像は重要文化財)」とともに、森の京都・綾部市を代表する貴重な歴史・自然遺産となっています。
(98)正解は、『醍醐寺』です。
京都市営地下鉄東西線の各駅で流れる発車合図(発車メロディ)は、古都京都を強く意識した和のテイストを取り入れて作曲されています。
下り(太秦天神川方面行き)ホームで流れる楽曲は、東西線の沿線(醍醐駅近郊)にある真言宗醍醐派総本山の門跡寺院・醍醐寺を舞台としており、その曲名もずばり「醍醐寺の鶯」です。静寂な寺院の境内にたたずむ樹木の梢で、うぐいすが美しく鳴く情景が、琴のような繊細な旋律と可憐なうぐいすの鳴き声を交えて情緒豊かに表現されています。
参考:東西線の発車合図楽曲
東西線(および御陵駅)では、ホームや行き先、路線の分岐に合わせて4種類の美しい発車メロディが使い分けられています。
醍醐寺の鶯(うぐいす)
各駅の下り(太秦天神川方面)ホームで使用。醍醐駅近くの醍醐寺の梢にとまるうぐいすをイメージ。
古都の朝靄(あさもや)
各駅の上り(六地蔵方面)ホームで使用。とばりのように京の街並みへと静かに降りてくる、幻想的な朝靄の印象をモチーフにした楽曲。
春開き(はるびらき)
御陵駅の2番のりば(京阪京津線から直通する太秦天神川方面行き)で使用。日本庭園などの「水琴窟」の音をベースに、京都の穏やかな春の訪れをイメージした楽曲。
詩仙堂猪脅し(ししおどし)
御陵駅の4番のりば(京阪京津線・びわ湖浜大津方面行き)で使用。左京区一乗寺にある詩仙堂

『勉強記録』応募作品の中でスキの週間一位を獲得しました。皆様ありがとうございます。感謝!!
《了》
