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深淵の大魔道士 第10話「星降る祠と百年の恋」|創作大賞2026|ファンタジー小説部門|ライトノベル|ラノベ


黒龍の森の奥で、白い光が瞬いた。

炎のように燃える光ではない。
雷のように空を裂く光でもない。

もっと静かで、もっと薄くて、けれど確かにそこにある光。

闇の中で、誰かがずっと灯し続けていた小さな祈りのような光だった。

「……ヒュンケル」

ハイネ・ベルセルクの声は、ほとんど息だった。

フラワー・マンディは、思わずハイネを見た。

いつもの眠たげな顔ではない。
深淵を開く時の、冷たい顔でもない。

黒い魔導書を抱える指先が、わずかに震えている。

その姿は、強大な深淵の大魔道士というより、長いあいだ閉じ込めていた名前を、ようやく口にしてしまった人のようだった。

胸元の不死鳥も、静かに森の奥を見つめていた。

シャムが尻尾を揺らす。

「光の祠が目を覚ましたね」

「目を覚ました?」

「ただの建物じゃない。そこにいる者の意志と、光そのものが結びついている。今は、迎える気になった」

フラワーは胸元の鞄に手を添えた。

中にあるサクラのフルートが、かすかに温かい。

それはサクラの聖域で聞いた春の音とは違っていた。
もっと静かで、もっと遠い。

けれど、どこか似ている。

誰かが誰かを待ち続けている場所の音。

以蔵は、刀の柄に触れそうになった手を下ろした。

「光の祠、か。俺のようなものが行っていい場所には思えないな」

シャムが振り返る。

「そう思えるなら、まだ入る資格はあるよ」

「嫌な猫だ」

「褒め言葉として受け取っておく」

ハイネは何も言わず、白い光の方へ歩き出した。

森は少しずつ変わっていった。

湿った土の匂いも、古い木の根も、黒龍たちの気配も消えたわけではない。

けれど、木々の隙間から射し込む光が、足元の苔を淡く照らしていた。

光は強くない。
むしろ、頼りないほど細い。

それでも、不思議と道を見失わなかった。

「光って、明るくするものだと思っていました」

フラワーが呟く。

シャムは前を歩きながら答えた。

「それも間違いじゃない。でも眩しすぎる光は、目を閉じさせる」

「……目を閉じさせる」

「本当に必要な光は、見えなくなった足元だけを、そっと照らすくらいでいい」

フラワーは、その言葉を胸の中で繰り返した。

闇を消し去るのではなく、闇の中で道を失わないようにする。

光の意味が、少しだけ変わっていく。

やがて、森が開けた。

そこには、小さな祠があった。

石造りの古い祠。
蔦に覆われ、苔に包まれ、長い年月の中で森の一部になったような場所だった。

けれど、朽ちてはいない。

中央には白い石段があり、その奥に淡い光を宿した扉がある。

祠の周囲には、白い花が咲いていた。

サクラの聖域に咲いていた花とは違う。
もっと小さく、もっと静かな花。

朝靄の中でしか咲かないような、薄く透き通った白。

フラワーは息を呑んだ。

「きれい……」

ラビーも、以蔵も、しばらく言葉を失っていた。

シャムは石段の前で足を止める。

「ここから先は、静かに」

「シャムも静かにできるんですね」

ハイネが言う。

「君が今それを言うのかい」

声は小さかった。

ハイネは祠を見上げる。

その横顔を見て、フラワーは胸が締めつけられた。

ハイネは怖がっている。

黒龍の前でも、フレアの前でも、深淵の前でも見せなかった種類の揺れ。

会いたい。
でも、会うのが怖い。

そんな感情が、黒いローブの内側で小さく震えているように見えた。

「ハイネさん」

フラワーがそっと呼ぶ。

ハイネは振り返らなかった。

「……だいじょうぶです」

「何も聞いてません」

「先に答えただけです」

「その答え、やっぱり信用できません」

ハイネは少し黙った。

それから、小さく息を吐く。

「……そうですね。大丈夫では、ないかもしれません」

珍しく、否定しなかった。

ラビーが目を細める。

「なら、戻りますの?」

ハイネは首を振った。

「戻りません」

「でしょうね。あなたは、そういう人ですもの」

ハイネは石段へ足をかけた。

一段。
また一段。

近づくたびに、祠の光がほんの少し強くなる。

けれど、それは拒む光ではなかった。
責める光でもない。

ただ、待っていた人が、ようやく目を開けるような光。

扉の前で、ハイネは足を止めた。

手を伸ばす。

けれど、触れる直前で止まる。

その指先は、震えていた。

「百年も経っているのに」

ハイネが小さく呟く。

「まだ、怖いんですね」

誰も答えなかった。

ハイネは、ゆっくり扉に触れた。

その瞬間、祠の中から白い光が溢れた。

強くはない。

けれど、あまりにも深い光だった。

扉が、音もなく開く。

祠の中は、外から見たよりもずっと奥行きがあった。

床には白い石が敷かれ、壁には古い光の術式が幾重にも刻まれている。

天井から垂れた細い光の糸は、祠の中央へ集まっていた。

そこには、水面のように静かな光の池がある。

その池の上に、一人の青年が立っていた。

淡い金色の髪。
白に近い衣。
青金色の瞳。

若く見える。

けれど、その身体の輪郭は、ところどころ光の粒にほどけていた。

人でありながら、人ではない。
まだそこにいるのに、もう半分はこの世の外へ行ってしまっているような存在。

青年は、ハイネを見ていた。

長い沈黙が落ちる。

フラワーは、息をするのも忘れた。

青年が、ゆっくり微笑む。

「久しぶり」

その声は、光の水面に落ちる一滴みたいだった。

ハイネは動かなかった。

黒い魔導書を抱えたまま、ただ立ち尽くしている。

青年は、少し困ったように笑った。

「百年もあれば、少しは背が伸びると思っていたんだけど」

ハイネの唇が、わずかに震える。

「……伸びません」

「髪は伸びたね」

「百年もあれば、伸びます」

「でも、相変わらず寝癖がつきやすそうだ」

「……そこは見なくていいです」

あまりにも普通の会話だった。

百年ぶりの再会とは思えないほど、何気ない。

けれど、普通だからこそ痛かった。

百年分の言葉をぶつけるのではなく。
会えなかった時間を責めるのでもなく。

ただ、昔の続きのように話している。

それが、どれほど切実なことなのか、フラワーにも分かってしまった。

青年――ヒュンケルは、ハイネへ一歩近づいた。

足元の光の池が、波紋を広げる。

「ハイネ」

名前を呼ばれた瞬間、ハイネの肩が小さく揺れた。

「来てくれたんだね」

ハイネは、すぐには答えなかった。

やがて、小さく言う。

「フラワーさんと、ラビーさんに光を学ばせる必要があったので」

「うん」

「黒龍の森を抜ける必要がありました」

「うん」

「だから、来ただけです」

「うん」

ヒュンケルは、ただ頷いていた。

ハイネの言い訳を、全部分かった上で聞いているように。

黒い魔導書を抱える指に、力が入る。

「……本当は」

ハイネの声が掠れた。

「来ないつもりでした」

「知ってる」

「会っても、何も変わらないから」

「うん」

「あなたはここから出られない。私は深淵から出られない。会ったところで、何も戻らない」

「うん」

「だから、会わない方がいいと思っていました」

「それも、知ってる」

ハイネは顔を上げた。

「知ってるなら」

その声が、ほんの少し震える。

「どうして、待っていたんですか」

ヒュンケルは微笑んだ。

悲しそうではなかった。
けれど、寂しくないわけでもなかった。

「待ちたかったから」

「理由になっていません」

「そうだね」

ヒュンケルは、小さく笑った。

ヒュンケルは、ハイネの前に立つ。

手を伸ばす。

けれど、触れる直前で止めた。

光と深淵。

触れれば、何かが壊れる。

それを、二人とも知っている。

ヒュンケルの指先が、ハイネの頬のすぐ近くで止まった。

「君が、いつか自分の意思でここへ来る日を待っていた」

ハイネは息を止める。

「誰かを守るためでもなく、誰かに言われたからでもなく、逃げ場がなくなったからでもなく」

ヒュンケルの声は、どこまでもやさしかった。

「君が、会いたいと思って来てくれる日を」

沈黙。

祠の中の光が、静かに揺れている。


ラビーが小さく息を吐いた。

「……ずるい人ですわね」

「ラビーちゃん?」

「責めない人は、時々いちばん逃げ場をなくしますわ」

その言葉に、フラワーは胸が痛くなった。

ヒュンケルは、ようやく視線をフラワーたちへ向ける。

「君たちが、フラワーとラビーだね」

「は、はい。フラワー・マンディです」

「ラビー・クリステイルですわ」

不死鳥が、ラビーの胸元で小さく鳴いた。

ヒュンケルは、その火を見て目を細める。

「命をつなぐ火か。まだ小さいけれど、良い火だね」

ラビーは不死鳥に手を添えた。

「この子に命を繋がれています。情けないことに」

「情けなくはないよ」

ヒュンケルは静かに言った。

「誰かに命を繋がれることを、恥じなくていい」

ラビーは少しだけ目を伏せる。

「でも、繋がれたままではいられませんわ」

「うん。それも大事だ」

ヒュンケルは頷く。

「光は、依存のためにあるものじゃない。自分の足で戻るための目印だから」

フラワーの胸が、小さく鳴った。

戻るための目印。

ヒュンケルは、今度はフラワーを見る。

「君は、花の子だね。サクラの気配がする」

フラワーは息を呑んだ。

胸元の鞄から、布に包んだフルートを取り出す。

光の祠の中で、硝子細工のような花のフルートが淡く輝いた。

ヒュンケルは、懐かしそうに目を細める。

「サクラらしいね」

「サクラさんを、知っているんですか?」

「もちろん。彼女は、僕たちの中でいちばん春に近い人だった」

春に近い人。

それは、サクラにとても似合う言葉だと思った。

「私……まだ、このフルートを使ってはいけないと言われています」

フラワーは小さく言う。

「でも、持っているだけで怖くて。重くて。でも、手放したくなくて」

ヒュンケルは静かに頷いた。

「それでいいよ」

「それで、いいんですか?」

「重いものを軽く持つ必要はない。怖いものを怖くないふりで扱う必要もない」

ヒュンケルの光が、少しだけ揺れる。

「光を学ぶというのは、怖さを消すことじゃない。怖いものの輪郭を、ちゃんと見ることだから」

フラワーは、祠の光を見つめた。

命に触れること。
サクラの春を継ぐこと。
ハイネを救いたいと思ってしまうこと。

その全部を、見ないふりせずに持つための光。

「私、学びたいです」

声は震えていた。

でも、逃げてはいなかった。

「花で、誰かの帰る場所を作れるようになりたいです」

ヒュンケルは、嬉しそうに微笑んだ。

「うん。君には、その道が似合う」

以蔵は祠の入口近くで腕を組んでいた。

刀は鞘に納めている。

しかし、鬼徹の赤黒い気配は完全には消えていない。

ヒュンケルが、静かに彼を見る。

「君は、斬るものを持っているね」

「見れば分かるだろう」

「うん。けれど、君自身はまだ斬られずに残っている」

以蔵の表情が、わずかに止まる。

ヒュンケルは微笑む。

「光の祠は、刀を清める場所ではないよ。斬らずに済むものを、見つける場所だ」

以蔵はしばらく黙ったあと、肩をすくめた。

「俺には場違いな場所だな」

「場違いな人ほど、案外必要な時に来るものだよ」

シャムが小さく笑う。

「拾われた迷子剣士にぴったりじゃないか」

「猫、あとで覚えていろ」

「覚えておくよ。僕は賢いからね」

祠の中に、少しだけ軽い空気が流れた。

けれど、ハイネだけはまだ動けずにいた。

ヒュンケルの前で、黒い魔導書を抱えたまま。

フラワーは、その姿を見ていた。

ハイネは、泣いていない。

けれど、泣いていないだけだった。

泣くよりも深い場所で、何かが揺れている。

「ハイネ」

ヒュンケルが、もう一度名前を呼ぶ。

「少しだけ、話せる?」

「……今ですか」

「今しかないかもしれない。君は、またすぐ逃げるだろうから」

「逃げません」

「本当に?」

「……努力します」

シャムが小さく笑う。

「それは逃げるね」

「シャム、黙ってください」

フラワーとラビーは、自然と一歩下がった。

以蔵も壁際へ移動する。

白い光と、黒い魔導書。

二つの色が、静かに向かい合っていた。

「ハイネ。君は、まだ自分を深淵だと思っている?」

ハイネはすぐには答えなかった。

「……実際、そうです」

「違うよ」

ヒュンケルの声は、優しいのに、はっきりしていた。

「君は、深淵に囚われている。でも、深淵そのものではない」

ハイネの指が、魔導書の表紙を押さえる。

「同じことです。私は、沈めることしかできない」

「それでも、フラワーを見つけた」

ハイネは言葉を止めた。

「ラビーの火を繋いだ」

「それは、フラワーさんたちが――」

「君もいた」

ヒュンケルは静かに遮る。

「君は、まだ誰かを見つけている。誰かを止めようとしている。誰かを帰そうとしている」

祠の光が、少しだけ強くなる。

「沈めるだけのものは、そんなことをしないよ」

ハイネは、何も言えなかった。

長い沈黙。

やがて、小さく呟く。

「……遅いです」

ヒュンケルは、悲しそうに微笑んだ。

「うん」

「サクラにも、フレアにも、あなたにも」

声が震える。

「私は、いつも遅い」

ヒュンケルは首を振った。

「それでも、来た」

ハイネの目が揺れる。

「遅くても、来たんだよ」

その言葉は、静かに祠の中へ広がった。

フラワーは胸が苦しくなる。

遅くても、来た。

それは、フラワー自身にも刺さる言葉だった。

サクラのようには咲けない。
ラビーのようには燃えられない。
ハイネのようには沈められない。

いつも遅くて、怖くて、手が震える。

でも、それでも来た。

ここまで来た。

ヒュンケルは、もう一度ハイネへ手を伸ばした。

触れる直前で止まる。

けれど、その距離はさっきより少しだけ近かった。

「百年、長かったね」

ハイネは俯いた。

「……長かったです」

「ひとりでよく耐えたね」

「ひとりではありません」

ハイネは小さく言った。

「メルスティンがいました。サクラの聖域もあった。今は、フラワーさんとラビーさんもいます」

「うん」

ヒュンケルは、ただ頷いた。

ハイネは、ゆっくり顔を上げる。

「でも」

その声は、震えていた。

「あなたには、会えませんでした」

ヒュンケルの瞳が、少しだけ揺れる。

「うん」

「会ったら、戻れなくなる気がした」

「どこへ?」

「……分かりません。たぶん、深淵へ」

ヒュンケルは静かに言った。

「君はもう、とっくに深淵にいる」

ハイネが息を止める。

「だから、ここへ来たくらいで沈みきったりしないよ」

ハイネは、少しだけ笑った。

泣きそうな笑みだった。

「相変わらず、変なことを言いますね」

「百年経っても変わらないところもあるんだ」

その瞬間。

ハイネの目元に、光が滲んだ。

涙ではないかもしれない。
祠の光が映っただけかもしれない。

でも、フラワーには、それが涙に見えた。

ハイネは黒い魔導書を抱え直そうとした。

けれど、指に力が入らなかった。

本が少しだけ傾く。

落ちるほどではない。

ただ、その一瞬だけ、深淵の大魔道士ではなく、百年ぶりに会いたかった人の前で立ち尽くす小さな少女のように見えた。

ヒュンケルは何も言わなかった。

ただ、そこにいた。

触れられない距離で。
でも、離れすぎない場所に。

長い沈黙のあと、ヒュンケルはフラワーとラビーへ視線を向けた。

「君たちが光を学びに来た理由は分かった」

二人は姿勢を正す。

「でも、今日は少し休もう」

「すぐ修行ではないんですか?」

フラワーが瞬きをする。

「光は、急いで掴むものじゃない。それに、ハイネも限界に近い」

ハイネが小さく顔を逸らす。

「私は大丈夫です」

「その返事は、誰も信用していないみたいだね」

ラビーが即座に言う。

「当然ですわ」

フラワーも頷く。

「はい」

シャムも尻尾を立てる。

「満場一致だ」

ハイネは不服そうに目を細めた。

けれど、言い返す力はなかったらしい。

ヒュンケルは祠の奥へ視線を向ける。

「今夜はここで休むといい。森の黒龍たちも、この中までは入ってこない」

以蔵が壁にもたれながら言う。

「俺もか?」

「もちろん」

「俺の刀も?」

「斬らないなら」

以蔵は口元を歪める。

「努力しよう」

シャムがすぐに言う。

「それも信用ならない返事だね」

「猫、黙れ」

「嫌だね」

フラワーは思わず笑った。

ここは、光の祠。

ハイネが百年会えなかった人の場所。

本当なら、もっと神聖で、もっと静かな場所なのかもしれない。

でも、今ここには、怖さも、弱さも、軽口も、沈黙もある。

それでも、光は消えなかった。

ヒュンケルは、ハイネを見た。

「ハイネ」

「何ですか」

「来てくれて、ありがとう」

ハイネは黙った。

長い沈黙だった。

やがて、小さく答える。

「……遅くなりました」

ヒュンケルは微笑んだ。

「うん」

その笑顔には、百年分の寂しさがあった。

けれど、それ以上に。

百年待った人が、ようやく目の前にいることへの、静かな喜びがあった。

「でも、来た」

ハイネは何も言わなかった。

ただ、黒い魔導書を抱える手を、ほんの少しだけ緩めた。

祠の外では、黒龍の森が静かに息をしている。

遠くで、低い咆哮が一度だけ響いた。

けれど、その音はもう、さっきほど怖くはなかった。

フラワーは胸元のフルートに手を添える。

光は、闇を消すためだけのものではない。

帰る場所を見失わないために、
誰かが灯し続けるもの。


その光の中で、ハイネとヒュンケルは向かい合っていた。

触れられない距離で。

けれど、確かに同じ場所に。

祠の白い花が、静かに揺れた。

その花びらに、淡い光が宿る。

まるで、長い夜を越えて、ようやく朝が来たことを告げるように。

第11話へつづく。

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