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深淵の大魔道士 第9話「黒龍の森」|創作大賞2026|ファンタジー小説部門|ライトノベル|ラノベ


黒龍の森に、一歩踏み入れた瞬間。

フラワー・マンディは、世界の温度が変わった気がした。

空にはまだ昼の光があるはずなのに、森の中は暗い。
枝葉に裂かれた光は、地面へ落ちる頃には黒に近い緑へ変わっている。

湿った土の匂い。
古い木の根。
獣めいた、生温かい気配。

街の春とも、サクラの聖域の春とも違う。

ここにあるのは、咲くための森ではなく、生き残るための森だった。

「足元を見すぎない方がいいよ」

先頭を歩く黒猫が、尻尾を揺らしながら言った。

シャム。

ハイネが十年ぶりに呼び出したという、よく喋る黒猫の使い魔。
金色の目だけが、暗い森の中で妙に鮮やかだった。

「見すぎると、森に“怯えている”と教えることになる」

「森に、ですか?」

「そう。黒龍の森は、よく見る。よく嗅ぐ。よく覚える」

シャムは倒れた木の上へ軽々と飛び乗る。

「怖がっている者。強がっている者。自分を分かっていない者。そういう匂いが好きなんだ」

ラビー・クリステイルが、不死鳥を胸に抱えたまま眉を上げた。

「ずいぶん趣味の悪い森ですわね」

「黒龍に上品な趣味を期待しない方がいい」

「それは同感ですわ」

そう返したラビーの顔色は、まだ万全ではなかった。

胸元では、小さな不死鳥が静かに羽を畳んでいる。
金と紅の火の粒が、細い糸のようにラビーの身体へ流れ込んでいた。

その火がなければ、ラビーはまだ立てない。

本人は認めたがらない。
けれど、その事実をフラワーは知っている。
ラビー自身も、きっと分かっている。

「ラビーちゃん、大丈夫?」

フラワーが小声で尋ねる。

「歩けます。なら、歩きます」

ラビーは短く答えた。

その声には、いつもの誇り高さがある。
けれど、以前とは少し違う。

弱っていることを分かった上で、それでも前へ進もうとしている声だった。

「無理しすぎたら、ちゃんと言ってね」

「あなたもですわよ」

「え?」

「怖い時に、怖くないふりをしないことです」

思わぬ言葉に、フラワーは瞬きをした。

ラビーは視線を逸らす。

「黒猫が言っていたでしょう。この森は、自分の弱さを見ない者を嫌うと」

言い方は少しきつい。
でも、そこにある温度はやわらかかった。

フラワーは、胸元の鞄に手を添える。

中には、サクラのフルートがある。
まだ使ってはいけないもの。
けれど、自分が何かを背負っていることを忘れないための重さ。

「うん。怖い」

フラワーは正直に言った。

「でも、行きたい」

ラビーは少しだけ口元を緩めた。

「それなら、十分ですわ」

少し後ろを、ハイネ・ベルセルクが歩いていた。

黒い魔導書を抱え、眠たげな目を半分閉じている。
けれど、いつものような気の抜けた雰囲気は薄い。

森に入ってからずっと、ハイネはほとんど喋っていない。
黒い魔導書の表紙に片手を添えたまま、何かを警戒している。

シャムが、ちらりとハイネを見た。

「大丈夫かい、寝不足深淵娘」

「その呼び方をやめてください」

「じゃあ、無理しがち黒魔導書持ち」

「長いです」

「事実を短くまとめるのは難しいね」

ハイネは小さく息を吐いた。

「私は大丈夫です」

「その返事は信用しないことにしている」

「では、聞かないでください」

「聞くさ。僕は見張り役だからね」

フラワーは、そのやり取りに少しだけ笑った。

怖い。
でも、笑えた。

森の暗さの中で、その小さな笑いが、ほんの少しだけ足元を明るくした気がした。

その時だった。

森の奥から、低い音が響いた。

咆哮というより、地面そのものが喉を鳴らしたような音だった。

フラワーの足が止まる。
ラビーの不死鳥が、胸元で小さく羽を広げる。
ハイネの指が、黒い魔導書の表紙を押さえた。

「今のは……」

「挨拶だね」

シャムは軽く言った。

「歓迎ではないけど、拒絶でもない」

「分かるんですか?」

「僕は賢い黒猫だからね」

「本当に?」

「疑い深いね、お嬢さん。いいことだ」

シャムはまた歩き出す。

「この森では、素直すぎるのも危ない。疑いすぎるのも危ない。大事なのは、自分の足で立って、自分の怖さを認めることだ」

自分の怖さを認めること。

それなら、少しだけ分かる。

サクラのフルートを受け取った時も。
ラビーの命を花珠で包んだ時も。
ハイネが黒い魔導書へ戻ってしまった時も。

ずっと怖かった。

けれど、怖くなくなることが強さではない。

怖いまま、手放さないこと。
それを、少しずつ覚え始めている。

「止まって」

突然、シャムが言った。

三人はその場で足を止める。

森が静まり返った。

鳥の声もない。
葉の音もない。

ただ、遠くから、水のようなものが流れる音が聞こえる。

いや。

違う。

水ではない。

何かが地面を這う音。

「来ます」

ハイネが呟いた。

次の瞬間、木々の影が膨らんだ。

黒いものが、幹の間から滑り出てくる。

龍だった。

ただし、一頭ではない。

小型の黒龍が、四方から姿を現す。

漆黒の鱗。
金色に光る細い瞳。
たたまれた翼。
獣のように盛り上がった背中。

大きさは馬ほど。
けれど、その気配は普通の獣とはまるで違った。

黒龍たちは、襲いかかってこなかった。

ただ、見ている。

フラワーを。
ラビーを。
ハイネを。

「戦わないで」

シャムが静かに言った。

「この森で最初に火を撃てば、敵として覚えられる」

ラビーが杖にかけた指を止める。
不死鳥が、胸元で小さく鳴いた。

「では、どうすればいいのですか」

「自分を大きく見せようとしないこと。そして、小さくなりすぎないこと」

「難しいですわね」

「黒龍は、難しいものが好きなんだ」

一頭の黒龍が、フラワーの方へ近づいてきた。

低く、喉を鳴らす。

フラワーの足が後ろへ下がりかける。

その瞬間、鞄の中のフルートが、かすかに温かくなった。

逃げないで。

そう言われた気がした。

フラワーは、息を吸う。

怖い。

でも、逃げない。

杖を向けるのでもなく、花を咲かせるのでもなく。
ただ、自分の胸元に手を添えた。

「……怖いです」

小さく言った。

「でも、あなたを傷つけたいわけじゃありません。私は、光の祠に行きたいだけです。守るために、光を学びたいから」

黒龍は、じっとフラワーを見ていた。

その瞳の奥に、怒りはない。
ただ、底の見えない黒がある。

フラワーは、その黒を見つめ返した。

やがて黒龍は、ふいと顔を逸らした。
道の脇へ下がる。

フラワーは息を吐いた。

「今のは、合格に近いね」

シャムが言った。

「近い、ですか……」

「満点を欲しがらないことだよ。満点欲しさに強がる者から食われる」

ラビーが、今度は別の黒龍と向き合っていた。

その黒龍は、ラビーの胸元にいる不死鳥をじっと見ている。

不死鳥は怯えていない。
けれど、炎を大きくすることもなかった。

ただ、小さな金色の火を灯したまま、黒龍を見返している。

ラビーは、杖を握らなかった。

「……わたくしは今、弱っていますわ」

その言葉は、彼女にとって屈辱だったはずだ。

けれど、ラビーははっきり口にした。

「この子に命を繋がれていなければ、こうして立つこともできない。でも、それを隠して強がるほど、愚かではいたくありません」

黒龍の鼻先が、わずかに動く。

不死鳥が小さく鳴く。

ラビーは少しだけ眉を寄せた。

「もちろん、弱いままでいるつもりもありませんわ」

黒龍はラビーを見つめていた。

やがて、ゆっくりと一歩下がる。

道が、少しだけ開いた。

シャムが満足そうに尻尾を揺らす。

「いいね。病み上がり火力娘も、少しは森に嫌われない歩き方を覚えた」

「誰が病み上がり火力娘ですの」

「君以外にいるのかい?」

「あとで燃やしますわ」

「その前に治りなよ」

ラビーは言い返そうとして、少しだけ咳き込んだ。

フラワーが慌てて支える。

「大丈夫?」

「……だから、大丈夫ですわ」

「その返事、みんな信用してないと思う」

「失礼ですわね」

その横で、ハイネは最後の黒龍と向き合っていた。

黒龍は、ハイネだけを見ていなかった。

ハイネの抱える黒い魔導書を見ていた。

その瞳に、明らかな警戒がある。

ハイネの指が、魔導書の表紙を強く押さえる。

「私は、あなたたちを沈めに来たわけではありません」

低い声だった。

黒龍が、喉を鳴らす。
森の奥で、同じ音がいくつも重なった。

フラワーの背筋が冷える。

ハイネは静かに続ける。

「必要なら、沈めることはできます。でも、今日はしません」

黒龍の瞳が、さらに細くなる。

ハイネは目を逸らさなかった。

「私は、光の祠へ行きます。会わなければいけない人がいるから」

その声は、ほんの少しだけ揺れていた。

「ずっと、会わないままでいた人です」

黒龍は、しばらく動かなかった。

やがて、ゆっくりと頭を下げた。

道が開く。

シャムが、小さく息を吐いた。

「君も、少しは正直になったね」

「うるさいです」

「褒めてるんだよ」

「褒め方が下手です」

「君ほどじゃない」

黒龍たちは、森の影へ戻るように、一頭ずつ姿を消していく。

最後に残った一頭だけが、低く喉を鳴らした。

それは、警告のようにも、許可のようにも聞こえた。

「進むよ」

シャムが言った。

「ここから先は、森の奥だ」



森はさらに深くなった。

光はほとんど届かない。
足元の根は複雑に絡み合い、少し気を抜くとすぐに躓きそうになる。

フラワーは何度も杖で身体を支えた。

ラビーは平然と歩いているふりをしていたが、呼吸が少しずつ浅くなっている。
不死鳥がそれを感じ取ったのか、時折、金色の火の粒を多めに流し込んでいた。

ハイネは無言だった。
だが、時々、黒い魔導書の表紙を押さえる指が強くなる。

森の黒さが、深淵に似ているのかもしれない。

そう思うと、フラワーは少し胸が痛んだ。

「ねえ、シャム。黒龍は、どうして光の祠の近くにいるの?」

「守っているのさ」

「守っている?」

「祠を、というより、そこに近づく者の覚悟をね」

ラビーが顔を上げる。

「試験官みたいなものですの?」

「もっと厄介だよ。試験官は答案を見る。黒龍は、君自身を見る」

シャムは小さく笑う。

「光の祠へ向かう者が、光だけを綺麗なものだと思っているなら、この森を抜けられない」

「どういう意味ですか?」

フラワーが尋ねる。

シャムは森の奥を見た。

「光は、闇を消すためだけにあるんじゃない。照らしてしまうものでもある」

「見たくないものも?」

「もちろん」

シャムはあっさり言った。

「弱さ。悔しさ。執着。後悔。愛情。全部、照らされる」

ハイネの足が、ほんの少しだけ止まった。
ラビーも黙る。

フラワーは、胸元の鞄に手を添える。

自分は光を学びたい。

でも、光が見たくないものまで照らすのなら。

サクラのフルートを持つ怖さも。
命に触れた怖さも。
ハイネを救いたいと思ってしまう重さも。

全部、見なければいけないのだろうか。

「……それでも、行きます」

フラワーは小さく言った。

誰に向けた言葉でもなかった。

けれど、言葉にしておきたかった。

シャムはちらりとフラワーを見る。

「いい声だ」

「え?」

「怖いけど行く、という声だ」

黒猫は楽しそうに歩く。

「そういう声は、森も嫌いじゃない」

その時だった。

風向きが変わった。

鉄の匂いがした。

血ではない。
もっと冷たく、乾いた匂い。

「刀だ」

シャムが呟く。

ハイネの表情が変わる。

「……まさか」

森の奥から、金属が擦れる音が聞こえた。

続いて、低い咆哮。

黒龍のものだ。

一頭ではない。
複数。
いや、群れ。

「急ぐよ。あれは、森に嫌われた者の音だ」

シャムが走り出し、三人はその後を追った。

木々の間を抜ける。
根を越える。
黒い枝が服の裾を引っかく。

咆哮が近づく。

そして、開けた場所へ出た。

そこは、森の中にぽっかりと空いた円形の空間だった。

地面には、巨大な爪痕がいくつも刻まれている。
周囲には、十頭を超える黒龍。

その中心に、ひとりの男が立っていた。

長い黒紫の髪。
細い眼鏡。
裂けた外套。
口元には、どこか楽しげな笑み。

そして右手には、一本の刀。

刀身は黒く、刃の縁だけが不気味に赤く光っていた。

男の足元には、すでに何頭かの黒龍が倒れている。
けれど、男も無傷ではなかった。

左肩から血が流れている。
呼吸は荒い。
握った刀からは、禍々しい気配が滲み出ていた。

「……さすがに、ここまでか」

男が笑う。

その笑みは、勝者のものではなかった。

死を前にして、それでも笑っている者の顔だった。

ラビーが息を呑む。

「何者ですの、あの男」

ハイネは男の刀を見ていた。

「鬼徹……」

その名を聞いた瞬間、男の視線がこちらへ向いた。

「この刀の名を知っているのか」

「知っています」

ハイネは前へ出る。

「面倒な刀ですから」

男は一瞬だけ黙った。

それから、愉快そうに笑った。

「面倒、か。違いない」

黒龍が一頭、男へ飛びかかる。

男は振り向きもしなかった。

ただ、刀を横へ滑らせる。

黒い斬撃が走り、黒龍の巨体が地面へ崩れる。

フラワーは思わず口元を押さえた。

速い。
美しい。
けれど、怖い。

斬ることに慣れすぎている。

いや。

斬らされているようにも見えた。

「ハイネさん、あの人は……」

「AIH-130」

ハイネが低く言う。

「通称、以蔵」

男――以蔵は、刀を肩に担ぐ。

「その名まで知っているとはな。俺も有名になったものだ」

「森の中で黒龍を斬り続ける趣味は聞いていません」

「趣味ではない」

以蔵は口元を歪めた。

「道に迷っただけだ」

シャムが呆れたように言う。

「見事に嫌われる歩き方だね」

「猫が喋るのか」

「刀に話しかける男に驚かれたくないね」

以蔵は少しだけ笑った。

だが、次の瞬間、刀が低く震えた。

赤黒い光が、刃に走る。

以蔵の表情が一瞬だけ歪む。

「……黙れ」

誰に言ったのか分からなかった。

黒龍ではない。
シャムでも、ハイネでもない。

刀に言ったのだ。

「その刀……」

ハイネが言う。

「まだ人を斬りたがっているんですね」

以蔵の笑みが消えた。

「本当に、よく知っているな」

「御堂博士の危険な百番台の話は、少しだけ」

「博士、ね」

以蔵は目を細める。

「懐かしい名だ」

黒龍たちが、さらに周囲を狭める。
空気が震える。
以蔵の刀もまた、震えている。

斬れ。

斬れ。

斬れ。

そんな声が、聞こえる気がした。

「その刀を納めてください」

ハイネが言う。

「このままでは、あなたは黒龍ではなく、刀に呑まれます」

以蔵は笑った。

「刀に呑まれるか。悪くない」

「よくありません」

「では、どうする。俺を助けるか?」

挑発するような声。

ハイネは答えなかった。

黒い魔導書を開く。

ぺらり。

ページがめくれる。

それだけで、黒龍たちが一斉に警戒した。
森そのものが、深淵を嫌っているようだった。

シャムが鋭く言う。

「ハイネ、沈めるなよ」

「分かっています」

「本当に?」

「努力します」

「それが一番怖いんだよ」

ハイネは魔導書を押さえた。

黒い手が、地面から一本だけ伸びる。

龍を沈めるためではない。

以蔵の刀の影へ向かう。

黒い手が、鬼徹の影を掴んだ。

刀が、甲高い音を立てて震える。

以蔵の腕が跳ねた。

「っ……!」

「ラビーさん。不死鳥の火を、刀へ向けないでください。あなたの火が吸われます」

「言われなくても分かりますわ」

ラビーは不死鳥を抱きしめる。

「フラワーさん」

「はい」

「水珠を、あの人の手元へ」

フラワーは息を呑む。

刀の近くへ水珠を作る。

怖い。

けれど、やるしかない。

泉で学んだ感覚を思い出す。

握らない。
掴まない。
流れを読む。

以蔵の腕。
刀の震え。
そこに入り込む赤黒い衝動。

水は、その衝動を消すのではなく、少しだけ冷ます。

「咲いて……ではなく」

フラワーは小さく息を吸った。

「留まって」

以蔵の手元に、小さな水珠が生まれた。

刀の赤黒い光が、水面に映る。
水珠は一瞬で蒸発しかける。

けれど、フラワーは支えた。

「今です」

ハイネの黒い手が、鬼徹の影をさらに縫い止める。

シャムが飛び出した。

黒猫の身体が、影のように伸びる。

以蔵の足元をすり抜け、刀の柄へ爪を立てた。

「離せ、人斬り」

シャムの声が低く響く。

「その刀は、君の手じゃなく、君の傷を握っている」

以蔵の目が、大きく見開かれた。

一瞬。

本当に一瞬だけ、以蔵の手の力が緩む。

その瞬間、ハイネが言った。

「手を離して」

以蔵は刀を見た。

鬼徹が震えている。
黒龍たちが唸っている。
森が、見ている。

以蔵は口元を歪めた。

「……刀を手放せば、俺に何が残る」

その言葉は、思ったよりも静かだった。

ラビーが息を呑む。
フラワーも、胸が痛くなる。

自分の焔がなければ。
自分の花がなければ。
自分の深淵がなければ。

何が残るのか。

それは、ここにいる誰にとっても他人事ではなかった。

ハイネは、以蔵を見た。

「残ります」

「何が」

「あなたが」

以蔵の表情が止まる。

「刀を持っているから、あなたなのではありません」

ハイネは続ける。

「刀を手放しても残るものがあるかどうかを、確かめに行けばいい」

「どこへ」

「光の祠へ」

シャムが、にやりと笑った。

「いいね。面倒なのを拾った」

「拾っていません。同行してもらうだけです」

「それを拾ったと言うんだよ」

以蔵はしばらくハイネを見ていた。

やがて、低く笑う。

「面白い」

刀の震えが、少しだけ弱まる。

以蔵はゆっくりと鬼徹を鞘へ納めた。

完全には収まらない。
刃の奥で、まだ赤黒い光が燻っている。

けれど、斬撃の気配は消えた。

黒龍たちは、動かなかった。
ただ、じっと以蔵を見ている。

以蔵は両手を軽く上げた。

「斬らない。今はな」

「今は、というところが実に信用ならない」

シャムが呟く。

「信用は売り切れだ」

「仕入れておきなよ。祠までには必要になる」

以蔵は笑った。

その笑みには、さっきまでの死の匂いが少しだけ薄れていた。

黒龍たちが、一頭ずつ森の奥へ退いていく。

完全に許されたわけではない。
けれど、今すぐ襲うつもりもない。

そういう距離だった。

フラワーは、ようやく息を吐いた。

「助かった……んですよね?」

「ひとまずね」

シャムが言う。

「ただし、厄介な荷物が増えた」

「荷物とは失礼だな、猫」

「刀に呑まれかけていた迷子剣士よりは上品な表現だと思うよ」

「言うな」

以蔵は楽しそうに肩をすくめた。

ラビーは以蔵を見ていた。

「あなた、刀を手放すのが怖かったのですわね」

フラワーが驚いてラビーを見る。

以蔵は少しだけ目を細めた。

「そう見えたか」

「ええ」

ラビーは胸元の不死鳥に手を添える。

「わたくしにも、分かる気がしただけですわ」

以蔵は何も言わなかった。

ただ、刀の柄から少しだけ手を離した。

ハイネは森の奥を見る。

「行きましょう」

「光の祠へ?」

フラワーが尋ねる。

「はい」

ハイネの声は静かだった。
けれど、さっきより少しだけ重い。

以蔵が加わったことで、道はさらに複雑になった。

黒龍の森はまだ終わっていない。
光の祠は、まだ見えない。

それでも、進むしかない。

フラワーは鞄の中のフルートに手を添えた。

ほんのわずかに、春の音がした気がした。

それは、急げという音ではなかった。

斬らずに済む道を探せ、という音にも聞こえた。

シャムが先頭に立つ。

「さて、迷子剣士も拾ったことだし、行こうか」

「拾ってません」

「拾われてやった覚えもない」

「どちらでもいいよ。黒龍の森は、面倒な者ほど奥へ通したがる」

シャムは尻尾を揺らした。

「たぶん、この先に光がある」

森の奥から、風が吹いた。

暗い木々の間に、ほんの一筋だけ、白い光が差している。

それは、まだ遠かった。

けれど確かに、そこにあった。

フラワーは一歩踏み出す。
ラビーも、不死鳥を胸に抱いたまま歩き出す。
ハイネは黒い魔導書を抱え、目を細めた。
以蔵は少し遅れて、刀の柄に触れそうになった手を、そっと下ろした。

黒龍の森は、まだ深い。

けれど、その奥にある光へ向かって。

一行は、静かに歩き始めた。

その時だった。

森の奥から、かすかな鈴のような音がした。

フラワーは足を止める。

それは風の音ではなかった。
水の音でも、黒龍の息でもない。

木々の奥で、白い光が一度だけ瞬いた。

ハイネの指が、黒い魔導書の表紙を強く握る。

「……ヒュンケル」

その名は、声というより、息に近かった。

誰も、聞き返せなかった。

黒龍の森の奥で、光の祠が、静かに目を覚ましていた。

第10話へつづく。

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