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心を満たすために湧水を汲みに行く

水を飲む。
実は若い頃は水を飲まなかった。

甘いジュースも、炭酸飲料も。
飲むのは熱いほうじ茶。そうやって何十年も暮らしてきた。
もちろんコーヒーや紅茶も飲む。好きだ。
台湾茶も定期的に取り寄せる。
豆や茶葉にとことんこだわる。


幸いなことに、家の蛇口をひねれば、十分に美味しい水が出る。
実は私の住む地域は県外の人からも水が美味しいと評判の地域だ。
水道も十分に美味しいのだが、どうしてもあの塩素が気になってしまう。生水で飲むと鼻につく。
浄水器も試してみたけれど、いまいち。

だからずっと『水』そのものを飲んで来なかったのだ。

そこで私は、車で30〜40分かけて湧水を汲みに行く。

汲んできた水が少なくなると落ち着かない。まるでガソリンが減った車のように、心のどこかがそわそわし始める。

そうなると車を走らせる。

真冬でも凍らずに流れ続けるその湧水へ。
周囲の飛沫は凍りついているのに、水だけは止まらない。

傍の立て看板には、
『原水です。消毒はしてありません。』
とある。

つまりは塩素の匂いのしない水。

飛沫ほとばしる水の出口に、青い藻が、しがみついている。本来は煮沸が推奨される水だが、その冷たさの前では一瞬だけそれを忘れて、本能的に、容器に汲む前に白いマグカップで一口。
ごくごく。わぁ、冷たくて美味しい。

この一口で毎回、懐かしのアニメ『アルプスの少女ハイジ』を思い出す。
クララのお父さんがハイジに頼む。
「コップに一杯水を持ってきてくれないかね。出来るだけ冷たいのをね。」
ハイジはお屋敷の台所で水を汲むけれど、冷たくない。これじゃないと思いコップだけを持って冷たい水を求め街を彷徨う。
広場の水場でやっと冷たい水を汲み、お屋敷に持ち帰る。
「うまいね、こんなうまい水を飲んだのは生まれて初めてだ。」
ゼーゼマンさんはこのことでハイジを引き続きこのお屋敷に置くことを決める。

水は同じでも同じではない。

幼い私はあの物語を通して教わったのかもしれない。それほど強烈に記憶に残る回だった。私はどういうわけか、この話がとりわけ好きだった。

大人になって考えると、ハイジは山の水の冷たさを知っているから、台所の水は冷たくない、これじゃないんだと、幼いながらも自分なりのものさしで行動したんだよなと思う。

自分のものさし、美味しい水が飲みたい。だからここまで車を走らせてしまうのだ。あのハイジの白いコップに似たマグカップを持って。

ここは周りの草はいつも綺麗に刈られて地元の人や保存会の方たちが大事にされているのが、場の雰囲気からわかる。

タイミングによっては順番待ちもある。
知る人ぞ知る名水なのだ。

先日もちょうどお昼の時報が鳴り響く瞬間に到着した。

みんなごはんタイムだから待ちも少ないだろうと見込んで。
持参した容器はバラバラ、自分は重い20リットルを持つことは控えているので、家にある、こまごまとしたありとあらゆる水筒に水を汲む。水筒マニアを自認するほど、日頃から、つい水筒を、買ってしまう。

よくある大口の水タンクなら、セットして待つだけでいいのだが、1.5リットルのスタンレーの水筒から始まり、1Lと500mlのバター色、ナス色などのナルゲンボトル、小さいものは手の平サイズのステンレスのマグ350ml、250ml、180ml等、バラバラだ。
最近買い足したのは『水』と水色で印刷された無印良品の水ボトル。すでに3個目だ。
ひとつひとつお気に入りの水筒にそれぞれの重さの違いを確かめながら、水を満たしていく行為はとても楽しい。

水が水筒に満たされていく段階で、音が変わるのも耳を澄ませて聞き入る。

ちまちま入れていると時間がかかるので、もしもお次の人が来たら、先に入れてもらうことにしている。
待たれるのがプレッシャーで、後でのんびりと入れるのが、性に合っている。

ここの水量は豊富なので、大きな容器の人に譲ったとしても、あっと言う間に満たされるので、待ち時間も少なくて済む。

その日も、白いトラックが坂を降りて来て少し遠慮がちに停まった。二人乗っているようだ。

先に済ませてもらおうと手招きする。
いやいやと首を振っているようだ。
それでも、手招きをやめずにいると二人の男性が車を降りて来た。

おや?なんの入れ物も持っていない。
「どうぞ、お先に、私は時間かかりますので」と促す。

二人は気持ちのいい笑顔で、
「すいませんねー、ではお先に」
手で掬ってゴクリと飲み干して、頭を水の吐出口に近づけて、冷やしていた。
顔が真っ赤だったので、野外作業の後だろうか。その日の気温はまだ5月なのに、夏日だった。

「あー、つめてぇ、気持ちいいー」
二人のうちの若手が頭の次に、豪快に顔も洗っている。
さぞかしさっぱりすることだろう。
年長の方が、
「ここの水、美味しいですよね。うちもよく汲みに来ます。」と言いながら首のタオルを濡らしていた。
「じゃ、どうも〜」
その間、ものの数分。

気持ちのいい空気が通り抜けた。同じ水を愛でる者同士の一瞬の連帯感に心温まる。
ブオーンと走り去るトラックに軽く手を挙げ見送りながら、続きの水汲みを続ける。

家の蛇口をひねれば、十分に美味しい水が出る。
それでも私は、またここへ来てしまう。

私が本当に「汲んで」いるもの。それは、
美味しいからだけではない。
潤沢に煌めく水が、止まることなく、こんこんと出て来るのに触れると、生きる活力みたいなものを、自分の中にも満たしてくれるように感じている。

「汲む」という行為自体を愛してやまないのだ。

帰りに湖畔に寄り道して、豆を挽く間に、汲みたての水をシングルバーナーで沸かして、コーヒーを淹れるのも楽しみのひとつだ。もちろん、家に帰ってから、お茶やコーヒー、ごはんを炊く水までこれを使う。

汲んできた水が少なくなるとウズウズするのだ。

たぶん私は水を飲みたいのではなく、水を汲みたいのだと思う。

皆さんは、誰にも理解されないけれど、自分を最高に満たしてくれるモノやコトはありますか?



山での体験について他にも書いています。まずは、私がnoteを始めた理由から読んでいただけると嬉しいです。


山で飲むコーヒーは家で飲むコーヒーより美味しく感じるのはなぜでしょうか。


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