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パーティーはいつか終わる《7》【#創作大賞2025】


《1》
《2》《3》《4》《5》《6》《7》《最終話》

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JR新幹線のぞみで東京から新大阪まで行き、新大阪でJR特急くろしおに乗り換えて和歌山駅に着いた時点ですでに四時間が経過していた。そこからレンタカーを借りて山の方へ向かって一時間ほど車を走らせ、険しい峠道を登った末にようやく目的地の寺に辿り着く。時刻は午後三時を回っていて、家を出たのが午前八時過ぎだったので、ここに来るまでに合計で七時間を要したということになる。

「いやー、長かったあ。それにしても、さすが高野山って感じですねー。お寺ばっか」

車から降りた芹沢さんがうーんと気持ちよさそうに身体を伸ばしながら言った。標高が高いからか凛と空気が澄んでいて、木々の豊かな緑に心身が洗われる。

「立派な山門ですね。石畳も美しいです」

本日の宿坊を予約してくれた青羽さんが、下調べのとおりと言わんばかりに満足げな笑みを浮かべている。今日私たちが泊まるこの寺は、私の実家の寺よりもかなり小規模ではあるけれど、仏教の聖地である高野山の荘厳な雰囲気も相まって、確かな威厳と俗世離れした静寂がどっしりと佇んでいて、はっと息を呑むような美しさがある。

「風情がありますねえ」と私が言うと、青羽さんは「ですねえ」としみじみするように微笑んだ。

「やっぱトイレって和式かなあ? おれ和式だと出ないんだよな。あーしかもぼっとんだったらどうしよ」
「行方さん、マジで黙っててくれません? 私いま潮田さんみたいに風情ビンビンに感じてたところだったんですけど。行方さんはそこら辺の木陰で野糞でもしてください」
「安心していいですよ。ホームページには載っていませんでしたが、電話で聞いてみたところトイレは洋式だそうです。ただ、共同トイレとのことでした」
「さすが青羽! いやよかったあー。精進料理って便通良さそうだから心配だったんだよな。これで心置きなく食えるわ」
「いや、私は全然安心できないんですけど! 行方さんのせいで私が何日間マンションのトイレ使えなかったか忘れたわけじゃありませんよね!?」
「いやあ、ごめんて。でもあの時は食べたものが悪かったというか」

「あの、お寺の前でそういう話をするのはいかがなものかと……」と私が苦言を呈すると、「潮田さんのおっしゃるとおりです。便意にもトイレにも文句を言ったところでどうしようもないことですよ」と青羽さんが至極真っ当な意見で二人をなだめるように言って、芹沢さんも行方さんも「……すいませんでした」と反省して場がひとまず収まった。

「では気を取り直して、早速お寺に入りましょう」と先頭に立つ青羽さんに続いて、私たちは山門をくぐって宿坊の入口へと向かう。

入口に着いたところで付近に人影が見当たらず、「ごめんくださーい」と青羽さんが呼びかけると、建物の奥の方から「すいません、ただいま参ります」という男性の声が聞こえた。入口から見える広間の色鮮やかな襖絵を眺めながらぼんやりと待っていると、浅葱鼠あさぎねず作務衣さむえを着たお坊さんが小走りで私たちの前に現れた。

「すいません、お待たせしてしまって。当寺で住職をしております、勝見玄祥かつみげんしょうと申します。本日はようこそお越しくださいました」

三十代前半といったところだろうか、想像していたよりも随分と若い住職が現れて私は声を出さずに驚いていたが、「え、住職さんめっちゃ若くないですか!」と芹沢さんが包み隠さず声に出したので「恐れ入ります。今年でちょうど三十になります」と勝見さんが少し恥ずかしそうに答えると「へえーいやあすごいです尊敬です」と芹沢さんは語彙力を失いつつも敬意を示した。

「改めて、予約していた青羽と申します」
「青羽さま、お待ちしておりました。こちらへどうぞ」

勝見さんの案内に従って建物の中へ入り、広間を通り抜けて細い廊下を進む。「いやあ若すぎてびっくりしましたほんとに。しかも顔もちょっとあのイケメン俳優に似てません? ほら、あのドラマに出てた、なんだっけな」「すいません、芸能人関係には恐ろしく疎いので名前言われても絶対分かりません」と芹沢さんと二人でひそひそと話しながら、歩くとギシギシと音を立てる木造の廊下を五人の大人たちがずんずんと進む。そして奥まで進んで突き当りを曲がったところで、突然小綺麗な和風の玄関ドアがいくつか姿を現わした。

「本寺は御覧のとおり相当年季が入っておりますが、宿坊や水回りはリフォームしておりますのでご安心くださいませ。また、本日二部屋のご予約で承っておりますが、どちらも同じ間取りでございますので、こちらのお部屋のみご案内させていただきます」

勝見さんはそう言いながら、玄関ドアを開けて私たちを部屋の中へと案内した。部屋の内装は旅館のような和モダンな雰囲気にリフォームされていて、想像していたよりも遥かに清潔感があって思わず感動する。小ぢんまりとはしているけれど、二人で泊まるには申し分ない広さだ。

「え、めっちゃ綺麗じゃないですか! てかコンセントもWi-Fiも普通にあるとかポイント高っ!」と分かりやすく芹沢さんがはしゃぐので、私も少し心が躍って「いいですねえ」と部屋を見回しながらつぶやいた。思えば、家族以外の人間と泊まりの旅行をするなんていつぶりだろう。それに家族で旅行といっても寺の関係で毎年京都に足を運んでいただけで、決して観光や宿泊が目的ではなかったその遠出に楽しかった思い出など殆どない。

「お気に召していただけて幸いです。なお、大変お手数おかけしますが、お手洗いについてはこの部屋を出られて廊下の突き当りの右側にございます共同のお手洗いをご利用くださいませ。また、その向かい側には小ぢんまりではございますが大浴場をご用意しております。本日、皆様方の他にお客様はいらっしゃいませんので、おくつろぎいただけるかと存じます」
「大浴場があるなんて最高すぎません? しかも私たちだけなんてテンション上がっちゃいますね!」
「ですね。青羽さん、素敵なところを予約してくださりありがとうございます」
「いえいえ。勝手に色々決めてしまいましたが、みなさんに気に入っていただけて何よりです。あ、それとすいません。今日の四時から写経しゃきょう体験を予約していたと思いますが、こちらの部屋で行う感じでしょうか?」
「いえ、ご予約された写経体験については先ほど通られた広間にて行います。その後ですが、お部屋にてご夕食を用意させていただきますので、引き続きよろしくお願いいたします。それではご案内は以上となりますので、時間になりましたら広間にお越しくださいませ」
「分かりました。では後ほど、よろしくお願いします」

私たちが小さく頭を下げると、勝見さんは恭しく一礼してから部屋を去っていった。「じゃー時間になったら各自広間に集合って感じで」と行方さんが言って、私と芹沢さん、青羽さんと行方さんの二部屋に分かれて一旦解散する。

隣の部屋に移動した芹沢さんと私は、「何というか、宿坊ってもっと厳しめの、修行僧のような環境で過ごすものかと思ってました。まあそれもそれで面白そうですけど」「ちゃんと観光地化されているんですねえ」と当たり障りのない会話をのんびりとして、二人で畳に寝転がってみたり、洗面台のアメニティの豊富さに感動したりしてだらっと過ごしていたらあっという間に時間が近づいていたので、「やばい遅れる!」と二人して焦りながらも気持ち程度に化粧直しをしてから小走りで広間へ向かった。

広間には机と椅子が並べられていて、すでに青羽さんと行方さんが座っているのが見えた。若干息を切らしている私たちに勝見さんが仏のような笑みで「ご足労いただきありがとうござます」と一礼してきたので、私と芹沢さんは「遅くなってすいません」とへこへこ頭を下げる。

「それでは皆様お揃いになられましたので、さっそく写経のご説明をさせていただきます」と勝見さんが言って、私は席について、机の上に置いてある紙と筆ペンに視線を落とした。

「写経とは、仏教の経典きょうてんを書き写すことです。皆様には、般若心経はんにゃしんぎょうという経典を写経していただきます。二百六十二字の短い経典ですが、大乗仏教の精髄せいずいが込められているんですよ」

勝見さんはそう言うと、写経の書き方についても細かく教えてくれた。あらかじめ般若心経が薄く印刷されているなぞり書き用紙を使った写経体験が一般的だが、手本を横に置いてそれを見ながら書くという玄人向けの”臨書りんしょ”もできるということだったので「そっちの方が燃えますよね」という芹沢さんの向こう見ずな提案によって四人全員で臨書をすることになった。

「それでは始めてください」という勝見さんの声で、私は深呼吸をして、姿勢をビシッと正してから、横に置かれた般若心経を一文字一文字丁寧に書き写していく。
漢字の羅列を書き写しながら、懐かしい、としみじみ思った。実家にいた時、よく父にやらされていたことを思い出す。経典の内容はよく理解していなかったけれど、写経をしていると心が無になっていくこの感覚は、私に深く刻まれている。

「あっやばミスっちゃった!」という芹沢さんのまあまあ大きい声によって私はふっと我に返った。「間違えてしまった時は漢字の横に点を打って、その下に正しい字を小さく書いてください」と勝見さんが仏のような笑みで丁寧に教えながら、芹沢さんがコクコクと頷く。
その時、ふと私の写経を見た芹沢さんが「え、潮田さんめちゃ早くないですか!?  しかも字もすごい綺麗ですし!」と大袈裟に驚いたので、私は咄嗟に自分が書いた写経を手でさっと隠すようにして答えた。

「いや、まあ、子供の時からやらされていたので……」
「なるほど。英才教育ですねー」
「おや、確かにお上手ですね。立ち入ったことをお聞きしますが、ご実家がお寺ということでしょうか?」

思いがけず勝見さんに質問された私は「……はい、こんなんですけど、一応」と申し訳ない気持ちで答えた。こんなに若いのにしっかりと住職を全うしている勝見さんがあまりにも立派に見えたからだ。若くして親の寺を継いだのだろうか。同じ寺の子供として考えることすら烏滸おこがましいくらい、私と勝見さんの生き方には大きな差があると思うと、私はどうしようもなく自分が情けなくなって、寺の話をこれ以上深堀りされたくないと思った。

だが、そんな私の雰囲気を察したのか、勝見さんは「そうだったんですね! 私の作法が間違っていた際はむしろご指導いただけると幸いです」と笑いながら冗談を言って、それ以上私に寺の話を聞いてくることはしなかった。
気を遣わせてしまって申し訳ないと思いながらも、今は気持ちを切り替えて目の前の写経に集中することにした。雑念を取り払って、”無”に徹する。


四十分ほどかけて写経を終わらせると、私に続いて行方さん、青羽さんも筆をいた。
「なぞり書きにしとけばよかった……」「ちょっとマジでゲシュタルト崩壊してきたんですけど」とぶつくさ文句を言いながら芹沢さんも二十分ほど遅れて何とか書き終え、書いた写経は寺に奉納ほうのうできるとのことだったので、せっかくならと四人でお願いした。

写経の後は瞑想体験があったが、開始二分辺りであっごめんいま腹鳴っちゃったブヒヒヒと行方さんが突然変な笑い方をし始めて「行方さん、ほんとに帰ってもらえません?」と芹沢さんに真顔で言われた後も、笑いを堪える小藪千豊ばりに口を大きく開けて声を我慢している行方さんの顔が終始頭をよぎっていた私はまったく集中できないままあっという間に十分間の瞑想が終わっていた。

「うおー! うまそう!」
部屋に戻ると本格的な精進料理が用意されていた。肉や魚などの動物性の食材は一切不使用とのことで、舞茸やさつまいもの天ぷら、絹さや・たけのこ・ごぼうなどの旬の野菜を使った煮物、なめこの蕎麦、根菜がごろごろと入ったけんちん汁などなど、野菜や山菜を中心としたいかにも健康に良さそうな料理が凛と並んでいて、食べる前から口の中に旨味が広がる。

大蒜にんにく、玉ねぎ、にらといった刺激の強い食材は修行の妨げになるとされているため精進料理では使いません」という勝見さんの説明に私たちは「ほうほう」と頷いて、仏教にまつわる知識を交えながら勝見さんが丁寧にお品書きを一通り説明し終えると、間髪入れずに芹沢さんが尋ねた。

「あの、お酒って飲んでもいいんですか?」
「仏教には五つの戒めがありまして、そのうちの一つに不飲酒戒ふおんじゅかいというものがあります。つまりお酒を飲むことは智慧ちけいを損なう行為として、仏教では禁じられているんです」

あからさまに顔を歪める芹沢さんに、「……ですが」と勝見さんがにやりと付け加える。

「僧侶の間では、お酒のことを”修行に役立つ知恵を生み出すための湯”として、般若湯はんにゃとうと呼んで飲むという慣習がありました」
「隠語みたいなものですか?」
「言ってしまえばそのような感じですね。ということで、当坊でも般若湯として、このように精進料理によく合うお飲み物を多数ご用意しております」

勝見さんがサプライズのように背後からスッとドリンクメニューを差し出すと、マジックに大喜びする子供みたいに芹沢さんがウキウキはしゃいだ。水を得た魚のごとく生き生きとした芹沢さんがメニューを受け取って「とりあえず、この地酒を四合、お猪口三つで!」と高らかに注文すると「かしこまりました。すぐにお持ちいたします」と勝見さんが微笑みながら部屋を出て行った。

すぐに運ばれてきた日本酒で乾杯をして、胸を高鳴らせながら精進料理に箸を伸ばす。噛んだ瞬間、何とも言えない上品な味付けが口いっぱいに広がって思わずうっとりする。素材本来の風味を活かした見事な料理に一つずつ舌鼓したつづみを打ちながら、隣に座ってる青羽さんに改めて「今日はありがとうございます」と言ってお酌をした。「ああっ、すいません」とお猪口を傾けながら、青羽さんもほっこり笑う。

「潮田さんこそ、宿坊の誘いに応じてくださりありがとうございます」
「あの、青羽さん」
「はい、なんでしょう」
「あの、勘違いだったら恥ずかしいですけど、私のために無理とか、していませんか……? 今日の宿坊だって、私が寺の話なんかしたせいで青羽さんに色々と気を遣わせてしまっているようで、ちょっと申し訳ないなと思いまして」
「とんでもないですよ。それに無理なんかしていません。潮田さんのお話を聞いて寺の体験をしてみたいと思ったのは事実ですけど、僕、こう見えてもともと仏教が好きなんです。僕のDJ名の”自業自得”も仏教用語なんですよ」

「へえそうだったんですね」と相槌を打ちながら、『G‐GO:G‐TOK』というギラギラした字面が頭に浮かぶ。ミラーボールを被ったDJ姿の青羽さんがナイトクラブで念仏を唱えている姿を想像してみると、踊り念仏と捉えるにはあまりにファンキーでノイジーな風景が脳裏に浮かんできて私は「ふっ」と吹き出してしまった。

「あっ、いま僕でおかしなこと想像してましたね?」
「はい。すいません」
「仏の顔は三度までなので、許します」
「痛み入ります。あの、聞いてもいいですか」
「はい。何でも聞いてください」
「その、仏教が好きになったきかっけとか、何かあるんですか? ていうかわたし寺の娘ですけど、あんまり仏教のことは分からないなーって感じなので、どこに魅かれたのか気になります」
「仏教の魅力を一言で表すのは難しいですね……ただ、僕が仏教を好きになったきっかけは、潮田さんを招待したあのクラブのオーナーの浅野さんという方が、敬虔けいけんな仏教徒だったからです」
「ああ、どうりで。クラブの名前にも『ブッダ』ってありましたよね」
「そうです。僕にとっては師匠のようなお方で、仏教に限らず、人生の生き方そのものを教わりました。高校の時に浅野さんと出会っていなかったら、僕はきっと今頃ここにはいません」
「へえ、それはもう、相当長いお付き合いなんですね」
「もう三十年近くなりますね。もともと浅野さんはレコード屋の店長をしていて、僕がそこに入り浸っていたんです。ヒップホップに傾倒していた僕は、高校を中退してDJにすべてを捧げてそれで売れなかったら死んでやろうと本気で思っていたんですけど、浅野さんがそれを止めてくれました。会社員をやりながらでもDJはできる、と説得されたんです。それから浅野さんが今のクラブを立ち上げて、僕はそこでDJのスキルを磨きながら、会社に勤めることで社会との関わりも学んでいきました。今もこうして僕が生きて、そうして会社員を続けて潮田さんと出会えたのも、浅野さんのおかげだと思ってます」

短くまとめられた浅野さんの話を聞いただけで、その浅野さんが青羽さんという人間の成り立ちに如何いかに影響を与えたのかがひしひしと伝わってくる。複雑な家庭環境で育った青羽さんが腐ることなくここまでの聖人になれたのも、浅野さんという方の存在が大きいのだろう。そして考えるまでもなく、これまでの私の人生にはそのような先導者的な人間はいなかった。いや、もっと目を凝らせていれば見つけられたのかもしれないけれど、そもそも私は他人と関わることすら怖くて、ましてや両親に逆らう勇気なんてあるわけもなく、ただ流されるまま生きてきた。東京に来て環境を変えてみても私という人間が根本的に変わるわけではなく、精神的に大人になれないまま身体だけは着実に老いていったのだ。

破れる夢すら持ち合わせていなかった私に、東京で失ったものなど一つもなかったはずなのに、今わたしの目の前には、手放したくない存在が確かにある。

「青羽さん」
「はい、なんでしょう」
「ご飯を食べ終わったら、少しお時間をいただけませんか。お返事の件、伝えさせてください」

「……分かりました」と、青羽さんはどこか遠くを見るように微笑んで、手元の日本酒に口をつけた。
「追加のお料理をお持ちしました」と部屋に料理を運んできた勝見さんに「すいません! さけ……いや般若湯って追加で頼めますか!」と芹沢さんが元気よく尋ねる。彼女はすでに二合の日本酒を一人で飲み干していたようで、追加で勝見さんにビールを注文すると、隣に座っている行方さんとよく分からない下品な下ネタ話で仲良く爆笑し始めた。その対岸にいる私と青羽さんは至って落ち着いた雰囲気で「がんもどき食べました? これはもはや肉ですよ! 肉食にくじきです!」「たしかに、すっごい肉厚な食べ応えですね」と他愛もない感想を言い合って、時間がゆっくりと過ぎ去っていった。

食事が終わり、芹沢さんが「めっちゃ食べてマジでしんどいです。ちょっと部屋で横になってきます」と苦しそうに言いながら部屋を出て行く。行方さんも「じゃあ俺は大浴場行こうかな」と言ってゴソゴソとタオルや着替えを取り出し始めた。

何となく、今しかないと思った私は「青羽さん、少し外を歩きませんか?」と提案する。
「いいですね、行きましょう」と青羽さんが返事をして、二人で部屋を出た。

宿坊を出て夜風に当たる。
夜のしんとした高野山を肌で感じながら、青羽さんとゆっくり歩く。昼間とは違った静けさが漂っていて、頭上には視界に収まり切らないほどの星たちが夜空いっぱいに煌めき合っている。

柄にもなく、この場所でなら何を言っても世界で一番美しい愛の告白になるんだろうな、なんて他人事のように思った。

「青羽さん」
「はい」

足を止めて、青羽さんに呼びかける。あまりに静かで、この世界に私と青羽さんしかいないような錯覚すら感じる。

「わたし、青羽さんのことが好きです」

恥じらいも躊躇ためらいもなく、息を吐くように言葉が出てきたことに、自分でも驚く。

「潮田さん」

青羽さんの声が聞こえた。暗闇の中でぼうっと明かりが小さく灯る、そんな声だった。

「青羽さんと出会って、初めて人を好きになるということを知りました。私の四十年の人生が、初めて報われた気がしたんです」

「潮田さん」

青羽さんが私の名前をもう一度呼ぶ。その声は、私のことを心配しているような優しい声だった。

「潮田さん、泣かないでください」

青羽さんに言われて、私は顎の先までつたっていた涙を手で拭った。

「すいません」
「潮田さんが謝ることではありませんよ」
「いや、私が謝ることです。いくら謝っても足りません。青羽さんを振り回してしまって本当に申し訳ございません」

「むしろ振り回しているのは僕の方です」という青羽さんの言葉に、私はかぶりを振って答える。

「青羽さんといると楽しいんです。楽しくて幸せで、前にも言いましたが人生のボーナスタイムを過ごしているような気分なんです。この先の人生を、青羽さんと一緒に過ごせたらどれだけ幸福なんだろうかと何度も考えました。でも、それと同じくらい恐怖が頭をよぎるんです。青羽さんをいつか失うことも、両親を裏切ることも、私が好きに生きることも。そのすべてが、私にはどうしても怖いんです。寺を継がずに青羽さんと二人で生きていくとして、いつか青羽さんを失ってしまったら私はきっと生きていけません」

青羽さんは何も言わずに、私の話を聞いている。青羽さんが今どんな表情をしているのか、私は見ることができない。

「私、気付いたんです。東京で友達も恋人も作らず十八年間過ごせたのは、実家の寺という存在にどこか安心感を抱いていたからじゃないかって。寺以外の生き方を知ってみたくて東京に来たつもりでしたが、それは結局、私が心の底では寺を拠り所にしているという事実を長い時間かけて確認する作業だったんです」

青羽さんは否定も肯定もしない。彼はどこまでも優しい。そんな青羽さんを、私の人生に巻き込むべきではない。

「私の地元は田舎なので、ライブハウスなんてありません。イカしたレコード屋だってありません。そんなところに青羽さんを住まわせるなんて、私には到底できません。私はこのまま地元に帰って、父が紹介してくれた人間と結婚して、寺を継いで生きていきます。自分勝手な恋愛で青羽さんを振り回してしまい申し訳ございませんでした。そして、宝物のような時間を私にくれて、本当にありがとうございました」

これ以上涙を拭わなくていいように、頭を深く下げた。目から溢れ出したしずくが重力に従って地面に落ちると、あっという間に暗闇に溶けていく。

「潮田さん、話していただきありがとうございます。あんまり長居すると冷えてしまうので、宿に戻りましょう」

青羽さんはそれ以外に、何も言わなかった。
私の視界に入るように差し伸ばされた青羽さんの手を見て、
「ありがとうございます。大丈夫です、一人で歩けます。青羽さん、先に歩いてください」と私は途切れ途切れに答えて、青羽さんが歩き出すのを待った。

「……わかりました」とだけ答えた青羽さんは、きびすを返して、通って来た道をゆっくりと戻る。その後ろ姿に続いて、私も歩き出す。同じ道を歩いているはずなのに、私の歩いている道だけ光のないところに続いているような気がした。それでも、”これでよかったんだ”と何度も繰り返し言い聞かせながら、私は歩いた。

宿坊に帰ってきて、各々の部屋の前に着くと、何事もなかったように「それではまた明日、おやすみなさい」と青羽さんが言ったので私も小さく頭を下げた。

扉を開けると、真っ暗な部屋の奥から急に明かりがついた。「潮田さん、おかえりなさい」という声がして、私は靴を脱いで部屋に上がった。

私の顔を見た芹沢さんは、何も言わずに抱きしめてくれた、と思う。一つの布団の中で私以外の人間のぬくみを感じながら、私は真夜中にうっすらと目を覚まして、木目の天井をぼんやり見つめながらこれまでの出来事をつぶさに思い出していた。

青羽さんと本当の意味で出会ったあの日から、芹沢さんと同じ布団で寝ている今この瞬間までを、私は一つ一つ丁寧に思い返す。
奇跡のような、けれどもお互いを理解していくと運命にも思えるような、奇妙で尊くて、あまりに濃密な二週間。今まで過ごした四十年と比べたらまたたきのような時間だけれど、私の走馬灯には間違いなく彼らが九割くらい出演してくれる気がした。それだけでもう十分すぎる幸せだと、そんなことを考えながら、ゆっくりと意識が遠のいていった。



翌朝七時。
朝の澄んだ陽光が差し込むおごそかな本堂へ集まった私たちは、眠たい目を擦りながら朝勤行あさごんぎょうとして読経どきょうを行い、その後は勝見さんの案内で境内けいだいを散策させてもらった。

真ん中に大きな蓮池が見える趣深い庭園の中を歩いていると、勝見さんがふと「それではここで法話をさせてください」と立ち止まった。

「私はこのとおりまだ若輩者ですので、皆さまを座らせて教えを説くような堅苦しい法話は苦手なんです。どうぞ、当寺の庭園を見て歩きながら、私の話を気軽に聞いてください」

勝見さんはそう言ってまた歩き出して、庭園の真ん中にある大きな蓮池を指さしながら、ゆっくりと話を始めた。

「ある朝、お釈迦様が極楽の蓮池のほとりを散歩されていた時、はるか下にある地獄をご覧になると、無数の罪人の中である一人の男が目に留まりました。その男は殺人も犯したことがある極悪人ですが、そんな彼が過去に一度だけ蜘蛛を助けていたことをお釈迦様は思い出されます。お釈迦様は彼を救い出してやろうと、蓮の葉の上にいる蜘蛛が垂らしている糸をお取りになって、地獄に向かってその蜘蛛の糸を垂らしました」

「あ、これどういうオチでしたっけ」「花音ちゃん、最後まで聞いてあげような」という芹沢さんと行方さんのひそひそ声を背中で受け止めながら、私は勝見さんの法話に耳を傾ける。

「その糸に気付いた男は、これで地獄から抜け出せると思って、糸を掴んで一心不乱に登りますが、途中で疲れてふと下を覗くと、無数の罪人が自分の後をつけて蟻の行列のように糸を登ってくるのが見えました。男はそれを見て『この糸は俺のものだぞ』と叫びますが、その途端、蜘蛛の糸が千切れて男はあっという間に地獄へ落ちていきました。一部始終をご覧になっていたお釈迦様は、悲しそうな顔をされながら、再び蓮池のほとりをぶらぶらと歩き始めます」

同じように私たちも蓮池の周りをぶらぶらと歩き続ける。「太宰治でしたっけ?」と無邪気に手を挙げて質問する芹沢さんに対して「惜しいです……! 芥川龍之介の『蜘蛛の糸』です」と勝見さんが優しく答えて、話を続けた。

「このお話のもとになったと言われているものに、ポール・ケーラスという宗教哲学者が書いた『カルマ』という小説があります。そこでは、仏教における”我執がしゅう”によって糸が切れてしまったと説明されています。我執とはつまり自己への執着のことで、仏教においては様々な苦しみを生み出す根源として、我執は捨てるべきものとされているんです」

庭園を歩く足を止めずに、勝見さんは穏やかな口調で話し続ける。蓮池に陽光が差し込んで、白い蓮の花が玉のように輝く。芥川の言うとおり、花の真ん中にある金色のずいからは何とも言えない良い匂いがしそうだ、と思った。

「そもそも仏教は、固定的な”自己”なんて存在しないという考えなんです。あらゆるものは常に変化し、流動的に移ろい行くものであり、今ここにいる自分自身も様々な縁起によって生かされている一つの現象に過ぎません。昨日、皆様に写経していただいた般若心経にも"色即是空しきそくぜくう"という言葉でその考えが表現されています。自我なんてものは存在しない、というのが仏教の真理である”諸法無我しょほうむが”という教えです」

勝見さんの話を聞きながら、庭園の飛び石をつたって歩く。ごつごつしている石、角がとれて丸まっている石。時間の経過に伴い少しづつ変化する石たちにどれ一つ同じ形など存在しないように、あらゆるものは常に変化しているのだ。
そしてこの石のもとを辿れば、砂や小石が長い年月かけて堆積して、やがて大きな岩石になり、それを人間が砕いて加工して運んできたものであって、いま私たちの足元に飛び石として並べられている姿はあくまで今の姿に過ぎない。これから何百年後か何千年後かに天変地異が生じて、寺も庭園も何もかも無くなって自然に還れば、この飛び石は再びただの石に、はたまた砂や塵に形を変えるということだろう。
勝見さんの法話を聞きながらそんなことに思いを巡らせていると、

「えーでも結局自分とは一生付き合うじゃないですかぁ」と芹沢さんが割とデカめの声で不満をこぼすように言い出したので私は一気に現実に引き戻された。釈然としない様子の芹沢さんに、勝見さんは「おっしゃるとおりです」と仏のような笑みで答える。

「人生を生きる上では、誰しも自分という肉体からは逃れられません。なので、仏教の教えは”自己実現に囚われすぎる必要はない”という教訓程度に捉えて、自分自身がどう生きたいのかを都度見つめ直すことも私は大事なことだと思います」

突然、勝見さんが立ち止まって意味深に口角を上げる。「ですよね、青羽さん」と勝見さんが急に馴れ馴れしく青羽さんの名前を呼んだので、私は真っ先に青羽さんの方を振り向いた。その顔は、クラブで初めて私に正体を明かした時のように、少し笑っている。

「実は私、青羽さんとはDJの知り合いなんです。皆様には黙っていて申し訳ございません」
「え、勝見さんがですか?」
「はい。僧侶と並行して、DJの活動もしているんです。青羽さんとは何年か前に東京のDJパーティーでお会いしました。それからは私が東京に行くたびに会って話すような仲になり、今でも定期的に遊ばせてもらってます」

「え! そうだったんですか! 青羽さん何で言ってくれなかったんですか」と驚く芹沢さんに「すいません、サプライズみたいで面白いかなと思いまして」と青羽さんは頭をぽりぽり掻きながら照れ臭そうに答えた。クラブでのサプライズといい、青羽さんの物静かな見掛けに寄らないこのちょっとしたエンターテイナー気質は一体誰から受け継いだものなんだろうと私は勝手に推察してしまう。

「行方さん知ってました?」
「俺も知らんかったわ。DJパーティーの時は基本青羽が一人でライブするから、俺あんまり青羽のDJ仲間とか分かんないんだよね」

行方さんの口調には不服のニュアンスが一切なく、むしろ青羽さんの引き出しの多さに感心しているような雰囲気すらあった。
今この瞬間、場にいる全員の視線を集めている青羽さんが「驚かせてしまってすいません」と少しだけ悪びれる様子で経緯を説明し始めた。

「勝見さんを初めてお見かけしたのはアングラなDJパーティーだったんですけど、その時の衝撃がものすごくて。般若心経をテクノ風にアレンジしたダンスミュージックを全身に浴びた時、何というかもう神秘的で、とにかく圧倒的な音楽体験でした。感動のあまりライブ終了後に僕から声をかけ、意気投合しまして、かれこれ三年くらいの付き合いになります。勝見さんが宿坊をやられているのは知っていたんですけど、中々足を運ぶ機会がなくて、今回思い切って潮田さんや皆さんを誘ってみたという次第です」

こんなに若いのに立派な僧侶として振る舞っている勝見さんのことを心の中で少し不憫ふびんに思っていた私は、失礼を承知で「あの、お寺を継ぐのは嫌ではなかったんですか」と聞いてみる。すると、勝見さんの口からは「嫌でしたよ」ときっぱりした答えが返ってきた。

「私は一人息子でしたが、寺を継ぐのが嫌で、寺から逃れるように大好きな音楽にずっとすがっていました。大学進学を機に地元を離れ、卒業後も音楽を続けていたんですけど、ある日両親が不慮の事故で亡くなったんです。それがきっかけで私が寺を継ぐことになったんですが、実際に継いでみたら住職という仕事に対する解像度が上がったといいますか。僧侶でも、考え方次第で自分のやりたいことを実現できる余地があるんだと気付いたんです。そういうスタンスで今もDJ活動を続けていますし、この宿坊だって檀家の皆さんと話し合って始めました」

「いつか本堂でDJライブを開催するのが私の夢なんです」と勝見さんが期待に胸を膨らませるように笑みをたたえる。不憫、なんて少しでも考えてしまった自分の方こそ不憫だったと気付かされた。勝見さんの淀みない言葉は、”寺を継いだら人生終了”という呪縛に囚われていた私の心にすっと入り込んで、切れ味の良い日本刀を振り下ろすみたいに、しめ縄のようなぶっ太い呪縛をいとも簡単に断ち切った。

昨夜、私が青羽さんに伝えていた言葉を思い返す。これでよかったんだ、という決心が今更揺らぎ始めて、取り返しのつかなさに居ても立ってもいられなくなる。

「潮田さん」

急に青羽さんに呼ばれて、私は「はっ、はい」と変な調子で返事をしてしまった。

「朝食まで少し時間があるので、二人で外をちょっと歩きませんか」

「……分かりました」と私が小さく頷くと、芹沢さんと行方さんは「じゃあ私はもう少し勝見さんと読経しながら待ってますね。勝見さん、よろしくお願いします!」「じゃあ俺は風呂でも入って待ってるわ」と言い残して庭園からそそくさと去っていった。突如として青羽さんと二人きりにされた私は、どうにもならない気まずさに襲われて、言うべき言葉が何ひとつ口から出てこない。

「潮田さん、大浴場入りました?」

青羽さんは寺の出口に向かって歩きながら、何事もなかったように軽い口調で私に話しかける。

「あ、いえ、まだです」

"昨日"はシャワーで済ませました、と言いそうになって、やめた。昨日の夜のことを連想させるような言葉に、私は尋常じゃないほど敏感になってしまっている。

「僕なんて朝から二回も入ってしまいましたよ。ご存じのとおりこんな身体ですから温泉には中々行けなくて、久しぶりの大きい湯舟に感動してつい堪能してしまいました」

浴衣の袖を捲った青羽さんの腕から黒々としたタトゥーが覗く。今更青羽さんのいかついタトゥーを見たところで私は何も驚かない。それよりも昨夜のことで頭がいっぱいで、青羽さんの話には「それはよかったですね」という感じの当たり障りのない言葉だけ返して、私は黙々と歩いた。

寺から出て、車通りのある道を歩く。一枚の壁のようにドンっと立ち並ぶ背の高い木々たちが、道路に広大な日陰を作っている。木々の隙間から、眩しい陽光と立派な朱塗あかぬりの塔が覗いていた。

壇上伽藍だんじょうがらんみやびやかな建物ですよね。もうちょっと歩けば金剛峯寺こんごうぶじや奥の院も見えてきますよ。朝ごはんを食べたら、みなさんで観光しましょう」
「あの」
「はい、どうしました?」
「私が言うべきセリフではないと重々承知していますが、その、青羽さんは気まずくないんですか」

私の言葉を聞いた青羽さんが、「潮田さんはこれ以上僕を振り回すべきではないと思って、昨日の夜話をしてくれたんでしょう?」と優しく返してきて、私は力なく頷いた。

「……タイミング最悪でしたよね、すいません」
「潮田さんが謝ることではありませんよ。僕は潮田さんに、勝見さんのような考え方をする住職もいるんだってことを伝えたかったんです。僕の口から伝えるよりも、現役の住職である勝見さんの姿を実際に目にして彼の話を聞いた方が説得力があると思いました」

勝見さんの話を聞いた上で考えれば、昨日の夜の決意も変わっていたのだろうか。尚早しょうそうだったかもしれない、と今更ながら後悔してしまう自分に、心底嫌気が差す。

「潮田さん。一つ聞いてもいいですか」
「はい」
「このまま実家の寺を継ぐことに、潮田さんは本当に納得していますか」

青羽さんの言葉が、痛かった。正直に気持ちを伝えようとするけれど、余計なプライドが邪魔をする。この期に及んで意志が揺らいでしまっている優柔不断な自分も、今からでも昨日の発言を撤回できるだろうかなんて一ミリでも考えてしまっている厚顔無恥な自分も、すべてが痛いほど情けなくて、これ以上醜態を晒すわけにはいかないと思った。

「昨日のお言葉を掘り返すようで申し訳ございませんが、潮田さんは僕を失うことが怖いと言ってくれましたよね。でも事故か何かで二人まとめて死ぬ可能性だってありますし、そもそも潮田さんが僕のことをずっと好きでいてくれるとは限らないわけじゃないですか」

青羽さんにそう言われて私は条件反射で一瞬むっとしたけれど、悪気があるわけではなさそうなので何も言い返さなかった。そんな私に、青羽さんは言葉を続ける。

「永遠に続くものなんてないんです。パーティーだっていつか終わって、後片付けを済ませたらまた何でもない日常に戻るみたいに、そういう浮き沈みを何度か繰り返して、人生もいつか終わるんです。そこに恐怖や畏怖を抱くのは自由ですけど、何を思ったところでどうしようもない。そもそも生きることって、儚いことですから。どうせすべて終わるなら、せめて今あるこの時間を楽しく生きてみませんか?」

ここで頷いたら、私はどこまでも卑怯者だ。自分ではそう思っていなくても、結果としてそうなってしまうのであればそれが事実だろう。自分で昨日の発言を撤回するのが惨めで、青羽さんの提案に了承する形でなかったことにするなんて、正々堂々ではないと思った。

それでも。
プライドなんて捨てでも、開き直ってでも、私には今、青羽さんに伝えたい、伝えなくてはならない言葉がある。

「わたし、やっぱり青羽さんと一緒に生きたいです。もうほんとに自分が情けないんですけど、今の私には青羽さんがいない人生が想像できないんです。青羽さんのことが好きです。青羽さんと結婚したいです」

まくし立てるように伝えると、時間差で致死量の羞恥しゅうちが襲ってきた。あれ? さすがに結婚は突っ走り過ぎじゃないか? というか青羽さんがそこまで考えていなかったら死ぬほど恥ずかしくて今すぐこの場から消えてなくなりたい、と波のように荒れ狂う私の心を一瞬で鎮めるように「僕もです」と青羽さんが言った。

「僕も潮田さんと結婚して、最後まで添い遂げたいです。潮田さんが寺を継ぐのなら、僕が住職になります。僕が潮田さんと共に生きていきたいので、そうするんです。これは僕のエゴです」

青羽さんは本当に私でいいんですか、と聞き返す代わりに、青羽さんの目をまっすぐ見据えて私は答える。

「私も青羽さんと、最後まで添い遂げたいです。こんな私ですけど、青羽さんに看取ってほしいし、青羽さんのことも看取りたいです。そして寺を継ぐかどうかは、これから両親と話し合って決めようと思います。まずは何より、青羽さんとの結婚を両親に認めてもらいます」

誰かと結婚したいと思う日が来るなんて、思ってもみなかった。そもそも四十代の中年で、特段子供も欲していない私にとっては今更無理に籍を入れる理由も世間体もない。それでも青羽さんと結婚することは私にとって、欠けていた人生のピースが揃うような運命的な出来事に感じられた。これまでの私の満たされなさは、すべてこの瞬間のためにあったのだ、とすら思った。

寺を継いでも人生は続く。勝見さんのように好きに生きている住職もいる。寺を継いでも青羽さんが隣にいる限り、私の人生はいかようにもなる気がしてきた。理解不能な父と、洗脳された母しかいないあの閉塞的な実家でも、青羽さんと一緒なら怖いものなんて何もないと思った。

「顔合わせ、四月三十日って言ってましたよね?」
「はい。時間がないので、ひとまず母に急いで連絡しようと思います」
「お父様が紹介されたお相手の方には、僕からもしっかりと説明させてください」
「そんな、申し訳ないですよ」
「これは、二人の結婚です。潮田さんとの結婚を認めてもらうためだったら僕はなんだってしますよ。むしろ、させてください」

「……ありがとうございます」と深く頭を下げて「あの、早速母に連絡しようと思います」とポケットからスマホを取り出した。
昨夜届いてから未読のままにしていた〈引っ越しの準備は順調? いつこっちに帰ってくるか早く具体的に決めなさい〉という母のLINEに既読を付けて、メッセージ欄にテキストを打ち込む。

〈お母さん、話があります。今日の夜、通話できますか〉

送信する前に、青羽さんの顔をふと見る。見守るような、けれど何も心配していないような、一点の曇りもない澄み切った顔つきで青羽さんが頷いている。励ましたり和ませたりする言葉もなく、ただ黙って頷いているその仕草がどんな言葉よりも意味を持っているような気がして、私は心強かった。

私も同じように頷いて、紙飛行機のような送信ボタンを力強くタップした。



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