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パーティーはいつか終わる《5》【#創作大賞2025】

《1》《2》《3》《4》《5》《6》《7》《最終話》

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目を覚ますと、見知らぬ部屋のベッドにいた。

口の中がひどく乾いていて、頭痛も少しある。
起き上がらずに、枕の上で頭だけを動かして辺りを見回す。

十畳ほどの広さの小綺麗な部屋。アイボリーのカーテンの隙間から外の光が漏れ出ていて、壁に掛けられている時計を見ると時刻は朝の八時のようだ。
カーテンや家具といった部屋の物は基本的にアイボリーやオフホワイトといった白系統で統一されていて、ウサギのようにふわふわな毛並みの円形ラグや、ソファーの上にちょこんと置かれているチュール生地のクッションに若い女性っぽさを感じる。
真っ白いテレビ台の上で写真立てと一緒に並べられているリードディフューザーの匂いだろうか、部屋の空気はどこかムスク系の香りをまとっていた。

その間違いなく嗅ぎ覚えのある甘い香りに、はっと記憶が蘇る。
芹沢さん? と私が口に出そうとしたところでリビングのドアが開いた。

「あ、潮田さん起きたんですね。おはようございます」

私はベッドからゆっくりと起き上がり「おはようございます……」と消え入りそうな声で返して、何となく状況を理解した。

「あの、すいません。私、芹沢さんのご自宅にお邪魔した記憶がまったくなくて……その、粗相はございませんでしたか……?」

恐る恐る尋ねる私に「その辺は心配しないでいいですよー。昨日、ていうか今日の午前二時あたりに潮田さんが居酒屋で寝始めたんで、そのまま私のアパートに連れて帰りました」と芹沢さんはきっぱりと答えた。

「……大変申し訳ございませんでした」
「いえいえ。元はと言えば私たちが潮田さんを連れ回しちゃったので。それより体調はいかかですか?」
「少し頭痛がしますが、他は大丈夫そうです」

「よかったです。ロキソニン飲む前に、これよかったら食べてください」と芹沢さんが言うと、部屋の中にあるキッチンをごそごそと漁って、ロキソニンの箱と一緒に一本のバナナとペットボトルの水を私に差し出した。

「すいません、すぐに食べられるのこれしかなくて」
「あ、いえ、ありがたいです」

シャワーも浴びず寝てしまったボサボサ髪の中年女性が、差し出されたバナナに手を伸ばす。今この瞬間、動物の餌付けみたいとか思われているんだろうか。
これ以上芹沢さんの部屋に長居するべきではないと思い、猛獣のような勢いでバナナを胃に流し込みロキソニンを水で飲み込む。
「すいません、色々とご迷惑をおかけしました」と芹沢さんに頭を下げ、地図アプリで最寄り駅を調べようと枕元に置いてあった自分のスマホを手に取ると、

「あ、ここ松戸ですよ」と芹沢さんがまるで私の行動を見透かすように言った。

「松戸って、千葉の松戸ですか?」
「はい」

私たちが昨夜飲んでいた渋谷から松戸は相当距離があるはずだ。午前二時まで飲んでいたということは終電はもちろんなくなっていたわけで、松戸までのタクシー料金を思い浮かべた私は一気に血の気が引く感じがした。

「あ、あの、本当にすいませんでした。タクシー料金は、もちろん私が全額払いますので。大金を立て替えてもらって申し訳ないです」

咄嗟に謝ると、芹沢さんは「フフッ」と吹き出し、違いますよ、とくすくす笑った。

「行方さんが車で送ってくれたんですよ。あの人、基本ノンアルなんで私も青羽さんもしょっちゅう送ってもらってるんです。行方さんの家もここら辺にあって、ちょうど帰り道なんですよ」
「……そういうことだったんですね。行方さんには改めて、ちゃんとお礼させていただきます」
「あの人バツ三なんであんまり近づかない方がいいですよ」
「ええ、そうなんですか?」
「お酒を飲まなくなったのも、前の奥さんとお酒絡みで色々あったらしいですからね。危険人物です」

そう言いながらも芹沢さんの顔は終始楽しそうだ。昨日の居酒屋で見た、歳の離れた親戚のような二人の姿を思い出して微かに笑みが込み上げてくる。

「そんなことより、潮田さん『とみ田』っていうラーメン屋さん知ってます?」

芹沢さんに急に聞かれて、私は「あ、はい、知ってますよ。確か、松戸が本店ですよね」と答えた。何を隠そう、私が千葉の松戸を知っていたのは『とみ田』のカップ麺がきっかけだ。

「そうですそうです! あ、もしかして行ったことあります?」
「いえ、お店には行ったことないです。でもあのカップ麺はよく食べますよ」
「ほんとですか! 潮田さん、意外にああいう濃厚系お好きなんですね。これ自慢なんですけど、私の家のすぐ近くに本店があるので、よかったらお昼一緒にどうですか」

芹沢さんの言葉には『え、潮田さんその歳で濃厚系ラーメンなんか食べてるんですか?』というような嫌味の要素は一切なく、むしろ共通項を発見できて嬉しそうに見えたので私は少し安心して「はい、ぜひ行ってみたいです」と答えた。

「じゃあ潮田さんがシャワーを済ませたら、そのまますぐ行きましょう」
「え、まだ朝八時過ぎくらいですよね? そんなに早くから営業しているんですか?」
「あそこ人気過ぎて、整理券が必要なんですよ。しかもこの時間でも割と並びます」
「ええ! それは、すごいですね……」

歳を重ねるにつれ女性一人ではラーメン屋に入りづらくなり、カップ麺でラーメン欲を済ませるようになってからはしばらく足が遠のいていた私にとって、昨日会ったばかりの、それに一回り以上年下の女の子と二人きりで、ましてや整理券を入手してまでラーメンを食べに行くことなんてもはやハプニング的なイベントに思えた。

現実感がなくふわふわする気持ちのまま、芹沢さんにシャワーをお借りして身体の汚れを洗い落としてからマンションを出る。「私のマンション、とみ田から徒歩十秒が売りなんです」という芹沢さんの言葉のとおり、数メートル先に『中華蕎麦 とみ田』と書かれた木製の看板を掲げている料亭のような佇まいの店が見えた。
店の前にはすでに何人か並んでいたが整理券は無事入手でき、一番早い十時の枠で予約を確保する。
あとは十時になったら整理券を持って店に入るだけとのことなので、「公園で時間でも潰しますか」という芹沢さんの提案に従って、自販機で缶コーヒーを二つ買ってからスマホで近くの公園を探した。

地図アプリに従って大通りを横切ると、街中には似つかわしくない、木々が鬱蒼と生い茂る森のような場所が突如として姿を現わした。入口は階段になっていて、寂びれた石段は暗い森の奥へと続いている。大人が二人通れるかどうかくらいの狭い石段を、私が先頭になって芹沢さんと恐る恐る奥へと進む。
三分ほどかけて登った先で、急に視界が開けて、そこには大きな窪地のような公園が広がっていた。遊具は公園の隅っこ辺りに申し訳程度にしか置かれていなくて、それだけ見ると少し物寂しい気がするが、薄紅色の花を目いっぱい咲き誇らせた桜の木々が公園の周りを囲うようにずらっと立ち並んでいて、思わず声を漏らしてしまうような華やいだ雰囲気が満ちていた。

「うわ、すご! 近くにこんなところあったんだー。なんか、穴場の花見スポットって感じですね!」と芹沢さんが楽しそうに言うので、私もこくんと頷く。近くにちょうどいいベンチを見つけて、二人でよいしょと腰を下ろした。

今年は平年より桜のピークが早まって、今日あたりが満開らしいとテレビで言っていた気がする。四月一日。新年度初日にふさわしい晴れ渡った青空に、春の暖かな日差し。こんなに気持ちよく桜が咲いている今日は、きっと色んなところで新しい何かが始まる日で、学生も社会人もどこか浮足立つように社会全体にうっすらと幸福ムードが漂っている気がするけれど、晴れて今日から無職になった私は”社会”というものに置いていかれているような気持ちで、満開の桜を見てもどうにも心が落ち着かなかった。

「そういえば、潮田さん今日から無職になったわけですもんねえ。どうですか? ド平日の朝から公園で桜見れて優雅じゃないです?」

ちょうど私が考えていたことをそのまま口にするのは、綺麗な桜を前にしてあまりに暗すぎる内容だと思って、当たり障りのない返答を考える。

「そうですね。本来ならもう出勤している時間ですし。それに会社の窓から見える景色は建物ばかりだったので、こんなに春を感じたのは久しぶりかもしれません。桜、いつの間にかこんな綺麗に咲いていたんですね」
「そうですよー。わたし夜職なんで、こんな風に平日の明るい時間から公園で桜を眺めるのがこの時期の日課なんです」

「桜、お好きなんですか?」とあまり口に出したことがない質問をすると、芹沢さんに「桜に好き嫌いとかあるんですかね」と笑って返された。

「でもそう言われると、別に好きで見てるわけじゃないんです。こんな風に、平日の朝から公園でまったり桜を眺めてると、自分は社会とは別の時間で生きてるんだなーっていう気持ちになるんです」

まだ出会って間もないけれど、私がイメージとして抱いている天真爛漫な芹沢さんらしくない、神妙なトーンで彼女はそう言ったので「それは、芹沢さんにとって良いことなんですか?」とあくまで抽象的な質問で返した。

「んー、良いか悪いかというより、内省に近いです。社会に属していない自分自身を見つめ直す時間というか」

想像よりも”固い”答えが返ってきて、私はどこまで踏み込んでいいのか分からず、今度は具体的な質問で話題を変えようと「あのクラブでのスタッフ歴は長いんですか?」と芹沢さんに尋ねた。彼女は「そうですねー」と言いながら、缶コーヒーを握りしめている。

「あのクラブは二十三の時から働いてるんで、もう二年くらいになります。基本的にはあそこでスタッフしてますけど、シフトが空いた時は別のクラブでテキーラガールとかやってます」
「球場にいるビールの売り子的なアレでしょうか」
「そんな感じですけど、服装でいえばテキーラガールの方がもっと露出が多くて派手ですね。クラブによってはほぼ下着みたいな恰好をさせられることもありますよ」

私は勝手に、クラブというのは若者たちがそういう女の子たちと酒を飲んで楽しむ場所だと想像していたけれど、昨日初めて足を踏み入れたあのクラブには過度な露出をした女性スタッフは全くいなくて、場の全員が純粋に音楽を楽しんでいるような熱狂があったことをふと思い出す。

「一口にクラブと言っても、色んな場所があるんですね」
「そうですね。大きく分けると、”音楽重視”か”ノリ重視”ですね。昨日潮田さんが見たクラブは、業界でもストイックな部類のいわば”音楽重視”のクラブで、お客さんにも玄人が多いんです。それとは別に、テキーラガールがいるような”ノリ重視”のクラブもあって、そっちの客層はナンパ目的だったりワンチャン狙いが多いですね」

さらに付け加えるように「音楽重視のクラブであんなに大きい箱は珍しいんです」と芹沢さんが自慢気に笑う。

「そうだったんですね。確かに、青羽さんと行方さんのライブの時の熱狂は、何というかこの世のものとは思えないくらい、とにかくやばかったです」

「やばいですよね! もっと言えば、昨日潮田さんを案内したあのVIPフロアはたまに芸能人なんかもお忍びで来るんですよ!」と興奮気味に話す芹沢さんを見て、その稚気の抜けていない姿とは対照的に、黒スーツをビシッと着こなした初対面の彼女の真っすぐな後ろ姿を何となく思い出した。

「あの、急にすいません。芹沢さんって、何かスポーツとかやってましたか?」
「あ、はい。色々やらされましたけど、一番長かったのはフィギュアスケートですね。どうしてですか?」
「いや、最初お見かけした時、すごく姿勢が綺麗だなと思って。羨ましいなあ、なんて思って見てました」

私の言葉を聞いた芹沢さんが「ふっ」と吹き出す。

「あ、すいません、急に変なことを聞いてしまって」
「いや、全然いいですよ。潮田さんってなんか、思いついたこと口に出しちゃう的なところありますよね」
「そう……なんでしょうか。コミュニケーションが下手くそで申し訳ないです」

波風を立てるのが嫌で、思いついたことがあっても人前では極力言葉にしないように努めて生きてきたつもりだったけれど、芹沢さんや青羽さんのような破天荒な人間たちに巻き込まれて、その自制心が緩み始めているのかもしれない。

「いや、気を許してもらってるみたいで私は嬉しいですよ。そう言えば、姿勢の良さはキャバやってる時もよく褒められてましたね。ていうか、フィギュアスケートなんて単語、久しぶりに口に出しましたよ」
「何年間やられてたんですか?」
「小学一年生から中学卒業するまでやってました。まあそんなに上手じゃなかったしそこまで好きじゃなかったけど」
「すごいですね。相当お金がかかるって聞きますよ」

意図せず家庭の事情を詮索するような発言になってしまい、ちょっと踏み込み過ぎたかも? と焦ったが、芹沢さんがふざけたキメ顔で「私の実家、超太いんで」と答えて一人で笑い出したので私は少しほっとした。
言われてみれば、芹沢さんの言動は基本的にガサツっぽく見えるけれど、笑った際に時折さりげなく口元を隠す仕草や、居酒屋での上品な箸の持ち方などの細かい所作に、水商売で培ったものではない彼女の根っからの育ちの良さみたいな部分を感じることが多々あった。超太いかは不明だが、裕福な家庭で育ったことは嘘ではないのだろう。

「羨ましいです。私の実家の寺なんて、敷地が大きいだけで全然裕福じゃないんですよ。しかも家庭環境も崩壊してますし」
「私もこんなこと言っておいて、家庭環境は終わってます。家族なんてもう何年も会ってませんよ」

「え、そうなんですか?」と驚いて、芹沢さんの顔をちらっと見る。先ほどのふざけたキメ顔はすでにそこにはなかった。
無理に聞き出すつもりはなかったが、芹沢さんが何かを言おうとしているのを察した私は、隣に座っている芹沢さんの方に身体の向きを変えて傾聴の姿勢を見せる。

「ちょっと長くなるかもですけど、聞いてくれます?」
「はい、聞かせてください」

意を決したのか、缶の底を上に向けてコーヒーを飲み干した芹沢さんが「ぷはぁ」と大げさにこぼしてから、ゆっくりと話を始めた。

「父が地元で総合病院の院長やってるんです。私には兄が二人いるんですけど、どっちも医者で、言うまでもなく私はおちこぼれって感じでした」

芹沢さんには似つかわしくない自嘲する表情を前に、私は言葉を返す代わりに目だけで頷く。

「わたし、勉強は全然できなかったんですけど、医療の道には憧れていたんです。医学科受験はどう頑張っても非現実的だったので、看護師を目指したいと父に相談したら、"お前のせいで自分の評判に傷がつくのが嫌だから地元じゃなくて県外の病院で働いてくれ"的なことを言われました。そういうわけで、高校を卒業してから東京の看護専門学校に進学して、一人暮らしを始めたんです」

実家が太いとはいえ、彼女には彼女なりの苦しみがあるのは当然だ。私は、先ほど芹沢さんに発してしまった”羨ましい”という言葉の軽率さを反省した。

「すいません……事情を想像せず軽い発言をしてしまって」
「いえ、同情してほしいわけではないので謝らないでください。結局すべて、自業自得だって分かってるんです」

芹沢さんの神妙な面持ちを見て、私は静かに彼女の言葉を待った。

「私にも浅はかなプライドがあったんです。専門学校の学費やアパートの家賃は親に出してもらいましたけど、せめて生活費は自分で稼いでやるという意地を張って、直接的な仕送りはすべて断りました。最初は普通のバイトをしていたんですけど、実習や勉強が忙しくなるにつれ時間に余裕がなくなって、高単価の水商売で稼ぐようになりました。ガールズバーやキャバクラで単発で働くという感じで、私の周りには割とそういう看護学生も多かったんです」

「……看護学生をやりながら生活費を自分で稼がれるなんて、立派過ぎますよ、尊敬します」と芹沢さんを精一杯たたえる。水商売をおとしめる意図は決してないということを心の底から伝えたかった。

「でも、晴れて看護師にはなれたんですけど、激務と人間関係でメンタル壊して一年ちょっとで辞めてしまって。会社の事務として再就職することも考えましたが、普通の就活がすでに自分とは遠い存在になっていて、結局水商売に戻ってきました。夜の世界って、感覚が狂うんですよ。おじさんの隣で微笑んで酒飲んでるだけで看護師時代の倍近くの給料が稼げちゃうんです。父と兄たちは命削って人命救ってるのに自分は一体何してんだろって考えるんですけど、今さら医療の道に戻る体力も気力もなくて、結局キャバをずるずる続けて、だいぶお金も貯まったので今はクラブスタッフのバイトでゆるく稼いでます」

「これが私の人生です。ご清聴ありがとうございました!」と芹沢さんは大袈裟に一礼してから顔を上げた。彼女の顔はいつの間にか今までどおりの笑顔に戻っていて、私は少し安心する。

「話していただき、ありがとうございます。あの、気の利いた言葉を返せなくて申し訳ないんですけど、家族の問題って、人に話しづらいですよね」
「ふふっ。潮田さん、昨日の居酒屋であけすけに話してましたよ」
「いや、その、あの時は酔いも回っていたというか。今になって恥ずかしくなってきたんで、どうか忘れてください」
「あーてか青羽さんとか行方さんにもこんなに真面目に話したことないかも。やっぱり女の友情ってやつですかね? 潮田さんに話せて、なんかよかったです」

「私たち、機能不全家族同盟ですね!」と芹沢さんが決め台詞のように付け加えたので、二人して小さく笑い合う。惨めさと嬉しさが同時に押し寄せるみたいで、不思議と心地がよかった。

「あ、そういえば、わたし潮田さんに謝ろうと思っていたことがあって」
「はい? なんでしょう」
「昨日居酒屋で、実家に帰ると言った潮田さんに”何のために東京に出てきたんですか”的なこと言っちゃったじゃないですか。あれ、そっくりそのまま私が私に思っていることなんです。自分のこと棚に上げて潮田さんに当たるような真似をしてしまい、すいませんでした」

思いがけない謝罪を受けて、私は咄嗟に「いや、そんなの全然気にしないでください」と両手をぶんぶん振った。

「ふふ、ありがとうございます」と微笑みながら、芹沢さんは話を続ける。

「東京にいると本当に時間の進みが早くないですか? あっという間に桜が散って、気付けばまた咲いてるじゃないですか。春が訪れるたびに、この街にいる大勢の誰かが新しいスタートを切って、そのたびに私はみるみる追い抜かれているような気がして。そもそも誰とも同じ競争なんてしてはいないと分かっているのに、私だけがゴールから遠ざかっているような気持ちで、時折不安になるんです。東京の桜を見ていると、そんな考えが浮かびます」

芹沢さんの言葉を聞いて、私も思っていたことを正直に告白することに決めた。

「この公園で桜を目にした時、私も同じようなことを思ってました」
「え、ほんとですか?」
「はい。桜は綺麗ですけど、それが今の私にはちょっと虚しいというか。それに、私は人生であと何回桜が見れるんだろうとか考えてしまいますけど、芹沢さんまだお若いじゃないですか。ゆっくり考える時間は全然あると思いますよ」

二十代はおろか、三十代すら惰性で過ごしてしまった自分が何を言っても説得力がないとは分かっていたけれど、芹沢さんが私と同じような次元まで足を踏み入れるにはまだ若すぎると思った。

私の言葉を聞いた芹沢さんが「あはっ」と吹き出す。

「潮田さんだって大袈裟すぎますって。四十代で生き生きしている女性なんてインスタ見ればいっぱい出てきますよ」
「ああいう方たちって元がキラキラしているからこそ今でも美しくありたいと思うんです。四十代の私が突然垢抜けたらそれはもうお伽話ですよ」
「そんなことないですよー。潮田さん、素材は悪くないと思うんです。肌だってすごく白いですし。あっそうだ、一度私が潮田さんのことメイクしてみてもいいですか?」

肌が白いのは単純に外に出ていないだけですしお心遣いは嬉しいですが芹沢さんのような今風のキラキラしたメイクを施されたところで中年の粗が目立つだけなので遠慮しておきますと丁重にお断りすると、芹沢さんが「くそー、まだその距離感じゃなかったか!」とわざとらしく悔しがって笑った。

それからは他愛もない会話をして、後半はお互いの父親についての批判で大いに盛り上がり、気付けば予約時間の十時が近づいていたので、急いで公園を出て『とみ田』に向かった。

店に着くと食券の購入を案内されて、芹沢さんの「これと、これと、あとこれです」という指示に従って券売機をポチポチと押し、出てきた食券をギュッと握りしめてドキドキしながら店内へ入る。

ラーメン屋というより割烹料理店のような雰囲気。店内には静かなジャズが流れていて、厨房をL字に囲う大きなカウンターテーブルに天井の暖かな光が降りている。木目を生かしたそのカウンターテーブルには、木製のトレーが一つ一つ丁寧に並べられていた。
カウンター越しに覗く厨房からは、濃紺の調理服を着た店主が美しい手捌きで切り盛りしている姿が堪能できる。その姿を恍惚と眺めていたら、あっという間に注文の品が目の前の木製トレーに恭しく載せられた。

芹沢さんと同じく、名物のつけ麺と特選トッピングを注文していた私は、眼前に鎮座している濃厚魚介豚骨のつけ汁と、噛み応えのありそうな極太麺に思わず唾液線が刺激される。さらにトッピングとして、四種類のチャーシューと肉シューマイが横長皿に並べられたものと、塩とスダチが載っている小皿も提供されて、身震いするような食欲が込み上げてきた。

はやる気持ちを抑えて、芹沢さんと「いただきます」と小さく手を合わせると、私は素早く箸を手に取って、つけ汁にどっぷりとつけた太麺を勢いよく啜った。うどんのようなコシのある太麺にドロッとした濃厚なつけ汁がよく絡んでいて、あまりの美味しさに悶絶する。

「芹沢さん、これ、やばいです。もう、なんていうか、とにかくカップ麺と全然違います!」
「それはそうですよ! 潮田さん、語彙力なくなっててウケます」

塩とスダチだけで麺を食べてみたり、芹沢さんが途中で頼んだブドウ山椒を試してみたりする。どれも感激するほどの美味さで、気付けばあっという間に平らげてしまった。

店に置いてあった特製の日本酒も注文して、つけ麺をつまみにしながら一人で酒を飲んでいた芹沢さんは、店を出てからも少し気持ちよさそうに酔っぱらっていた。

「芹沢さん、昨日あんなに飲まれていたのによく飲めますね」
「潮田さん知らないんですか? 二日酔いって迎え酒で治るんですよ」

馬鹿言ってないでちゃんと水分をとって安静にしてください、と言いかけたけれど、お節介に思われたくなかった私はあくまで一歩引いて「お身体気を付けてくださいね」とだけ言うと、芹沢さんは「心配無用でーす。夜職舐めないでください」と謎のキメ顔でへらへらと笑いだす。私はその笑顔を見ながら”若いなぁ”としみじみ感じた。なんでこんな若い子と私なんかが一緒にラーメンを食べているんだろう、という不思議な気持ちに包まれながら、駅までの道のりを二人で歩いた。

十分ほど歩いて駅に着くと、私は芹沢さんに深々と一礼した。
「あの、長々とありがとうございました。昨日から色んなことがありすぎて、何だかずっと夢を見ているような気分です」

わははっと芹沢さんが楽しそうに笑うと、旧友のようなテンションで「そういえば、来週の土曜とか空いてますか? 青羽さんと行方さんの四人で、花見でもしません?」と私を誘った。

奇妙な関係性だとは分かっていたけれど、芹沢さんが誘ってくれたことが何より嬉しくて、私はこの胸が高鳴る気持ちをなるべく悟られないように「特に予定はないので、いいですよ」といかにも平静を装って答える。

「やったあ。じゃあ決まりですね」
「お言葉ですけど、その頃には桜だいぶ散ってると思いますよ。あ、私は散ってても構いませんが」
「それくらいの方がちょうどいいですよ。何より、メインはお酒ですから」

芹沢さんと約束を交わして、ついでにLINEも交換して、私は帰りの電車にひとりで乗り込んだ。
人の少ない平日昼間の電車に揺られながら、昨日の出来事を思い返してみる。
大して喋ったことがない人間に突然クラブでDJパフォーマンスを披露され、そのクラブの仲間たちと居酒屋で酒を飲み、さらにはその飲みの場で突然愛の告白を受け、私も私で誰にも喋ったことがない自分の生い立ちを曝け出していた。そして人生で初めて酔い潰れて、十五歳年下の女の子の家で看病され、その彼女とラーメンを食べて、翌週は四人で花見をする約束をした。

ずっと抑揚のない日々を過ごしてきた私にとって、昨夜からの出来事があまりに現実離れし過ぎていて実感が湧かない。何時間ぶりかに一人になった途端、ひょっとしてすべて夢だったのでは? という考えが頭をよぎったけれど、「ピコンっ」とLINEのメッセージがスマホに表示された瞬間、私はこれまでの出来事が紛れもない現実であるということを即座に理解した。

〈潮田さん、無事帰れましたか?〉

"青羽雄司 a.k.a G‐GO:G‐TOK"というやたらと長いプロフィール名の人物とのトークルームをタップする。昨日の夜十一時頃のやり取りを見返すと、クマがペコっと頭を下げているスタンプを送っている青羽さんに対して、私はなぜかクマが真顔でウサギの耳をギュッと鷲掴みしている不気味なスタンプを返していた。

そうだった。退職すると会社のビジネスチャットが使えなくなるので、昨日の居酒屋で青羽さんとLINEを交換していたのだった。青羽さんのプライベートの連絡先を持っているという事実に、少しだけ面映おもはゆい思いがする。

〈おかげさまで、いま帰りの電車に乗っているところです。ご心配をおかけしてすいませんでした〉

急いで昨日の失態を詫びなければ、という思いで返信すると、秒で既読が付いて、そしてすぐに返信が来た。

〈よかったです、安心しました!〉〈ちなみに僕はいま昼休憩中です〉〈潮田さん、お昼ごはんは食べられましたか?〉

あまりの返信の速さに気圧けおされたが、言われてみれば昼休憩真っ只中の時刻で、貴重な休み時間を私とのLINEに使わせてしまっていることに少しだけ申し訳ない気持ちになって、会話の自然な終わり方を探りながら返信する。

〈お仕事お疲れ様です。休憩中に失礼しました〉〈お昼は芹沢さんと人生で初めてとみ田のつけ麺を食べましたよ〉

何を食べたか聞かれたので一応具体的に答えてみたものの、次のラリーで会話を終わらせるのが無難だろうと思いながら返信を待っている間、何となく青羽さんのLINEのアイコンをタップしてみる。昨夜のクラブで見たDJ姿の青羽さんを絵に描いたような、ヘルメットを被った上半身裸の男がビックリマンチョコのイラスト風に可愛らしくデフォルメされていて、その珍妙さに思わず電車の中で笑ってしまった。

そうこうしているうちに、またすぐ青羽さんから返信が来る。

〈いえいえ、潮田さんも今日はお疲れでしょうから、ゆっくり過ごしてくださいね〉〈松戸の名店、とみ田ですか! 人生で一度は食べてみたいものです……〉〈僕はいつものコンビニおにぎりとゆで卵を食べました〉〈ラーメンといえば本当はお昼休みに蒙古のカップ麺とか食べたいんですけど、あれ食べると高確率でお腹壊してしまうんですよね〉

会話を終わらせようと思っていたのに青羽さんが思いのほか饒舌で、LINEのトークルームには一瞬のうちに短文が連投された。

連絡無精ぶしょうで一つ一つの返信に気を遣いすぎてしまう私は、会話を繋げるべきか、そして繋げるとしたらどう言葉を返したら自然な流れになるのかをあれこれ考えながら打ったり消したりを繰り返して、そうこうしているうちに昼休みが終わってしまうと焦りを覚えたので結局〈そういえば来週の土曜日、芹沢さんと桜を観に行く約束をしました。のちほど、青羽さんのところにも連絡が来ると思います〉とだけ返した。
すると先ほどの会話なんてなかったかのように、今度は桜の話に青羽さんが乗っかってくる。

〈桜、いいですね!〉〈今日が満開と聞いたので、潮田さんとの花見は諦めていたのですが、散り際の桜も綺麗ですよね〉〈土曜日、楽しみにしています〉

最後の一文に何となく会話が終わる雰囲気を見出して、〈私も楽しみにしています。午後もお仕事頑張ってください〉と返してクマが自動でペコペコと頭を下げているイラストのスタンプを追加で送信した。

〈ありがとうございます。潮田さんもゆっくり休まれてくださいね〉と再度労いの言葉を貰い、ようやく会話が一段落ついたところで、私はスマホを鞄にしまってふと顔を上げた。

地下鉄を走るメトロの真っ黒な車窓のスクリーンにぽつんと、中年女性の姿が映っている。
とっくに社会が動き出している時間の中で、いい歳した大人が一人で電車に揺られている。これから家に帰って、手つかずの引っ越し準備を進めなくてはならない。そして今月中には実家に帰って、両家顔合わせの場に出席しなくてはならない。
私が向き合うべき現実は姿を変えずに目の前にあるけれど、突如として私の人生に現れた青羽さんが力業で地面に穴を掘って私に別ルートを示してきたのだ。その穴は真っ暗で、どこまで続いているのか分からない恐怖はあるけれど、それでも足を踏み入れてみたくなるような、そんな好奇心もある。

今この瞬間にもタイムリミットが着々と近づいていることは分かっていながらも、来週の土曜日を心待ちにしているどうしようもない自分がいた。



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