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パーティーはいつか終わる《6》【#創作大賞2025】

《1》《2》《3》《4》《5》《6》《7》《最終話》

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土曜日の午前十時過ぎ。
アパートの前で待っていると、一台の黒いジープが住宅街の隘路あいろの奥から近づいてくるのが見えた。一瞬だけ点灯した車のヘッドライトに私は小さくお辞儀を返す。

「ごめんねー潮田さん、道混んでて遅れちゃって!」

運転席から顔を覗かせた行方さんが異様に白い歯を見せて二ッと笑った。

「いえ、とんでもないです。改めて、先週は芹沢さんの家まで送っていただきありがとうございました」
「そんなの全然気にしなくていいんですよ! ほら、早く乗ってください」

「花音ちゃん、自分の車みたいに言うね」と言いながらも満更でもなさそうに笑っている行方さんに私は再度一礼をして、後部座席のドアを開ける。
助手席の後ろに座っていた青羽さんと目が合って「潮田さん、お久しぶりです」と頭を下げられた。青羽さんの声を聴くのも姿を見るのも確かに一週間ぶりなのだけれど、芹沢さんの家からの帰り道でLINEをしたあの日からずっと他愛のないやり取りがだらだらと続いているので、私は昨日も話したような気持ちを抱きながら「お久しぶりです」と頭を下げた。

しばらく車を走らせて、都会のお花見の聖地である代々木公園に到着した。
道中の車内で芹沢さんが鼻息を荒くしながら言っていた「お酒はすでに用意しておりますのでご安心ください!」という言葉のとおり、代々木公園の駐車場に車を停めてトランクを開けると、大量の一升瓶が突如として眼前に現れたので思わず気圧された。ぱっと見ただけでも十本はゆうに超えていて、軽い気持ちで芹沢さんの花見の誘いにのってしまったことに私は一瞬後悔すら感じてその場に立ち尽くす。

「あ、さすがに全部飲むわけではありませんよ。せっかくなら色んな種類飲みたいなーと思って、いっぱい持ってきてみました」

驚愕している私の顔を見て、わざとらしくテヘっと舌を出した芹沢さんが付け加えるように言う。
安心すると同時に、色とりどりのラベルや様々な商品名の一升瓶がずらっと並んでいるのを見て「ひょっとして、全部このために買ってきてくださったんですか?」と聞かずにはいられなかった。

「まさか! キャバ嬢やってた時、日本酒好きなんですって話をよくしてたらお客さんから貰う機会が多くて、家に腐るほどあるんですよ。貰い物ですいませんが、封は開いていないので安心してください」
「なるほど……。ありがたくいただきます」
「あ、てか潮田さん日本酒飲めますか?」
「日本酒は好きですよ。小さい時からお正月は実家でお経を読んで日本酒を飲む決まりがあったので、慣れるのが早かったことが大きいと思います」

「よかったです! じゃあこの後も楽しめますね!」と芹沢さんが含みのある言い方で嬉しそうに笑う。”この後”ということは花見の後に何かあるんですか? と聞きたくなったけれど、「行方パイセン、お願いします!」と芹沢さんに肩を叩かれた行方さんが「おう、任せとけ!」と大量の日本酒が詰められた業務用コンテナを軽々と持ち上げたのを見て、私も何か手伝わなくてはとトランクを見回した。

「潮田さん、この袋を持ってもらってもいいですか」

「あ、はい」と青羽さんからお菓子などが入った透明のビニール袋を受け取ると、青羽さんがレジャーシートを、芹沢さんは小さめの簡易テーブルを小脇に抱えて、私たちは代々木公園の中へとずんずん入っていく。

桜のピークが過ぎたとはいえ、土曜昼間の代々木公園は大勢の人で賑わっていた。サークルの新歓らしき大学生や外国人観光客の姿があちこちに見える。
なるべく静かな場所に目星を付けて、レジャーシートを広げて腰を下ろす。入口付近の喧騒が嘘みたいに、私たちの周囲にはまったく人がいない。そんなところとあって、桜というより大きな木の枝がぽつんと寂しげに立っているような場所で花見というか枝見をする運びとなった。
寂びれた風景はお構いなしに、芹沢さんが早速コンテナから一升瓶を取り出して、行方さん以外のプラスチックカップに日本酒をとぷとぷ注ぐ。
「かんぱーい」
あまりに風情がない光景にどこか滑稽さを感じながらも、みんなで思い思いに日本酒を飲んでいるうちに割とどうでもよくなってきた。

「僕、みそ汁を毎日飲むんですけど」
「分かります。いいですよね、みそ汁」
「この間、いつものようにみそ汁を作っていたら、メインの生姜焼きに使うはずだった豚肉をみそ汁に落としちゃって」
「ええ! 大変じゃないですか」
「みそ汁が台無しになってしまったと落胆してたんですけど、加熱すれば食べれるかなと思い、思い切って豚肉をすべてみそ汁に入れてそのまま煮込んでやったわけですよ。何だかその時、まったくの未知の料理を作れる気がしてワクワクしてたんですけど、途中でただの豚汁を作っていることに気が付きました」

青羽さんのしょうもない話に首をのけぞらせて笑うくらいには酔いが回っていたところでふとスマホの時計を見ると、こんな取るに足らない会話をかれこれ一時間近くもしていることに気付いた。

私はふと、芹沢さんが言っていた”この後も楽しめますね!”という言葉が頭をよぎり「そういえば、この後は何かあるのでしょうか」とさりげなく芹沢さんに質問してみる。すると急に「潮田さん、よくぞ聞いてくれました!」とすでに出来上がっている様子の芹沢さんが四つん這いの怪物のように猛スピードで近づいてきて、私の手をがっしりと掴んで高らかに宣言するように言った。

「それでは、僭越ながら今日のメインを発表します!」
「花見がメインではないのでしょうか?」
「はい。これから私たちは、酒蔵見学ツアーに参加します。すでに予約済みです」

私だけが聞かされていないと思っていたら、隣にいる青羽さんも初耳というような顔で「え、今からですか?」と芹沢さんに尋ねる。

「はい。午後二時から開始なので早く撤収しましょう!」

なぜ酒蔵見学? という疑問はあったが、日本酒好きの私にとっては確かに悪くないレジャーだと思ったし、それに桜の咲いていない木の下でいつまでも酒を飲んでいるよりは有意義な時間を過ごせそうだとも思ったので、私には芹沢さんの提案に異議を唱えるつもりは特になかった。
この時までは。

酔いが回ってふらふらになりながらも何とか片づけを終わらせて代々木公園から足早に撤収し、私たちは行方さんの運転で埼玉県にあるという酒蔵へと急いで向かう。途中で高速に乗り、一時間ほど車を走らせてバイパスを降りるとようやく目的地の酒蔵に着いた。駐車場にはすでに三十人ほどの人たちが集まっていて、この酒蔵見学ツアーの人気っぷりがうかがえる。

定刻の午後二時になり、耳掛けマイクを着けたスーツ姿の初老男性が私たちの前にスッと現れた。男性はこの酒造会社の社長とのことで、社長自ら今日の酒蔵ツアーの説明をしてくれるそうだ。

「ではまず、この中に医療従事者の方はいらっしゃいますか?」

突然、ドラマでありそうな機内アナウンスの雰囲気でその社長が尋ねてきた。
私は反射的に芹沢さんの方を向く。それは彼女が元看護師だからではなく、ここに来る前から芹沢さんは私たちに何かを隠しているようで車内でもずっとニヤニヤしていたからだ。

「ご存じのとおり、酒蔵の見学は三十分ほどで終了し、その後みなさんには宴会場でお食事を楽しみながら最低六合はお酒を飲んでもらいます。救急車を呼ぶ前に、くれぐれも体調管理に気を付けて健康的に飲んでくださいね。医療従事者の方がいらっしゃれば積極的なご協力をお願いします」

社長はそう説明しながら、私たちに写真を何枚か見せる。その写真には、かつてのツアー参加者たちの見るも無残な姿が映っていた。酔いつぶれて駐車場で寝転んでいる人。袋に頭を突っ込んでうずくまっている人。救急車で搬送されている人。

「このように、自己の体調管理ができない方については写真を撮って以後注意喚起に使わせていただきます」と社長は説明する。
私はもう一度芹沢さんの方にゆっくりと顔を向ける。彼女は何も言わず、おもむろにヘパリーゼの一番強そうなやつとよく分からない漢方やらを私に差し出した。

「芹沢さん、なんで言ってくれなかったんですか?」
「言ったら潮田さん絶対来てくれないじゃないですかー。ちなみに宴会はカオスですけど、酒蔵見学はいたって本格的なんですよ」

勝手知ったる様子の芹沢さんは今回が二回目の参加らしく、「酒好きの中でも知る人ぞ知るイベントで、ほんとに予約取りづらいんですよ!」と、絶対に後悔はさせませんという気概で熱く語る。今さら引き返せないと悟った私は、芹沢さんから貰った二日酔い対策グッズに命を託すつもりでそれらを全て胃に流し込んで腹を括った。

まずは至って真面目な酒蔵見学からスタート。社長の案内に従って、さっそく蔵の中へとみんなでぞろぞろ入った。建築から約百五十年以上経過しているという木造の建物は、全体的にリフォームがされているものの、はりや柱には確かな歴史が感じられる。
酒蔵でよく目にする茶色い杉玉には新酒が出来たことを知らせる役割があるという説明から始まり、「新酒が出来上がった直後はこんなに青々としていますが、お酒の熟成が深まるにつれ段々と茶色くなるんです」と解説を交えながら見せられた杉玉のビフォーアフター写真に参加者一同「ほほう」と感心し、お酒の神様である松尾様に二礼二拍手一礼をしてから貯蔵庫へと入る。芹沢さんの言うとおり、酒蔵見学はなかなか本格的だ。

ひんやりとした貯蔵庫には大きな鉄製のタンクがいくつも並んでいた。奥へと進むと、もろみを搾る機械やその過程で出た酒粕さけかすから焼酎を造るための蒸留器などが姿を現す。
さらに奥へと進み、『米麹こめこうじ』や『醪』についての説明書きが大きく壁に掲げられている部屋に入ると、そこで突然社長が参加者たちに米を配り始めた。

「これは蒸米に麹菌をつけた、いわゆる麹米です。米のデンプンを麹菌が糖化させ、その糖を酵母がアルコールに変えるんです」

ビールやワインと違って、日本酒造りではこの糖化とアルコール発酵が同一の容器内で同時に行われる並行複発酵という高度な醸造方法が用いられているんです、と社長が真面目に説明したかと思えば「では、先ほどお配りした麹米を口に入れてください。飲み込んではいけませんよ! よく噛んで六時間待つと甘酒が出来ますから!」と言われたので面白半分で口に入れてみる。
「さらに口を開けて二週間待てば、蔵に棲みついている酵母こうぼの力でアルコールができますよ!」という社長の言葉に、ばかみたいに口を大きく開けてみせる芹沢さんの姿が何とも滑稽で、私は危うく口の中の米を吹き出しそうになった。

それからは日本酒の製造工程について社長のユーモラスかつ簡潔明瞭な説明を受け、別棟の貯蔵庫と外にある巨大なサーマルタンクを見て回って、合計三十分ほどで本格的な酒蔵見学は終了した。はっきり言って、この時点で私はすでに大満足だ。

しかし、ここからが本番だった。

蔵とは数十メートルほど離れた場所に建っている料亭のような宴会場に入ると、まずは盛大なドラクエのBGMで迎えられた。思わず二階を見上げると、ギター、サックス、キーボードによる生演奏が行われていて仰天する。宴会の席には、お造りや天ぷら、釜めしなどの和食料理が豪華に並び、飲み物は利き酒として五種類の日本酒と乾杯用のビールが置かれていた。

そして宴会場の前方に設けられた小上がりのステージに社長が立つと、「乾杯!」の合図で宴が始まり、周りのみんながまずは日本酒ではなく一斉にビールを呷る。

さっきからずっと壮大なドラクエのBGMを演奏しているバンドメンバーを社長が順々に紹介し始めて、そのたびに賑やかな拍手と歓声が沸き起こる。熱冷めやらぬまま社長が今度は本日の配膳スタッフのおばさま方もステージに上がらせてメンバー紹介のように名前を一人一人読み上げると、そのたびにまたもや熱狂的な拍手と喝采が宴会場に強く響き渡った。酔いも手伝って次第にみんなの声が大きくなっていき、酒を飲むペースもぐんぐん早くなっていく。

テーブルに置かれていた酒が底を突いたタイミングで社長が新しい酒を登場させた。飲み干したグラスを差し出すと社長自ら注いでくれるスタイルで、私は芹沢さんと青羽さんのペースに乗せられながらも最初の方はやや自制しながら酒を注いでもらっていたけれど、提供される全国各地のお酒がどれも珍しくて美味しく、カクテル風、ライム搾り、レモン搾り、紅茶割、乳酸菌飲料割、みぞれ酒といった感じであれもこれもと飲んでいくうちに頭のネジが緩んでいき、そんなこんなで開始から三十分も経たないうちに私と芹沢さんは完璧に泥酔して、それでもなお飲み飽きず、社長の声を聞いただけで酒が貰えると涎を垂らし、グラスの酒を一目散に飲み干して酒を欲する浅ましきパブロフの犬と化していた。

バンドの生演奏や酔っ払いたちの笑い声で宴会場が大いに盛り上がる中、突如として壇上に現れた白い作務衣を纏った料理長によるヒラメの解体ショーが始まったタイミングで芹沢さんが大声で話しかけてきた。

「潮田さん、楽しんでますか!? どうですか! 来てよかったですよね!?」
「あー、もう、やばいですねこれ。明日、というか今のことですらどうでもよくなってきて、なんかもう全体的にハッピーって感じです」
「私もハッピーです! ハッピー最高です!」

両拳をガッツポーズのように突き上げている芹沢さんの横からスッとグラスが差し出され「ちゃんとお水も飲んでくださいね」と青羽さんがさとすように言う。同じように私にも差し出されたグラスを青羽さんから「痛み入ります」と受け取って申し訳程度に口をつけた。辛うじて、理性はまだある。

「潮田さん、話せますか」
「私をあまり舐めないでください。まだまだ、余裕ですよ」
「潮田さん先週酔い潰れてたんで心配してるんですよ。芹沢さんのペースに飲まれたら危険ですからね。くれぐれも気を付けてください」
「先週は緊張していたからというか、色々情報量が多すぎて頭がパンクしてたんですよ。ていうか青羽さんこそさっきから結構飲んでるのに今日はあまり酔ってないんですね」
「潮田さんが心配で酔えないんです」

見てのとおり私は至って大丈夫ですから! と胸を張って答えると「おみそれしました」と青羽さんが茶化すように笑って、それから少しモジモジした様子で「潮田さん、突然ですけどシュクボーって知ってます?」と恥ずかしそうに聞いてきた。

「シュクボー? 分かんないです。どこのお酒ですか?」
「あ、いえ。お酒の話ではなくて。寺に設けられた宿泊施設のことをシュクボウって呼ぶらしいんです。宿泊の”宿”に、お坊さんの”坊”と書いて”宿坊”です」
「へえ、お恥ずかしながら、初耳です。それがお酒と何の関係があるんですか?」
「お酒の話は一旦忘れてください。宿坊は元々僧侶や参拝者のための施設なんですけど、最近では観光客向けに寺文化を体験できる宿泊施設として展開している寺も多いそうなんですよ」
「へえ、そうなんですねえ」
「あの、もしよろしければ来週の土曜に四人で泊まりに行きませんか?」

隣の席の見ず知らずのおじさまグループと酒を飲み交わしていた芹沢さんが”泊まり”という言葉に光の速度で反応を示し、私が答えるより先に「え! みんなで泊まりにいく話ですか! いいじゃないですかぜひ行きましょう!」と鼻息荒めに私の肩をがっしりと掴んで激しく揺さぶる。寺で育った身としては青羽さんのいう宿坊しゅくぼうの魅力が正直よく分からなかったけれど、芹沢さんの勢いに圧倒されていた私は「まあ、その、特に予定はないので大丈夫だと思います」とその場しのぎのように答えた。

「やったあ! 潮田さんの意外にフッ軽なところ、わたし好きですよ!」
「ちょっとすいません、そんなに揺らさないでください」
「では決まりということで。行方さんにも後ほどお伝えしておきます」
「楽しみですねえ!」
「あ、ちょっとやばいです限界かもです失礼します」

芹沢さんに激しく揺さぶられたことで酔いの気持ち悪さが突然頂点に達し、あと一歩で大爆発という寸前のところでなんとかトイレに駆け込み事なきを得た。
しばらく経って落ち着いてから宴会場に戻ると、何やら先ほどより雰囲気が一層騒がしい。
ステージに目を向けると『お誕生日おめでとう』と書かれた色紙やプレゼントのように可愛くリボンがくくられたますなどを手に持っている人たちが何人かいて「それでは四月生まれの方々を全員でお祝いしましょう!」という合図と共にハッピーバースデーの大合唱が巻き起こった。動揺するのも束の間、突如として場の全員にチアガールが使うようなカラフルなポンポンが手渡されると、それを狂ったようにみんなで振り回しながらバンド演奏による懐メロや流行曲に合わせて酔っ払いたちの大合唱が始まる。ポンポンを振り回す芹沢さんに絡まれて私もその場の勢いでみんなと一緒にDA PUMPの『U.S.A』で激しく舞い踊り、中森明菜の『DESIRE』が始まったあたりで段々と意識が薄れていった。





目を覚ますと見覚えのある芹沢さんの部屋にいて、私はベッドに仰向けになったまま、嵐のように過ぎ去ったカオスな宴会の断片的な記憶を辿っていた。

「あの、先ほどの宴会、夢じゃないですよね?」

ベッドに背中をあずけてスマホをいじっている芹沢さんに尋ねてみる。

「あ、潮田さん起きましたか。もちろん夢じゃないですよー、あのあと行方さんが車で送ってくれました」

行方さんは禁酒を徹底しているようで今日のツアーも酒蔵見学にしか参加していなかった。一方で私は、酔いつぶれて芹沢さんの家に運ばれるのがもはや恒例になりつつあり、あまりに大人げない飲み方を猛省もうせいする。

「芹沢さんにも行方さんにも毎回申し訳ないです。本当にすいません……」
「気にしないでいいですってば。それにあんな楽しそうな潮田さん見れたんで私は大満足ですよ」

「初めて会った時とは別人みたいでしたよ」と芹沢さんが可笑しそうに笑うと、私はもう一度謝るように「……ありがとうございます」と頭を下げた。

「なんのありがとうですか?」
「この前のとみ田も今日の酒蔵見学も、芹沢さんがいなければ知ることはない世界でした。すごく楽しかったですし、仮にこれが楽しくない経験だったとしても、本来はそれすら知らないまま人生が終わっていたと考えると、何だかすごく勿体ないことをしていたなと思って。私の知らない世界は腐るほどあって、良いものであれ悪いものであれ、それを知ろうとしないくせに人生を嘆くのはなんて甘えた考えなんだろうって、そう気付かせてくれた芹沢さんには感謝しかありません」

酔いが少し残っているのだろうか、若干の気恥ずかしさはありつつも、芹沢さんにずっと伝えたかった言葉がするすると口から出てきた。

「そんな感謝されるようなことしているつもりはないですけど……まあ悪い気はしませんね!」と芹沢さんが少し照れ臭そうに笑う。

「お詫びと感謝の印として何かさせてください。掃除でも何でもやります」と私が言うと、「んー、じゃあコンビニでアイス奢ってください」と言われたので、私は帰りの支度を済ませて芹沢さんのマンションを出てから、駅の目の前にあるコンビニでパピコを買ってあげた。

「全然泊まっていってもいいんですよ。わたし、明日休みですし」
「いえ、これ以上迷惑をかけるわけにはいかないので。それに、おかげさまで一人で帰れるくらいには身体も普通に動きます」
「潮田さんにお渡しした漢方、あれがマジで効くんですよ。キャバやってたときに学んだ最強の二日酔い対策です」
「なるほど。今度から芹沢さんと会う時は常備しておきますね」

二人でけらけら笑い合って、あっという間に改札の目の前に着いた。最終電車には間に合ったけれど、家に着く頃には深夜一時を超えそうだ。

「送ってくださりありがとうございました」と一礼すると、突然、芹沢さんが手に持っていたパピコを高く持ち上げて「潮田さん、わたし目標できました」と宣誓するように言った。

「目標、ですか?」
「はい、人生の目標です。聞いてくれますか?」
「ぜひ聞かせてください」
「今年中に、結婚します。打算じゃなくてちゃんと恋愛で結婚して、理想の家庭を築きます」

芹沢さんの目には迷いがなくて、”結婚”の件をずっと先延ばしにしている私は襟を正されるような思いがした。

「結婚、いいじゃないですか。芹沢さんならきっと素敵な方と出会えると思いますよ」
「そう言っていただけるのは嬉しいんですけど、これが本当に見つからないんですよねー。でもそうやっていつまでも先延ばしにしているわけにもいかないなと思って、この一年本気で恋愛して、結婚しようと決めました。潮田さんのおかげですよ」

芹沢さんはそう言って、「これは、そのお礼です」と、二つに割ったパピコの片方を私に差し出す。
芹沢さんの意図をあまり掴み切れていない私は、とりあえず差し出されたパピコを受け取ると「私こそ何も感謝されるようなことはしていないと思いますが……」と戸惑いながら言葉を返した。

「普通の家庭に生まれて、普通に恋愛して、普通に結婚することって、普通の人にとっては退屈にも思えるくらい普通のことなんでしょうけど、私は普通の家庭に生まれてこなかった時点で出端を挫かれているわけじゃないですか」

そんなことないですよ、と言われても何の慰めにもならないと分かっていたので、そのまま黙って聞く。手の中でパピコが冷えている。芹沢さんは話を続ける。

「でも、”普通じゃない”ことをただ嘆いていては何も始まらないんですよね。潮田さんの結婚の話を聞いて、失礼かもしれませんが、こんなに普通に見える人にも人生を悲観するような悩みがあるんだって気付かされて。まあ考えてみれば、どんな人間にも大なり小なり悩みがあって、悲観なんて世の中にありふれているはずで。みんなが共有していると急に飽きてくるみたいなことあるじゃないですか。私は自分を悲観することに飽きたというか、今は自分じゃない他人のことで真剣に悩んでみたくて、”あ、恋愛するなら今かもしれない”って思ったんです」

私がこれまで他人に家族の話をしてこなかったのは、悲劇のヒロインぶっていると思われたくなかったからだ。世の中にはもっと苦しい思いをしている人がいて、寺を継ぐことなんかよりもっと大きな重荷を背負っている人もいる。それにあんな父とはいえ、私がこれまで何不自由なく育ててもらったことは事実だ。人の数だけ悩みがあるのは当然で、私の抱えている悩みなんて贅沢なものなのかもしれない。そう思っていたから、私の悲劇は自分の中だけで完結させるべきだと考えていた。
でも青羽さんに出会って、固く締めていた蓋がじ開けられたのだ。知らない世界を見て、他者と関わるにつれて、私は次第に自分と他人との境界線が曖昧になっていく感覚に気付き始めていた。自分の人生を見据えた時に、頭に思い浮かぶ他人の存在がある。その人が嬉しそうなら私も自分のことのように嬉しく思い、その人が何かに悩んでいれば私も同じように頭を悩ませたいと思う、そんな存在。

もしかしたら今、私は恋愛をしているのかもしれない。

「そういえば、青羽さんと進展ありました?」

突然、芹沢さんの口から青羽さんの名前が出てきたことに意表を突かれた私は「あ、いや、これといった出来事は、まだ何も」と途切れ途切れに答える。

「えー、つまらないですねー」
「あの、先ほどの芹沢さんのお話、すごく分かる気がします。何か、今の、というかこれまでの私にすごく響いたというか。芹沢さんのおかげで、大きな気付きを得た気がします」
「え、ほんとですか?」
「はい。年内に結婚、いい目標だと思います。私にできることがあれば、何でもおっしゃってください」

「潮田さんこそ、もっと頼ってもらってもいいんですよ」と頼もしそうにバシッと胸を叩く芹沢さんに、私は手に持っているパピコを小さく揺らして「じゃあその時はまたアイスでも奢らせてください」と小さく笑った。
会話が一段落して、スマホで時刻を確認すると終電の時間が間近に迫っていたので、最後にもう一度芹沢さんに礼を言う。

「芹沢さん、今日は誘っていただいて本当にありがとうございました。そろそろ行かないと乗り遅れてしまうのでこの辺で失礼します。また来週、よろしくお願いします」
「はーい、楽しみにしてますね! お気をつけて!」

芹沢さんに見送られながら、改札を抜けて最終電車に乗り込んだ。
土曜深夜の車内は思っていたよりも空いていて、へとへとで今すぐ座りたかった私はほっと胸を撫で下ろす。
座席に深く腰掛けて、今日の出来事をぼんやりと反芻した。こんなに人と笑ったのはいつぶりだろうか。そして、これまで私の一体どこに、今日のように楽しさに振り切れる自分が隠れていたのだろうか。四人で会うのはこれで二回目だけれど、この二日間で一年分笑って、一年分の酒を飲んでいる気がする。
そんなことを繰り返し考えていたら、いつの間にか眠ってしまっていた。



自宅の最寄り駅の寸前ではっと目を覚まし、電車を降りて駅を出てから数十分ほど歩いてようやく自宅に着くと、時刻は予想通り深夜一時を回っていた。
速攻でシャワーを済ませて寝てしまおうとソファーに鞄を放り投げたところ「ピコン」とLINEの通知が鳴った気がしたので、そのままソファーで横になって鞄の中からスマホを取り出してみる。
ロック画面のまま通知センターを見ると、青羽さんからメッセージが何通か届いていた。

〈潮田さん、今日はありがとうございました〉〈先ほど芹沢さんから、潮田さんが一人で電車に乗って帰ったことを教えてもらいました〉〈無事に家に着きましたでしょうか?〉〈ちなみに僕はこれからクラブでDJライブです〉

四十歳の私に対して保護者のようなLINEを送ってくる青羽さんに心が癒されつつも、その後に続く”クラブ”や”DJ”のワードがあまりに浮きすぎていて一人の部屋で爆笑してしまった。

〈ご心配ありがとうございます。おかげさまでたった今自宅に着きました〉〈これからライブなんてすごいですね……何時までやるんですか?〉

すぐに既読が付いて、ソファーで横になりながら青羽さんの返信を待つ。思えばここ数日の私の生活には、こんな風にスマホの画面をじっと眺めて青羽さんのLINEを待っている時間が通算で三時間くらいある気がする。もともとマメな連絡が苦手で、最初の頃は青羽さんのLINEに返事をするのも正直億劫に感じていたけれど、いつの間にか青羽さんとの他愛のないテキストメッセージのやり取りが私にとってささやかな癒しになりつつあった。

〈よかったです、安心しました!〉〈なんというか毎回潮田さんに無理やり大量飲酒させる形になってしまって申し訳ない限りです……〉〈僕の出番はだいたい深夜三時くらいまでです。あと十分後くらいには始まるんですけど、今日飲み過ぎたせいで若干眠くなってきました〉

青羽さんの眠たげな声が脳内で再生されて、何となく声が聞きたいと思った私は、

〈青羽さん、ほんの少しの時間でいいので今から通話しませんか?〉

と思い切ってメッセージ欄に打ち込んでみる。
紙飛行機のような送信ボタンをえいやとタップした途端、私の目は一気に冴えた。

既読がついてすぐに、〈いいですよ!〉〈ちょっと待っててください、静かなところに移動しますので〉〈二分後くらいに僕からかけますね!〉

と例のごとく爆速で返信が来て、私は姿を見られるわけではないのにソファーを正しく座り直して少しだけ髪を手で整えて青羽さんからの電話を待った。そわそわしながらトークルームを遡っていると、『青羽雄司』と表示された着信画面に突然切り替わって、心臓が張り裂けそうになりながらも右下にある緑色の応答ボタンを恐る恐るタップした。

「……もしもし、青羽さん、聞こえていますか?」
「はい、聞こえてますよ。こっちの音、うるさくないですかね?」
「全然大丈夫です」

とは言ったものの、この先の会話は全然大丈夫ではないことにはっと気付いた私は、思いつきで通話をしてしまったことに今更後悔を覚えながら、「通話するほどの何かがあったんですか?」と青羽さんにもし聞かれた場合の返答について頭をフル回転させて考えていた。

すると突然「潮田さん、申し訳ございません」と青羽さんが口にしたので、私は「え?」と驚く。

「あの、なんの謝罪でしょうか……?」
「潮田さんを振り回してしまっていることに対する謝罪です。来週の宿坊だって、流れで行くような感じになってしまいましたが、潮田さんが嫌なら断ってもらってもいいんですよ」
「いや、あの、謝らないでください。そんなことを伝えるために通話したわけではありませんし」
「え? 違うんですか!? てっきり僕と会うのが嫌になって通話で伝えようとしてくれたんだとばかり思ってました……いやもう今からのライブも本当に気が気じゃなくて……よかった安心しました……」

「それはすいませんでした……」と答えて、青羽さんを心配させてしまったことに若干の責任を感じた私は、ちゃんと今の気持ちを言葉にして伝えなくては、と思った。

「あの、むしろ青羽さんには感謝しています。青羽さんと出会わなければ、私は今頃さっさと引っ越しを終わらせて実家に帰っていたはずなんです。あとは下るだけだと思っていた人生が、青羽さんのおかげで今はこんなにも楽しくて、何だか人生のボーナスタイムを過ごしているような気分です。陳腐な表現しかできませんけど、青羽さんと出会えてよかったと心から思っています」
「陳腐なんてとんでもない、僕には身に余るお言葉ですよ」
「あの、お待たせしてしまって申し訳ございませんが、保留している返事の件、来週お会いする時までにちゃんと答えを出そうと思っています」

少しの間を置いて、青羽さんは「はい、お待ちしておりますね」と穏やかに言った。この人は人生で怒ったことがあるんだろうか? と考えてしまうほど平和で柔和な青羽さんの低い声。四六時中何かしらをうじうじと考えている私でも、青羽さんの声を聞けば自然と頭の中が凪いでいくようで、この人の声をずっと聞いていたいと柄にもなく思っていたその時、

「あっ 潮田さんすいません!」
「今度はどうしました?」
「クラブのスタッフさんから電話がかかってきました。おそらく僕のことを探しているようです」
「……それは大変失礼しました。そもそもライブ直前に通話とか非常識過ぎましたよね、すいません切ります。ライブ、頑張ってくださいね」
「とんでもないですよ、了承したのは僕ですし。あの、とりあえずライブ頑張ります! 潮田さんのおかげで頑張れそうです。潮田さんはゆっくりお休みになってくださいね」
「お気遣いありがとうございます。青羽さんこそ、ご無理なさらずに」
「あの、潮田さん」
「はい? なんでしょう」
「潮田さんの声が聞けて嬉しかったです。通話していただき、ありがとうございました」
「……私も、青羽さんの声が聞けて良かったです」

「おやすみなさい」とお互いに言って、私の方から通話の終了ボタンを押した。三分ほどの短い通話だったけれど、人生で最も満ち足りた三分間だと思った。

緊張が解けて気が休まると、途端に眠気が襲ってきた。
明日起きれば、青羽さんからきっとまたLINEが届いている。「ライブ疲れました」とか「潮田さん朝ご飯食べました?」とか、本当に他愛もないメッセージが届いていて、それに対して私も「ライブお疲れさまでした」とか「無職になってから朝ごはんキャンセル界隈です」とか、本当に取るに足らない返信をするのだろう。

こんなに幸せなことはない、と勝手に満たされた気持ちになって、そのままソファの上で眠ってしまった。



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