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津山は近代化への知がつむがれた場所

そして旅は形なきものの存在も教えてくる

津山の城東地区を進んでいくと、通りから奥へと続く
細長い敷地がある。その奥に建つ津山洋学資料館は、
津山が輩出した日本の近代科学の発展に大きな影響を
与えた洋学者を紹介する施設。かつて津山は出雲街道
に面した交通の要衝で、その往来により外部から知は
伝えられ、根をはり、学者達により花開くこととなる。

旧出雲街道からアプローチに引き込まれるようにして
立ち寄った広場には、幕末の洋学者の箕作阮甫の生家の復元も
ここは津山洋学資料館で、複数の建物が連続するように
奥へと続く。その先に並ぶのは津山ゆかりの洋学者達の胸像で
知という形なきものが、海を越え、津山の洋学者のもとへ
津山の洋学の端緒は宇田川家で、左の胸像は宇田川玄真のもの

宇田川家は漢方医の家系であったが、玄随が蘭方医
に転向して西洋科学を日本に紹介し、洋学は養子の
玄真、榕菴へと受け継がれ続け、医学から自然科学
へと、宇田川家の家学を完成させていったという。

宇田川三代からはじまる津山の洋学の歴史にふれて

そして三代目の宇田川榕菴は、江戸時代最高の科学者とも

いわれ、細胞、繊維、酸素、水素、酸化、還元、
温度、圧力などの植物・化学用語を造語したという

また珈琲の当て字をした人物としても。海を越えて

やってきた蘭学は、長崎から陸路はるばる津山まで


やがて蘭学は世界へ開かれた日本において洋学となり
世界の変化に対する危機感もあり、研究分野も医学の
自然科学から、応用化学・社会科学へ広がったという

そして洋学は箕作阮甫へと受け継がれ、日本の近代化への
うねりとつながる。箕作阮甫は開国後、幕府により設けられた

蕃書調所(洋学の研究・教育機関)の首席教授に、
そしてその施設は今の東京大学へとつながっていく

津山洋学資料館には、オランダから伝わった文化が形として
表れて、ガスという言葉も津山から。当時を偲ぶ素材や
ディテールが散りばめられて、下見板張りや
ステンドグラスに、当時の雰囲気を感じつつ
ガラスの向こうにかつての津山の街並みを思い
ステンドグラスの輝きに時代の先を求めた人々の思いを感じ
散りばめられた素材は、時を越え、当時の雰囲気をつたえ
淡い緑は長崎での旅の記憶にも連続して

オランダから長崎、出島、その知が津山までつながって

その奥に分節されるように建てられた洋学資料館
壁面のプレートは、津山洋学五峰の宇田川玄随・
宇田川玄真・宇田川榕菴・箕作阮甫・箕作秋坪
建物にも当時の記憶が素材として刻まれて
角度をつけた外壁面端部の納まりにも目を留めながら
連なる壁面に、津山の歴史の連続が表現されるように
表情を持つレンガの質感は時をつなげるように

建築設計は象設計集団の建築家・富田玲子氏による
もので、氏は箕作阮甫の玄孫で早稲田大学大学院で
建築学を教授した吉阪隆正氏にも師事されている

吉阪隆正の手掛けたアテネ・フランセにもいつかまた

津山洋楽資料館の知の深さとつながりを感じながら

改めて、日本における津山の存在に驚きを感じる

津山洋学資料館を調べるほどに、洋学者達の紡いだ知、
津山の日本の近代化における位置、その歴史を感じる。
建物、空間として、知という形のないものが連鎖して、
形あるものとして生み出される。洋学者達の一つ一つ
の功績が歴史に溶け合い、形として痕跡を残している。

あらためて歴史は様々なものが重なり合い、今に受け
継がれているこを感じる。休館日であった津山洋学館。
でもここを知るには、相当の時間も必要であったはず。
旅先の出会いもすれちがいつつも、津山の洋学者達の
長きにわたる思いは、またいつかの旅のきっかけに。





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