グスタフとアルマ、抽象概念と言われたのはどちら?:アルマの『回想と手紙』の一節より(2021)(6)
私は時折、マーラーが「交響曲」というフォーマットを選んだのは、有能な歌劇場監督として、指揮者として、どんなに芸術的に高度な達成があったとて使用価値や交換価値から逃れられず(とはいえ、その平面においてもマーラーは並外れた成功を収めるだけの能力を備えていた訳だが)、結局のところ娯楽として消費される音楽に関わらざるを得なかった彼が、自分の産み出す音楽については、それがこの世において結局のところ「無益」なもの、現実的には「役に立たない」ものであることを自覚したが故ではないかと考えることがある。いわゆる自律主義的美学からはあんなにあからさまに逸脱した、利用できるありとあらゆる手段を動員した世界シミュレーションを「交響曲」と規定することによって、自分の営みを自律的で絶対的で固有の美的価値を持つものとしてではなく、「世の成行き」の中では効用を持たない存在として位置づけたかったのではないかと。但しその一方で、マーラーは自分が(ゲーテの『ファウスト』第1部の地霊の台詞を引用しつつ)「神の衣を織っている」という自覚を持っていたようなので、現実的には「役に立たない」としても、それが全くの無価値ではないという確信はあり、なおかつその確信が喪われることはなかったように見える。
(上でも言及したので繰り返しめくが、「私の時代がくるだろう」という言葉は、実際には非常に個別的な文脈でアルマに対して強がってグスタフが言った言葉に過ぎないので、それを「予言」の如く持て囃すのは滑稽でもあり、更に勘ぐれば、そのようなものに見せかけて交換価値を吊り上げようというマーケティングの悪意が見て取れるので、ここでの議論とは関係ない。)
更に言えばマーラーは、自分の作品に限らず、一般に作品は「抜け殻」に過ぎないという認識をアルマ宛の書簡に記している。(1909年6月27日トーブラッハ発のアルマ宛書簡, 上掲の『回想と手紙』邦訳ではp.399)この書簡の置かれたコンテキストと、それから導かれる全体としての意図を無視して以下の文章を解釈することには慎重であるべきだろうが、それうした事情を勘案してなお、以下の言葉はマーラーが芸術作品の創作について、その結果たる作品についてどう考えていたかを伺うのには無視できないものであろう。
「(…)われわれが後世に遺すものは、それがなんであれ、外皮、形骸にすぎない。『マイスタージンガー』、『第9交響曲』、『ファウスト』、これらはすべて脱ぎ捨てられた殻なのだ!根本的にはわれわれの肉体以上のものではない!もちろんそうした芸術的創造が不用な行為だというのではない。それは人間に成長と歓喜をもたらすために欠かすことのできないものだ。(…)」
これは図式化してしまえば、その産物である作品に価値があるならば、それは創造行為のプロセスの価値の副産物であるということ、そしてその産物の方の価値を有用性、効用といった観点から捉える限り、それに使用価値があることは認めたとしても、その価値だけで芸術作品の創造行為の価値を測ることは不可能であり、不毛であるということでなかろうか?注意しなくてはならないのは、作品が外皮、形骸に過ぎないとしても、遺されたもの(=作品)が行為の価値を、いわば遡及的に決定するという構造が存在する以上、遺された作品の価値が高ければ、それを算出するプロセスが常にその結果に優って価値あるものだということの確認に過ぎないということであり、そうであってみれば、作品の創作が常に未知の領域を目がけた或る種の賭けであるという事情に些かも影響を及ぼすものではないということだろう。繰り返しを厭わず言えば、マーラーは結果よりも意図的な行為の方が大切だと言っているのではなく、結果は意図的な行為に基づいてしか生じない以上、意図的な行為なくしては作品は生まれないし、意図を上回る結果が偶然に生じるような奇跡など存在しないと言っているに過ぎない。
作品はつまるところ個別の人間に生起した一回性の「出来事」の痕跡に過ぎず、丁度化石がそうであるように、それは出来事そのものの記録というよりは、出来事の生起のパターンの痕跡なのである。その意味においてまさに作品は「抜け殻」に過ぎないだろう。だが一回性で反復不可能な到来としての「出来事」は その痕跡であるところの「作品」なくしては、記憶され、想起され、 反復され、継承されえないのだ。「出来事」の主体の有限性を超えて、 死後の生命を獲得することはできないのである。そして活動プロセスの痕跡としての作品の定着には記号化・離散化・ デジタル化が不可避である。自己を超えて生き延びることとは、そのようにしか可能ではない。 見方を変えれば、そうすることによって生物個体としての有限性を 超えて、遺伝子の複製とは異なった水準での、個体の記憶の継承、一回性の 「出来事」の記憶の継承という「反逆」(ダマシオ『自己が心にやってくる 意識ある脳の構築』)が可能になるのだ。かくして「抜け殻」である作品が、同時に「神の衣」たりうるという、一見したところパラドクスにしか見えないことが両立可能であることが明らかとなるのである。
我知らずして、いわば盲目的に神の衣を織るためには、自伝的自己を 伴う自己意識は必ずしも必要ない。だがある価値にコミットして、 己の出遭った価値あるものの(漸近的な)永続化をめがけ、 そうした出遭いという一回性の出来事を記憶し、出来事の一回性を超え、 自己の有限性をも超え、他者に向けて継承することを目指して、 作品としてデジタル化する意図をもって「衣を織る」ことは、 自伝的自己を伴う自己意識なしには為し得ない。無意識の活動を汲み上げ、一つの世界として構築するには、抽象的な空間における際立って意識的で知的な作業が必要とされるのである。
今日、深層学習を用いたAIに対して大量のサンプルを与えれば、音響態としては区別がつかないものを生成することが可能であるかに見えるが、それは「抜け殻」のパターンの表面的な模倣に過ぎない。それをもって「音楽」が「創作」されたと主張するのは、「音楽」が自伝的自己を伴う自己意識の活動であるということを見落としている。かくしてシュトックハウゼンが、ド・ラグランジュの伝記の試みの最初の達成に寄せて半世紀前に記した認識が、その試みがようやく完結するに至った半世紀後の今日において最先端のテクノロジーが実現したかに見える技術的成果の内実が、実際には「人間が人間を個々の部分に分割し、しかもそれらをおそろしく奇怪な変種へと再合成しはじめた」ことの帰結の一つに過ぎないことを正確に「予言」したものであることが明らかとなるのだ。そして実のところ自伝的自己をもつ自己意識が、自らを「変てこな機械」であると感じるというのは、そうした今日の状況を、無意識の裡に反映したものなのだということになりそうである。つまるところ今日、マーラーの作品の受容に際して、マーラーのような音楽が最早不可能であるという現実を直視せずにノスタルジーに浸るのは、マーラーの「音楽」の総体を受け止めず、それを自らの寸法に合わせて切断・分解して消費しているに過ぎないのだ。寧ろ私には、例えば三輪眞弘さんの「逆シミュレーション音楽」をはじめとする活動と、そこでの「音楽」に対するラディカルな問い直しこそが、1世紀前のマーラーの、半世紀前のシュトックハウゼンの問題意識を今日の状況の中における正しい継承であるように感じられるのである。
(2021.7.13初稿公開, 14,15, 24,25 加筆修正, 2025.7.4 noteにて公開)
