「大地の歌」における"Erde"を巡る検討のための覚書 ―甲斐貴也訳「大地の歌」によせて―(2007)(4)
IV.
それは「大地の歌」を、「東洋的」と見るかどうかという、一見したところ皮相な問いにも繫がっていくに違いない。 「大地の歌」の原詩の問題はかなり研究されていて、元の漢詩からベトゲの詩が成立するまでの過程についても、 色々なところで情報を得ることができるようになっている。そうした研究成果も踏まえた上で、一般にはベトゲの Nachdichtungはオリジナルの漢詩とは別のものである、と考えられていて、それはせいぜい単なる「東洋趣味」、 時代の趣味の装飾的な部分に過ぎないとされてしまうようだが、例えばそうした西欧側の事情よりはオリジナルの 漢詩の世界をずっとよく知っておられる吉川幸次郎さんのような中国文学者が、そこに中国的なものが 読み取れないこともないとコメントされているのは、果たしてリップサービスに過ぎないと割り切れるものなのか。
もっとも、私は何が西洋的で、何が東洋的であるという議論がしたいのではないし、 私にはそうする能力も資格もない。また、マーラーはやはり東洋思想を理解していた、あるいは東洋的な諦観に 至ったのだ、などと言いたいわけでもない。(「東洋的な諦観と」は、具体的に何を指しているのかも私にはわからないし。) そうではなく、私が注目したいのは、マーラーに確かにあったと思われる Erde / Himmel の対立、あるいは Leben / Tod の対立、 そしてこれら2つの対立の対応関係の帰趨の方なのである。
こうして考えたとき、アドルノの有名なマーラー論での「Erde=地球説」とでも言うべき 主張もまた興味深い。一見したところ、これは突飛な見方のようでいて、思いのほか説得力があるからでもあるが、 その一方で、その斬新さにも関わらず、結局のところこれもまた際立って「西洋的」な見方のように感じられてならないからでもある。 つまり、何とはなしに、Todへの移行=昇天=地球を見下ろす、といったような連想があるように感じられてならないのだ。 長木=村井説の言う「垂直」方向の動き、いわば「超越」の運動である。
勿論、アドルノには新ドイツ楽派からナチスへと流れていく(あるいは、とりわけ後期のハイデガーを思い浮かべても良いが)、 まさに「大地」「土地」としてのErde、より端的に「血」(=民族)と対を形成することになる「土」(=祖国)といった捉え方、 あるいはマーラーにも出現する―ただし、これまた両義的な仕方ではあるが―「故郷」Heimatに対するある種の 姿勢、ハイデッガーのヘルダーリン読解に見られるような立場(これにはアドルノはパラタクシスをもって対抗するわけである)に 対する批判があって、それらを是非とも相対化してしまいたかったに違いないし、 マーラーを生産的に受容するという観点からは傾聴すべき主張だと思うのだが、やはりマーラーの 作品そのものの持っている内容からすると、やや性急に思えてならない。
そればかりでなく、既述の連想がそれなりの妥当性を持つものとすれば、それはいかにも「西洋的」な発想だと思う。 「故郷」Heimatを持たないという思いは、同じ同化ユダヤ人であったアドルノとマーラーに共通する のだろうが、マーラーがベトゲの取りようによっては些か胡散臭さすら感じられる詩を通して 読み取ったものは、アドルノの説(白状すると、私は初めて読んだときには、思わず苦笑してしまった。 珍説とすら感じられたのである)に比べて、ずっとずっと、「東洋人」のはしくれである自分に身近に 響くように思われたのである。まあ、私の受け止め方は単なる思い込みに過ぎないと言われれば それまでなのだが、私は幼少の、丁度マーラーを聴き始めたのと同じ時期に漢籍に興味をもって、 漢詩はかなり熱心に読んでいて、「大地の歌」も第1楽章こそ、これまた随分大げさな、とは思ったものの 李白や王維、孟浩然の世界と異質だとはやはり思わなかった。(寧ろ中国と日本の違いは感じたけれど。) 青土社の「音楽の手帖 マーラー」所収の柴田南雄さんのレコード評に、上記の吉川幸次郎さんの訃報に触れつつも、 東洋的無常観を表現した「大地の歌」を聴いてみたいと書かれていた文章があったが、(生意気にも) その頃の私もそれには全く同感で、その頃レコードで持っていたメリマン、ヘフリガー、ヨッフム、コンセルトへボウ管弦楽団の 演奏ですら、もっと淡々、坦々として諦観が前面に出た演奏にならないものか、と感じていたくらいなのである。
これは余談だが、私は今なおいわゆる「阿鼻叫喚」系の演奏は、この「大地の歌」に関しては抵抗がある。 例えばバーンスタインの演奏は、こと「大地の歌」についてはマーラーの晩年の様式 みたいなものを「吹き飛ばして」しまっていないか、という疑念から私は逃れられないでいる。 バーンスタインは、この曲に込められた内容に関しては、最後の部分でマーラーに同意していないのでは なかろうか。そして他の演奏家ならそれでもいいのだが、バーンスタインのようなタイプの演奏家に 限っては、そうした齟齬が致命的なものになるのでは、という気がしている。
もっとも、私は現時点では「究極の演奏」に巡りあうべく色々な演奏を聴き比べることには 関心が持てなくなっているので、だからどの演奏がいい、というのはない。結局は「究極の演奏」も また私の主観的な嗜好の監獄から自由ではありえない。バーンスタインについて如何にも否定的に書いたが、 だからといってバーンスタインの演奏が「間違いだ」というのではないし、「悪い」というのでもない。 単に、私が「大地の歌」の音楽から受け取れると思っているものが、バーンスタインの演奏からは 聴き取れないというだけの話である。
更に言えば、ここで書きとめている「大地の歌」に対する見方も、これが「正解」である、 と考えているわけではない。これは「客観性」「真理」を追求することを要求される学問的な 性質のものではない。音楽の受容に関しては、そうした客観性と、自分の経験の質に忠実であろうと する志向が両立しうるかどうか、私には自明とは思えないのである。そしてとりあえず、どちらを とるかと言われれば、私は後者なのだ、ということなのだと思う。
(2007.5.31作成, その後加筆・修正を経て、2025.4.28 noteにて公開)
