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無彩色の火薬──『水辺のつつじ』ep.49

僕より先に玄関に腰を下ろしたのは白菜だった。
真ん中にどっかりと居座っている。
僕はその右隣で縮こまりつつ靴を脱ぎ、壁に張り付くみたいにして部屋へと踏み込んだ。

腕のだるさに全身を持っていかれ、僕は玄関の床板の上に座り込む。
しばらく白菜と一緒になって尻を冷やしていたけれど、膀胱が限界に達したのでやめにした。

すっかりすっきりした僕は、なんとなしに本棚でも整理しようと、本棚の一番左に手をかけたのが運の尽きだった。
一度読み始めると、本棚の端から端まで読み尽くさないと気が済まない例の病──僕はこれをチェイン・スモークの読書版と呼んでいる──を発症してしまったのだ。
最後の一冊を閉じた時、窓の外はすっかり暗くなっていた。
気づけば元より散らかってしまっている。

とはいえ期せずして朝昼兼用となったあの食事から十二時間以上が過ぎ、僕の腹の虫はいかにも虫らしい息しかしていない。

テーブルの上、水仙の花は残り幾許かの命をかろうじて燃やしていた。

僕はカップ蕎麦の蓋を剥がし、袋入りのかやく、、、、粉末スープ、かき揚げを取り出した。

ふと、思い出す。
──子どもがひとりで夜を越すには広過ぎた、あの部屋のことを。
灰色の壁に、灰色のカーペット、灰色のソファの上にクッションがみっつ。
ふたつは灰色、ひとつは淡青色みずいろ
曖昧な色を鮮明に覚えている。

あの晩も僕はこうやって、カップ麺の蓋を剥がしていた。
今と違って、ぎこちない手つきで。
電気ポットの電子音は冷えた壁にぶつかり、いつまでも飛び交っていた。

粉末スープとかやく、、、の袋を取り出して、粉末スープを振りかけ湯を注ぐ。
麺は硬い方が好きだから、湯を入れる少し前にタイマーのスタートボタンを押す。

──ピッ

その、短い音を合図に僕の心臓は脚より先に走り出す。
湯を入れ終えると僕は勢いよく立ち上がり、かやく、、、袋を握り締め、走り出す。
まるで、運動会のリレー走者のように。
そしてハードルでも飛び越すみたいに階段を駆け登る。
わざと大きな音を立て、自分の部屋の扉を開ける。
握り締めていたものを、名ばかりの勉強机の引き出しにこっそりしまい込む。
それが済むと今度は音を立てないように、そっと部屋の扉を閉めて、抜き足差し足階段を降りる。
冷たい壁をつたって戻ってくる。
タイマーのボタンを手のひらで叩く。

──〇〇:〇二

「セーフ……」
僕は安堵の息で麺を冷やして無心ですすった。

また別の日には、けたたましくアラーム音が鳴り響いた。
大抵こういう時、僕は階段の下でひっくり返っている。
悪ふざけが過ぎて、足を滑らせるのだ。
かえって僕は、こういう日の方が好きだった。
背中や脚の痛みを感じながら、階段の上の自分の部屋の扉を眺める。
「ああ……終わった……」
広過ぎる家の、途方もなく高い天井は消え、満天の星が煌めく夜空が見える。
哀しくひしゃげた鉄筋が、額縁みたいに空を切り取る。
粉塵と化した壁が額や頬に積もっている。
割れたガラスが手や足を傷つけた。

目尻から落ちる涙が煤けた頬を洗う。
僕は決まって笑っていた。
でも、その笑いは鰹と昆布の出汁の匂いにかき消されてしまうのだった。

冷めて、ぷつぷつと切れる麺をすする。
ペラペラしたかまぼこが浮いている日もあれば、正体不明の茶色の立方体がごろついている日もあった。

それでも僕はほとんど毎日、同じことを当然のこととして繰り返してきた。
「かやく」があの、、「かやく」ではないとわかってからもずっと。

それにしても、今日は随分と三分間が長い。
スマートフォンの画面を叩く。
スタートボタンは押されていなかった。

「セーフ……?」

僕はため息で空袋を吹き飛ばした。
その袋には加薬、、と書かれている。

ぷつぷつと切れる麺をすする。
今日はまん丸のお月様みたいなかき揚げが浮かんでいた。

もう今年も終わろうという頃、いい加減シャワーを浴びようとインナーの裾に手をかけた。
玄関にある洗濯機に放り込みに行こうとしたところで放ったらかしてあるリュックに気付く。
ああ、そうだ。
カップ蕎麦だけ取り出して、あとのことはすっかり忘れていた。
慌てて中身を冷蔵庫へ移していく。
最近のブラックな働き方に、すっかり疲れ切ったエアコンの風は弱く、ワンルームとはいえ玄関先ここはひどく冷えたままだった。
おかげさまで、どうやら無事らしい牛乳や豆腐、納豆を定位置におさめ、さつまいももとりあえず納豆の隣に突っ込んだ。

鏡餅も門松もないこの部屋で、僕は新しい年を迎えた。
服を脱ぎかけた中途半端な格好で。

唯一間違いのないことは、僕が年越しらしいことをしなくたって、西暦にも和暦にも数字が足される。
年はゆき、年はくるのだ。

白菜は相変わらず玄関のど真ん中に居座っている。
まるで、新年を返討ちにでもするかのように。


【創作大賞2026】
恋愛小説部門エントリー中。
貝原瑞樹、無事に年を越した。



大晦日のスーパーには闖入者がいっぱい。


大正時代でも年末を迎えております。


【読書感想文】
直木賞候補、原田ひ香さんの別の本の感想文。


【習作】
本編より読みやすい……?


ゆきお様・解説
これさえあれば、なぜ家が吹き飛んだのかわかります。

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