広過ぎる公園──『水辺のつつじ』ep.41
まだ陽も昇らないうちに、僕は外へ出た。
眠れなかった、眠りたくなかった、もう眠るような時刻でもなかった──そのいずれもが正解で、不正解だった。
何かに駆り立てられたわけでもなく、気づけばただアスファルトの凹凸を踏んでいたという具合でその実、僕自身にも行動の原理原則なんてものがなくて、殆理解に苦しんでいたのである。
心というものは本当に不便で、証拠も残らなければ、証人もいない。
僕はただ、震えていた。
何も羽織らず出てきてしまったことに気付いた瞬間から、寒くて寒くてたまらなかった。
これだけは、まごうことなく真実である。
白い袋が何も持たずに僕を追い越して行った。
僕は毛玉の出来始めたポケットの中で握り込んだ指を、太腿に押し付けていた。
引き返そうかと思った。
でも、狂った方位磁針のようにぐるりとしてしまった僕はどこへ向かえばいいのか見当もつかなくなっていた。
頭を抱えようにも指先が冷えて冷えて、かなわなかった。
人の声と動物の爪音が、背後から近づいて来た。
僕は振り向いてまたすぐ前を向くと、あんなに外に出したくなかった手をポケットから抜き出してフードをかぶり、小走りに前進していた。
血液が僕と一緒になって焦っているのがわかる。
心臓は必死になってついてくる。
「おい! 待てよ!」
──終わった。
いや、何も始まってもいないのかもしれない。
でも、終わった。
そんな気がしていた。
「何で逃げるんだよ、瑞樹!」
腕を掴まれた僕は観念して振り向いた。
街灯に照らされた黒い犬の人懐っこい瞳が僕をとらえている。
よれた灰色の袖を掴む指には鎧みたいな指輪が鈍くごつごつと光り、その先には見知った顔が僕を見据え、上眼に睨みをきかせていた。
「木島君……」
僕は可笑しな笑いを浮かべ、彼の名を呼んだ。
この震えは寒さからか、一種のいたたまれなさかさっぱりわからなかった。
傍に立つ目深にキャップをかぶったその人は、僕に会釈をして去っていった。
遠ざかる背の下で、黒い犬の挨拶が白く弾けた。
「あの……なんか、ごめんね。」
「え? 朝の挨拶は『おはよう』だろ?」
木島君は潰れた白い箱の端を傾け、笑っている。
「でも……」
「ああ、彼女。一緒に住んでる。」
「へえ……」
なだらかに曲がる白線がわずかに赤みを帯び始めた。
「あの子、名前は?」
「え? チナツだけど。」
「何歳?」
「はあ? お前な、ひと様の彼女の……」
「え……?」
「あ?」
押し潰された箱から器用に一本咥え出した木島君は、明らかにむくれている。
その姿を見て、僕はつい笑ってしまった。
「何がおかしい?」
「ラブラドールのことだよ。綺麗な子だなって……」
「紛らわしいぞ、瑞樹……」
木島君は咥えた煙草に火をつけかけて、やめてしまった。
「そんなことはどうでもいいんだよ! 瑞樹? お前、なんでこんな時間にこんなとこにいんだよ。」
「散歩……かな?」
「散歩……?」
彼は火のない煙草を咥えたまま辺りを見渡した。
「あのなあ……こんな時間に十八の青年が散歩なんかするか?」
僕も辺りを見回した。
目につくのは犬を連れた人や、蛍光色のスニーカーで颯爽と藍色の空気を切る人ばかりだった。
「するよ。」
僕は木島君を指差した。
「違う! 俺は犬の散歩だ。こんな時間に散歩してんのはな、犬の散歩かじいさんか、酔っ払いか……」
煙草の葉が僕を睨みつけている。
「とにかく、相場はそんなところだ。」
腕を組んで遠目になった彼は続ける。
「お前みたいな、若くて……若くて……ああ……えっと……とりあえずお前が、イヴの翌朝に、そんな格好で出歩いていい時間じゃねえんだよ!」
木島君は自分の前髪をわしわしと掻き回し、どうにも煮え切らない様子で唸っていた。
僕は二、三、昨夜の出来事をこぼした。
「じゃあ何だ? お前、女の子の部屋までのこのこついて行って、そのくせ中には入らずに?」
「うん……」
「鍵が閉まるの確認して帰ってきた?」
「うん。」
「どこのセキュリティ会社だよ!」
彼は潰れた箱に煙草をねじ込んでいる。
「……お前もう就活してんの?」
「いや……まだ……」
気圧された僕は無意識に後退りして土を踏む。
「お前さ、なんのために日本のクリスマスが寒いと思ってんの?」
「え……?」
「くっつくためだろ!」
「いや、でも……」
「でもじゃねえよ。」
空の藍がめくれ、橙が浮かび始める。
「……で?」
「で?」
「彼女……桐生、何だって?」
「また、明日って……」
声より、息の白さの方が濃かったかもしれない。
「そうか……」
木島君の声も朝焼け手前の光に紛れていた。
「まあ……瑞樹らしいわな。」
僕つい、首を傾げてしまった。
「ああ……あくまでも、俺から見た瑞樹な!」
「そっか……」
自分の顔を自分だけで見ることができないように、僕は、誰かの目を通してしか貝原瑞樹を理解できないらしい。
木島君の言う僕らしさ、が褒め言葉なのかどうか。
それはわからなかったけれど、彼が僕自身に僕らしさを強いなかったこと、ただそれがうれしかった。
「ちょっと待て。瑞樹? お前靴紐解けてるけど……」
「あ。」
白いスニーカーの靴紐は、朝焼けの橙に染められている。
「俺は絶対、結び直してやらないからな! 自分でやれ。」
「わかってるよ。」
僕はしゃがんで、右の靴紐を結び始めた。
「瑞樹?」
「なに?」
「また、後でな。」
「え?」
「『え?』じゃねえよ! 試験だろ?」
「あ……」
「『あ』じゃねえよ! 大丈夫か?」
僕は朝陽と彼の顔を見上げ、その眩しさに倒れそうだった。
「ほんっと、お前らしいわ。」
あれから五回結び直して、僕は帰路についた。
すっかり明るくなった道はもう僕を惑わさない。
青く白んだ空に、ようやくやって来た僕の眠気が綿のように浮かんで消えた。
↑
【創作大賞2026】『水辺のつつじ』
恋愛小説部門エントリー中。
貝原瑞樹が自分の恋愛を振り返るお話。
推定、初恋。
齢十八、文学青年は恋をした。
↑
前回までの話。
↑
こちらは大正時代の文学青年・上原朔也。
鳩サブレーに舌鼓。
↑
【エッセイ】
喧嘩で金稼ぐな。
↑
【短編】
生きるのが嫌なんです。
↑
『詩人酒場シリーズ』の梅雨。
↑
ゆきお様・解説
読み方シリーズ。
これさえ読めば……あら不思議。
読めます。
本編がわかる。
糸口見つかります。
いいなと思ったら応援しよう!
よもぎちゃーん!
はーい!
何が好き?
ポテトチップスよりも
お・ぬ・し