冬の晩、蝶と僕──『水辺のつつじ』ep.40
一人きりの足音は、元来た道を歩き始めている。
ただ、アスファルトを踏む感覚を、僕はさほど覚えていなかった。
雪でもなく、綿でもなく、空気でもなく──
何かに阻まれている……そうだ。
ちょうど磁石のN極ないしS極同士をむりくりくっつけてやろうとした時の、ぬめるように撥ね返す──あの感覚に似ている。
これがいわゆる「地に足がつかない」状態かもしれない、と僕は思った。
どれくらいの人が、この感覚を言い間違えるかな、そんな意地の悪いことを考え出してはっとした。
人はもうまばらだった。
すれ違う人はほとんどいない。
人が吸い込まれた先の窓硝子が暖かく灯る。
その影が揺れ、崩れていく。
強い光のなかへ消えてゆく人々。
眠れない都会の明るすぎる夜。
まるで僕だけが溶けきらないコーヒーカップの底の砂糖のようで、取り残された気分になった。
それでも、右の足を蹴り出すのが誇らしい。
蹴り出すたびに蝶々は僕が目指すのと同じ方を向いて羽根を揺らしていた。
気にする人目のないのをいいことに、しゃがみ込んで結び目に触れてみた。
ふいに幾分か前のことを思い出し、たまらなくなった。
蝶々の輪っかの羽根に指をかけ、引っ張った。
僕は鬱血するような安堵の中、偽物の星と夜空の色をごちゃ混ぜにして、煙る光を眺めていた。
僕はつい、その光の中に彼女の面影を探した。
過ぎ去る車の合間を縫って、通りの向こうを歩く人の白いコート。
それをまとう人の顔に彼女の顔を当てはめて、アナザー・ストーリーを想像した。
あっという間に陰鬱になって、やめた。
再び、蝶々と僕は煌めきの中を歩み始める。
帰巣本能を失いかけた僕を足元の蝶々が導いている。
靴が止まる。
右の蝶が右を向く。
だから僕も右を向く。
つられて左も右を向く。
薄ら灯りの灯る洋菓子屋さんの中に、僕と同じライトグレーのスーツを着た男の人がいる。
彼は少し照れくさそうに崩れた髪を撫でていた。
僕の視線に気づいたのか、彼は慌てた様子でネクタイに手を移し、右に三回、左に二回、結び目を動かした。
そしてコートのポケットに手を突っ込んで、僕に向かって頭を下げた。
つられて僕も頭を下げて、顔を上げる。
目があって、僕が笑ったら彼も笑った。
きっと、彼にはいいことがあったんだ。
すごく、晴れやかな顔をしていた。
彼の目にも僕はそんなふうに映っていたのだろうか。
玄関の扉を開け、部屋がいつもより暗いことに気づく。
向かいの建物の灯りが消えていた。
子どもの頃、たまたま聴こえたクラスメイトたちの言葉を思い出す。
「今日俺、絶対早く寝る! でも目は開けとく。」
「俺も!」
目を開けてみる夢か……
僕もやってみようかな。
本の中──雪の降る夜、真っ白なお髭のおじいさんが……どうしたんだったっけ。
たしかクラスメイトは目を閉じて夢を見た。
僕は一晩中、窓の外を眺めていた。
クラスメイトの靴下には贈り物が入っていたらしい。
僕の靴下には、僕の足が入っていた。
おかしいな。
あの子たちの会いたかったおじいさん、僕だけに会いにきてくれたのに。
そうか、あれが目を開けたまま見る夢だったのか。
あの朝、床の上、お星さまみたいに輝いていたのはなんだったかな。
夏みたいな味だった気がする。
電気をつけた。
すかさずカーテンを引く。
その光を閉じ込めるために。
邪魔をしないために。
閉じ込めた光の中で僕はコートを脱いだ。
肩の軽くなる感覚が、寂しかった。
ジャケットをハンガーにかけた。
空気の冷たさが身に染みた。
ネクタイに触れ、その手をベルトにかける。
スラックスは力を無くしたみたいに金属の重みに負け落ちていった。
慌てて引き上げたけれど、また金属音と一緒に落ちていった。
僕は座り込む。
中途半端に整えられた髪、脱ぎかけの服。
よれた裾の方からシャツのボタンを外していく。
第一ボタンだけが外せなかった。
僕は妙な格好で、玄関の冷えた壁に凭りかかっている。
寒かった。
身慄いしながらも、僕は笑っている。
さっきまで僕をここまで連れてきてくれた二匹の蝶も、今では一匹だけになっていた。
その一匹を僕は今、撫でている。
奥の壁にはコートとジャケットが同じく壁に凭りかかっている。
重量が、布に残る緊張を伸ばしていく。
時間だけが過ぎていった。
日付が変わりかけて、ようやく僕は立ち上がる。
おかしな格好のまま、コップに注いだ水を飲み干した。
たぶん僕は、今日という日をまだ脱ぎきれていなかった。
抜き切れないまま、日付を超える。
まるで羽化することのない、永遠の蛹のように。
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【創作大賞2026】
恋愛小説部門エントリー中。
貝原瑞樹は凍ったクロワッサンが好きという新情報が出ましたが……
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よくやったぞ!
貝原!
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一方の大正時代の文学青年は悪ふざけが止まらないようです。
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【エッセイ】
何書いたか忘れましたが去年のクリスマスの話です。
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ゆきお様・解説
純文学気取りの私の文章を救い出してくれます。
やはりなんだか研究論文書いていただいた気分で文豪にでもなったようなお調子乗りになってしまいます、ごめんなさい。
浮かれすぎました。
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よもぎちゃーん!
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何が好き?
ポテトチップスよりも
お・ぬ・し