はずれた天気予報──『水辺のつつじ』ep.25
朝とも夕ともとれる光の中、僕は目を覚ます。
敢えて時計は見なかった。
薄らと頭が痛い。
雨だと知ってしまったから痛くなったのか、それともその前から痛かったのか──
もう、カーテンを開けてしまったからわからない。
霧雨の降る朝だった。
しのつくでもじとじとでもなく、音の微かな霧雨の窓辺で本を読むの好きだった。
子どもの頃から、ずっと。
僕は鞄に教科書と文庫本二冊を放り込む。
一冊は空の描写の美しい私小説。
もう一冊は破天荒詩人の言わずと知れた選詩集。
今日読む本、そんなものの前に今日着る服を決めてくれ、と言わんばかりにくしゃみが二度、三度と立て続けに鼻を殴った。
本を決めるだけの思考力はあるくせに、どうにも靄がかったような眠気が抜けきらない。
カーペットが途切れ、剥き出しの床を踏んでしまった。
濡れ靴の中で靴下がぐしょぐしょと音を立てる時のような息苦しさに僕は二歩、後退る。
脱ぎ捨ててあるパジャマを爪先に引っ掛けて、床の上に蹴り飛ばした。
それを橋みたいにして踏んづける。
まだ少し、温かった。
ノブに引っ掛けてあったカーディガンを羽織る。
冷えた「生物」みたいな匂いがする。
外に着ていく服すら決めあぐねる首筋を、化繊がちくりちくりと急かしてくる。
目についた半開きの袋を引っ掴む。
何日か前に買ったレーズンロール。
ひとくちかじってみたところ、微かに土っぽい匂い。
気のせいかもしれない。
残りも全部ねじ込んだ。
手を洗う。
シンクで砕ける水の匂いが今朝は妙に鼻につく。
頭はまだ、血管性に疼いていた。
靴を履く。
解けた靴紐は、灰色に汚れている。
それを結び直した後、わずかにめまいがした。
「行ってきます。」
返事はない。
玄関の扉を開ける。
街は、人は、木は、道は、おしなべて濡れていた。
鍵を閉め、傘を開く。
開いた傘を閉じ、カーディガンの前ボタンを閉める。
再び、傘を開いて歩き始めた。
透明な傘の下から見上げる空は淡い灰色だった。
灰色を透かす雫は銀色のよう。
雨を吸って色を濃くしたアスファルトを、影法師みたいな色の服を着た人々が踏み沈めた。
空より地上の方がよっぽど黒雲に覆われている。
──水の粒が、音を吸い込んで地面に落っことしているのだろうか……
今日のキャンパスはいやに静かだ。
すれ違う学生の数は、普段となんら変わりない。
いつも通りだ。
いつも通り、彼らは笑い合っている。
僕は窓側の前から四列目の席に座る。
いつもなら争奪戦のこの席も、今日はどうせ、誰も来ない──そんな気がした。
教授の語尾だけが、何故か雲散霧消する。
目を閉じている間だけ、黒板を叩くチョークの音が聴こえる。
濡れ窓の先に目をやると、公園と大学とを隔てるフェンスの先に誰か……いや、何かがぼんやりとこちらを向いているような気がした。
しかしそれはまばたきののち、すっかり見えなくなってしまった。
僕は突然、迷子のような心細さに襲われる。
──いかないで、いかないで。
講義終了の鐘とともに僕は外へと駆け出していた。
途中見知った顔にすれ違った気がする。
でもきっときのせいだ。
道の半分くらいまできたあたりで、傘を教場に忘れてきたことに気づく。
それでも構わなかった。
依然として外は霧雨だったから。
どれほどの時間、歩いただろう。
どれほどの距離、走っただろう。
靴紐がほどけて、側溝の水を吸い上げ波模様を作っている。
結び直すのも嫌になって、内踝の方にねじ込んだ。
やっと辿りついた頃には息が上がっていた。
僕は肩で息をしながら空を見上げる。
塔は水を吸い上げ、たった今僕の瞳に垂れ込める空の色より灰を濃くしていた。
今日の塔は、随分と近くに建っている。
夏頃は、もう少し遠かったような気がする。
手すりに肘を乗せ、頬杖をつく。
水は、じんわりと僕の体温を奪っていく。
足元を使い捨てのどんぶり容器が転げる。
雨に溶けた赤い汚れが僕の白い靴を染めた。
──僕は天気予報を見ない。
だから、この後の展望を知る由がない。
出かけた先で、突然雨が降り出した。
あの人は雨に濡れながら、何か叫んでいた。
声とその息遣いは鮮明なのに、言葉だけがうまく思い出せない。
ただ、やたらと正しかった気もするし、ひどく間違っている気もした。
僕はスニーカーをぐしょぐしょと鳴らしてその後ろ姿を追いかけた。
あの時の雨は今よりずっと澄んでいて、微かにしょっぱかった気がする。
──天気予報、大当たりだね……
物憂げな声に、僕は顔を上げる。
二人の学生の顔の間の窓が真っ白く煙っている。
紙を繰る音をざんざんと篠突く雨がかき消した。
雨に濡れた学生たちが、水を飛ばしながらなだれ込んでくる。
「こんなことなら傘持ってくるんだった……」
「星占いは信じるくせに。」
「でもまあ、一時間もすればあがるみたいよ。」
本棚の前、品定めする僕の靴は乾いている。
席に戻った僕は何の風情もない窓辺で文字を貪った。
一時間経って、雨が上がった。
──天気予報、大当たりだね!
弾んだ声を黙って聴いていた。
本を閉じる。
僕は雨上がりのキャンパスを歩く。
べったりとしたありとあらゆる足跡を避けながら、透明な傘を迎えに行く。
窓側の前から前から四列目。
うっすらと湿った傘が僕が置いた時の形のまま残されている。
それでも僕の靴は乾いていて、靴紐は内踝側に捩じ込まれているのだった。
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主人公、上原朔也は大正の世を生きる文学青年。
宿敵・飯沼太一や謎の若き講師・鳴海清一に翻弄されつつ自我を見つめる。
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