「専門家であること」と「普通の人であること」
今回は、「ポジショナリティとマージナリティ」という、少し難しそうな言葉をテーマにお話しします。
でも内容は、実はとても人間くさい、僕たちが日々抱えている「どう人と関わるか」という悩みに関わっているものなんです。
たとえばあなたが、何かにすごく苦しくなって、ぽろっと涙が出てしまったとします。そんなとき、隣にいた人から、
「その涙を流しているときの自動思考って、どんなものでしたか?」
と、すごく真面目な顔で聞かれたら……どうでしょう。
僕だったら、ちょっとムッとしてしまうかもしれません。「今それ言う?」って。
もちろん、それは心理療法の技法のひとつとして、間違っているわけじゃない。でも、“正しいはずの技法が、関係の中ではズレてしまう”という瞬間って、確かにあるんですよね。
「専門家としてのふるまい」が、時に相手との心の距離を遠ざけてしまうことがある。それに対して、僕はずっと、言葉にならない引っかかりを感じてきました。
普通の人って、泣いてる人がいたら「大丈夫?」って声をかけるものですよね。「自動思考は?」とは聞かない。
それができなくなってしまうとしたら、僕たちは「専門性」という名の仮面をかぶって、自分を守っているのかもしれない。そんなことを学びました。
■ 専門家の仮面は、ときに防衛になる
人の痛みに触れる仕事をしていると、時々、自分も不安になったり、巻き込まれそうになったりします。そんなとき、何かにすがりたくなる。理論や技術やマニュアルという“盾”を持っていると、安心なんですよね。
でも、その盾を構えているかぎり、目の前の人の苦しみに、ちゃんと向き合うことはできないのかもしれない。
「正しい対応をしている」はずなのに、どこか冷たい。その違和感の正体は、たぶん、そこにある。
「ポジショナリティ」という言葉は、簡単に言えば、
「いま、あなたはどんな立場でその場に立っているのか?」
「誰として、そこに居ようとしているのか?」
という問いです。
専門家? 支援者? それとも、ひとりの人間?
立場があること自体は、悪いことではありません。でも、その立場に無自覚なまま縛られてしまうと、関係はとたんに息苦しくなる。
専門家でいようとしすぎることは、ときに、「相手にとって」ではなく、「自分にとって」安心な場所に逃げているだけかもしれない、そんな気づきが、僕の中ではとても大きかったんです。
■ 真ん中に立てない人がいる
僕はもともと、“ど真ん中”が苦手な人間です。
「これが正解!」と断言されると、素直にうなずけないし、かといって完全に否定もできない。
集団の中で輪の中心にいるよりも、すこし離れたところで様子をうかがっているタイプ。
でも、その「真ん中に立てなさ」には、実はある種の誠実さがあると思うんです。
「マージナリティ」というのは、
どちらの側にも完全には属さず、境界線の上で揺れている状態のことを指します。
たとえば、セラピストという立場にいながら、目の前の人にただ“人として”接したいと思うとき。
あるいは、支援する側であるはずなのに、「助ける/助けられる」という関係自体に違和感を持ってしまうとき。
そういうとき、人は宙ぶらりんの場所に立たされます。
・支援者なのか、友人なのか
・専門家なのか、ただの人なのか
・助ける側なのか、それとも傷ついた同士なのか
その“あいだ”に立ち続けることは、とても不安定です。
でも、僕はそこに本当の関係性が生まれる余白があると思っています。
「自信満々の専門家」になれないことは、ダメなことじゃない。むしろその迷いがあるからこそ、「あなたの前で、僕は“人間”として立っていたい」と願えるんだと思います。
境界にいる人間は、両方の痛みに触れることができます。
「助ける側のしんどさ」も、「助けられる側の怖さ」も、両方がわかる。
だからこそ、専門家でも素人でもない、
ただの“僕”としての存在が、目の前の誰かにとって救いになることがあるかもしれない、そう、信じています。
■ 間にいる人は、両方を見渡せる
「マージナリティ」という言葉は、
ときに“排除された存在”や、“主流から外れた立場”という意味で使われます。
でも、僕はそれを少し違う角度で見ています。
マージナルな存在は、両方の世界を見渡せる場所にいるんです。
境界の外にあるものを否定せず、どちらにも片足を置きながら、対話を続けられる。
言い換えれば、「関係をつなぐ橋」としての立ち位置。
それは、専門性よりもずっと、柔らかくて、でも強い力を持っています。
「専門家であるな、普通の人であれ」という言葉は、単なる謙遜ではなく、専門性という装備を脱ぎ捨ててでも、相手と心で向き合う勇気を持てというメッセージなのだと思います。
そのためには、「正しさ」や「成果」よりも、“あなたのそばにいるよ”という姿勢を、何度でも選び直さなければならない。
たとえそれが、肩書きも論理も役に立たない、不安定で答えのない場所だったとしても。
その“あいだ”に留まる覚悟こそが、僕の臨床の原点なのです。
■ 関係性を“治療”しようとしてしまう罠
支援の現場では、ときどき、こんな瞬間があります。
クライエントが心を閉ざしたとき。
思いがすれ違ったとき。
感情がぶつかって、拒絶されたとき。
そんな場面で、支援者が無意識にやってしまいがちなのが、
「それはあなたの認知のゆがみですね」
「この抵抗を乗り越えたら、前に進めますよ」
といった、“要求的”で“懲罰的”なモードに入ることです。
でもそれって本当に、支援になっているんでしょうか?
相手が苦しんでいるとき、関係がうまくいかないとき、
「何かを“教える”ことで状況をコントロールしたくなる」のは、支援者側の不安の表れです。
そういう気持ちがあるとき、人はつい「正しさ」にしがみついてしまう。
でもその正しさは、相手のためじゃなく、自分を守るための“武器”になってしまうことがあるんです。
そしてそれは、支援という名を借りた支配に、いつの間にかすり替わってしまう危険もある。
スキーマ療法では、「懲罰的モード」に陥らないことを非常に重視します。
つまり、相手がこちらを拒否したり、距離を取ったときに、
怒りや失望から「わかってもらおうとする」のではなく、“わからなくて当然”という姿勢でそこにいること。
それは、治すことよりも、
「一緒にいること」や「理解しようとすること」を選ぶということ。
支援とは“技術の実演”ではなく、“関係の共同創造”なんだと、僕は思っています。
■ 関係性には、温度がある
関係というのは、「言っていることが正しいか」ではなく、
「その言葉が、どういう温度で届けられたか」がすべてです。
・冷たく感じる正論は、人を黙らせる
・あたたかく届くひとことは、人をほどく
だから僕は、「自分の言葉が相手にどう響くか」に、いつも敏感でいたい。
それが正解かどうかよりも、「この距離で、この声で、伝えていいのか」を大切にしたい。
ここまで読んでくださった方には、
「じゃあ、どうすればいいの?」と思われるかもしれません。
でも僕は、“答えを持たないこと”を恐れないでほしいと思っています。
専門家としてしっかり立つことと、
人として揺れながら寄り添うことのあいだで、
ずっと迷い続けていい。立ち位置は変わっていい。弱さを見せてもいい。
その揺れの中に、
「あなたのことを大切に思っていますよ」という真実が宿るのだと思います。
■ おわりに
ポジショナリティとマージナリティ。
この二つは、僕たちが「誰として、誰とどう関わるか」を問い直す言葉です。
境界に立つ者は、不安定です。孤独です。
でもそのぶん、人と人のあいだに橋をかけることができる。
僕は、その橋でありたいと願います。
技術よりも、正しさよりも、
“あなたのそばにいたい”という意志が見える存在でありたい。
たとえ、うまくいかない日があったとしても。
たとえ、どんなに不器用だったとしても。
僕は、人との関係を、あたたかく編んでいける人間でありたいと思います。
