帝がゾッコン|第一章 王なき嘉衡〈五〉
五話-登場人物
【太上王・嵯烈宗】
嘉衡・三代王。既に崩御した四代王・嵯令暉と、魯王・嵯令泰の実父。退位後もその眼光鋭く、老いてなお政に睨みを利かせる。
【刑部尚書・千仲連/白璃君】
法を統べる重臣。太上王の元側近として政を支えた切れ者。冷静沈着で、政局の裏を読む老練な策士。湯尚とは長年の相棒。
【兵部尚書・湯尚/赫曜公】
千仲連と並び、太上王の側近として長年仕えてきた豪腕の将。せっかちで議会が長引くとすぐイライラする。
【宗正卿・周明】
王族の系譜や儀礼を掌る宗正卿。嵯家に深い恩義を持ち、太上王とは義兄弟のような間柄。持病の咳がひどい。
【魯王・嵯令泰】
太上王の二王子で、亡き四代王・嵯令暉の兄。控えめな性格で、八年前に弟の嵯令暉へ王位を譲っている。
前回のあらすじ
廷議の場では、次なる王を誰とすべきかが最大の焦点となった。
宗正卿・周明は、東宮・嵯昱然の即位を推すも、幼き太子に国を託すことに、重臣たちの胸中はざわつくばかり。
兵部尚書・湯尚は太子の心身を案じつつ、魯王・嵯令泰に決断を仰ぎ、さらには中書令が魯王に即位を促すも、返答は終始、曖昧を極めていた。
そんな折――
衡宸殿に、突如として一人の老人が姿を現す。
それは、太上王〔先代の王〕・嵯烈宗であった。
第一章〈五〉
名乗りの決め台詞は、かつての忠臣、千仲連と湯尚によって、あえなく遮られたのであった。
その声にピタリと動きを止めた太上王・嵯烈宗は、クチバシのように口を尖らせ、じと目を向けたかと思えば。
「ばかたれがッ!本来、英雄とは遅れて現るものと相場が決まっとるの!!完ッ全に決めどころじゃったのを、見事に台無しにしてくれおって!」
と、手にしている杖をぶんぶん振り回しながら、声を張り上げた。
どこか愉快げな──いや、稚気に富むというよりは、ただただ自由すぎる。
この御仁が、かつて嘉衡を見事に治めた名君とは俄かに信じがたい姿だが、
それこそが太上王・嵯烈宗、恐れ知らずの“ひょうきん暴れ爺”である。
その登場に、慌てて壇の中央まで歩み出たのは、中書令と左僕射だった。
「ご来殿のご予定、拝聞しておりませんでしたが……」
「その、何か……ご事情でも?」
ふたりの口ぶりは、無礼にならぬよう腐心しているのが見て取れる。太上王は、ふんっと鼻を鳴らして杖を突き直した。
「なに、兄弟水入らずで語らう約束じゃったの!それがどうじゃ、待てど暮らせど弟が来ぬ!どこで道草を食っておるのかと思うたわ!
まったく、ワシをすっぽかすとは……たいした度胸よの?」
皆が返答に困って「は……はあ……」と間の抜けた声を漏らすばかり。
戸惑いの気配は、太上王・嵯烈宗の登場からずっと尾を引いたままだ。
すると太上王は、くるりと周明の方を向いて言い放つ。
「おい老周!この国はいつから、おいぼれジジイをこき使う主義に変わったんじゃ?
死にかけの儒官みたく咳き込みおって!お前もくたばっちまいそうじゃなッ」
「兄さん……その物言いは、さすがに不謹慎だよ……ゴホッ」
「なにをぬかすッ!ワシが言えば冗談になるんじゃ!」
その瞬間、(自覚あるのか)と全員が同じ感想を抱いていたことに、本人はおそらく気づいてすらいない。
だが、ふと――その飄々たる振る舞いに、忘れがちになるものの、太上王・嵯烈宗は、まさしく今しがた、愛子を喪ったばかりの身である。
にもかかわらず、終始泰然自若、気丈にして朗らかな様は、逡巡する重臣らとは対照的に、彼ひとりだけが、すでに嘉衡の行末を見通しているかのようだった。
一歩ごとに杖を鳴らしながら大広間を進む太上王は、次々と列席者へ声をかけていく。
昔馴染みに挨拶をするような調子で、ひとり、またひとり。
その姿は、旧友との再会を心から楽しんでいるかのよう。
周明を除けば、この場の誰もが、太上王と顔を合わせるのは実に久しぶりのことだった。
──が、もちろん忘れてはならない。
その御仁は、元・この国の王である。
話しかけられた側は皆、緊張気味の顔を引きつらせ、愛想笑いとともに困ったような表情を浮かべていた。
唯一、礼部尚書にだけは「頼んだぞ」と手短に済ませたあたり──
「これ以上話すと、やつの話が長くなって終わらん」とよく分かっているがゆえだろう。
それにしても、かつて忠臣として片時も傍を離れなかった千仲連と湯尚ですら、最後に言葉を交わしたのは幾星霜も前のことである。
彼らも、なるべく目を合わせまいと気をつけてはいたが、無論、逃げられるはずもない。
「主君、ご無沙汰しております」
結局、先に口を開いたのは、やはり千仲連のほうだった。
「宗正卿殿と昼餉の約束が?」
彼らが控えていたのは、大広間の奥の方。
声をかけられた太上王はそれと知るや、片手に携えた杖を「コン」と床に鳴らし、ふわりと衣の裾を揺らして、二人の方へと歩を進めた。
一歩ごとに響く杖音が、妙に律儀で、妙に威厳があり、そして妙に可笑しい。
湯尚は横目で仲連を睨んでいた。
まるで「ほら見ろ、話しかけるから来たではないか」とでも言いたげに。
だが、仲連としてはやむを得ぬ判断だったのだ。どうせ避けられぬなら、さっさと迎え撃ってこの廷議を終わらせる方が、どれだけ気が楽か知れない。
太上王は千仲連と湯尚の前で足を止めると、いきなり不満をぶちまけた。
「そう、わしはな!茶話を楽しみにしておったんじゃ!緑豆湯を用意してなッ!〔中国の夏によく飲まれる緑豆を煮出した甘い冷製スープ〕
それがどうじゃ、一刻待っても弟が現れないから来てみたらこの有り様よッ」
仲連は、とっさに話題を夏の味へと転じる。
「おお、緑豆湯ですか、夏といえばでございますな。昔は、私も湯尚も、よく主君と――いえ、陛下と、ご一緒に……」
語るうちに、思い出が滑らかに舌を伝うようで、声の調子がどこか懐かしげになる。
あわよくばこのまま、古き時代の追憶に太上王が浸ってくれれば――
そんな淡い願いも虚しく、太上王はふっと目を細めると、今度は湯尚と仲連を交互に眺め、首を傾げる。
その時、そっぽを向いていた湯尚が「やはり、外で聞いておられたのではないですか?」と呟き、続けざまにこう言った。
「まあ、あなたのことですし。どうせ、ちょうどいいところで覗いてたのでしょう?
それに、どうにも決まりそうにない流れでしたしね。
――もうよろしいのでは?日も傾いてますし、今日はこのへんでお開きにしては」
湯尚は、よほど痺れを切らしていたのだろう。
これを潮に、この廷議を締めにかかろうとしているようだった。
隣でそれを聞いた仲連は、思わず額に手をやり、小さく嘆息する。
(だから、いらんことを言うなと!何度言わせればわかるのだ、この男は!)
……と、そんなやり取りすら面白がっているかのように、太上王がにやりと笑った。
まるで「よくぞ申した」と言わんばかりに。
「誰が盗み聞きなんぞするかッ!たまたま外を通りかかっただけじゃ!」
そして、不意に声の調子を変えた。
「それはそうと、湯尚。おぬしんとこには、もう話が入っておるか?」
湯尚は、あからさまにうんざりした様子で返す。
「……内容によりますが?」
「おや?知らぬとは言わせんぞ?烏邪刳じゃ!」
湯尚は、わずかに目を見開き(まさかそこまで耳に入っていたとは)と言わんばかりの顔をしたが、すぐに感情を封じた。
『烏邪刳』――
それはかつて「殺戮将軍」と恐れられた猛将。
だがある戦、敵に内通し、一つの領地を壊滅させたことで軍律違反の咎を受けた。
それ以来、軍籍は剥奪。彼の名も、その過去も、都では語られることすら稀となった。
「いま烏邪刳といったか?」
「殺戮将軍が?どういうことだ?」
「だが奴はすでに軍を――」
さざめきは徐々に大きくなり、やがて一同の視線が、兵部尚書たる湯尚に集中する。
湯尚は、ひとつ深く息を吐き、淡々と告げた。
「三日前、南西境にて交戦があり、敵軍が壊滅。
……討ったのは我が軍ではなく、除名された元将・烏邪刳であると、現地より報がありました。
兵部としては、一切の命令を出しておりません」
その隣で、千仲連が誰にともなくぼそりと漏らす。
「……鎖のない犬。噛むかどうかも、どこに走るかもわからん。
それでも今回は、たまたま噛んだ先が、うまく当たった、ということか」
太上王はそれを聞きたかったと言わんばかりに頷いた。
そして、次の瞬間いたずらっ子が面白い遊びを見つけたように、笑いを含ませて言った。
「賊に手柄を挙げられては、面目ないな湯尚よ。いや赫曜公かッ!」
これはもはや皮肉でも批判でもなく、“単なる遊び”である。
太上王の“遊び場”に、湯尚はまんまと引きずり出された。
これで済むと思った者もいたかもしれない。
だが、湯尚のひと言が火種となって、図らずもこの廷議に「太上王が絡む口実」ができてしまったことに、誰もが遅ればせながら気づき始めていた。
そして、さも思い出したふうに言う。
「そういや、わしが来たとき……老周が、何か言いかけておったようなぁ?」
声色に変わりはない。ただ、老獪な笑みがちらつく。
それを見た周明は、(兄さんの独壇場が始まった)と、腹の底でため息をついた。
そして太上王は語りを続ける。
「誰かの孫は、まだ乳の香りがするほどに幼すぎるし、そこの誰かさんは引っ込み思案で声もよう出せんときた。
そんなら、候補が他におらんというのか?はてさて、これは困ったのう?」
本人は盗み聞きなどしていない、と言っていたが、どうしてよりによって一番聞かれたくないところだけ、ばっちり拾ってくるのか。
それも妙に、いや、あまりにも具体的に。
湯尚は素で言った。
「……やはり、聞いていたな」
呆れと諦め、そして少しばかりの感心が、ないまぜになった声音だった。
その一言に、目をぱちくりとさせた太上王がさらに調子づく。
「いやぁ、大変じゃのう、次代の選びというのは!
わしが即位したのは、もういつのことだったか?あれ、思い出せんわッ」
とぼけているのか、ほんとうに忘れたのか――
いや、間違いなく前者であろう。声の調子が、実に楽しげだったからだ。
すると、大広間の一角で、さきほど「引っ込み思案」と思わぬ矢を受けた者が、腰を上げた。
肩を正し、わずかに視線を太上王へと向ける。そして、おずおずと声をかけた。
「……父上」
魯王・嵯令泰は随分と居心地悪げだ。
「聞いておられたのは分かりました。……して、まさか私を説得しに来られたのですか」
その問いに、太上王は「え?」と目を丸くしてみせたが、すぐに芝居がかった調子で手をひらひらと振った。
「説得?まっさかぁ!わしがそんな面倒なことをするとでも?ふふんッ、お前を王に据えるほうが楽だと、心の底からそう思っておるのは、ここにおるそっちの連中の方じゃろ!わしはただ老周を探しに――」
髭を撫でてはみたものの、次のひと言は妙に冷静で。
「ただ……諸君に言うておくがな、わが息子――あの者は王には向いておらんぞ?」
杖の先は魯王の方を向いている。
「父親が言うんだから、間違いないッ。真じゃ真じゃ! はっはっは!」
どこまでも上機嫌なのは、この老人ひとりだけだった。
この状況はいったい何なのかと、重臣たちは目配せし合い、いずれも反応に困っていた。
しかし太上王の独壇場は、まだ終わらない。
「まったく、困り果てとるのう、諸君らは。
じゃがの、案ずるより産むが易しッ!ええやつが一人おるじゃろ?」
と、またしてもにこにこと笑みを浮かべて大広間をぐるりと見渡す。
「さっき老周も、ちょうどその名を言おうとしておったんじゃ!なあ?
わしの登場で、言いそびれたんじゃろ!はっはっはっはっ!」
たちまち列席者の目が周明へと一斉に移る。
周明は視線を受け流すように、小さく頷いてから口を開いた。
「……敬脩という者でしてゴホッゴホッ」
咳き込むのを堪えながら、それでも言葉を続けようとする。だが、誰もがその名に釘づけだった。
「敬脩……?」
「誰だ、それは?」
「聞いたことがない名だが……」
衆議沸騰しかけたその空気を、太上王の一声があっさりと断ち切る。
「ああもう、煩わしい!名乗りなど、いくらでもあるじゃろ!
今は、洪敬脩と名乗っておったか?賀律敬脩でもあり……まあ、嵯敬脩でもあるわ!はっはっはっ!」
──第二章・〈五〉 了──

第二章 才色兼備、趣味難あり〈一〉
あとがき
やっと五話公開できました。
登場人物がいよいよややこしくなってきました笑
そして、主人公の敬脩がついに次話から登場します。おっそー!
そして筆者はちょこちょこ見返して改稿してます✏️
用語がね、、、敬称がね、、、地獄。ちーん。
