帝がゾッコン|第一章 王なき嘉衡〈ニ〉
第一章 王なき嘉衡〈一〉
【前回のあらすじ】
王の崩御に混乱する嘉衡。
臨時の廷議に向かう途中だった刑部尚書・千仲連は、行方を探らせていた“ある人物”について、甥の千朗堅から報告を受ける。
その人物を都へ連れ戻すため、朗堅は後を追い、仲連は遅れて廷議へ向かった――。
第一章〈ニ〉
殿前の広場――。
いまなお、大典や国儀の舞台ともなるその敷石は、時を重ねるごとにその重みを増し、嘉衡の政を司る中心地にふさわしい風格を湛えていた。
そして、その敷石を踏みしめながら現れたのは、千仲連。
この国において、ちょっとばかり顔が利いて、そこそこ偉い――そんな立ち位置の男である。
広場はまるで、人の手によって築かれたものとは思えぬほどに広大で、空と大地をバッサリと断ち切るように開けており、その中央、広場の果てに、ひときわ目を引くのが、嘉衡の正殿・衡宸殿。それはまさに存在感の塊――ここに極まれり。
他国のような朱に染め上げた華美な殿とは違い、どこか陰を宿すような佇まいをしている。
屋根は深く沈んだ藍、柱や梁は艶のある黒漆で塗られ、彩りとして許された朱は、欄干や門扉に控えめにあしらわれているだけ。
それは凛として、どこか近寄りがたい冷ややかな威厳。嘉衡という国の気質を色で表せば、まさにこの雰囲気だろう。
(すごいのに”すごくなさそうな顔”をする国風、そろそろやめてもいいんじゃないだろうか?)
仲連はそんなことをぼんやり思いながら、衡宸殿を見上げていた。
石畳の地面からは、熱気がうっすら立ちのぼり、夏の朝日がじわじわと高くなりじめる頃。
左右の建物には、召し出された高官らに仕える近衛たちが、ぴたりと沿うように控えている。
彼らは千仲連の姿を見るやいなや、すかさず黙礼を送った。
朝廷の裏も表も見てきた筋金入りの官吏ともなると、ただ歩いてるだけでこれである。
(礼を返したら負けな気がするから、このまま行こう...)
本人は決して威張ってるつもりはないが、勝手に持ち上げられてる気配は感じているのだ。
衡宸殿の正門前に千仲連が立つと、儀衛のひとりが門前にて声を上げた。
「刑部尚書殿、おなりにございます!」
(……遅刻にございます!とか言われなくてよかった)
仲連がそう思っていると、重々しい音を立てて扉が開かれてゆく。
荘厳な政の大広間へ踏み入れた途端、外の熱気がすっと引き、殿内にはひんやりとした空気が張り詰める。
頭上の梁から垂れる簾帳は風に揺られ、高窓から斜めに差し込む朝日が、鏡のような黒漆の床に幾つもの光の筋を映し出していた。
その先、正面の王座へとまっすぐ延びる敷布には、金糸で縫い取られた鳳凰が大きく翼を広げ、天に舞う姿が、牡丹や唐草の文様に囲まれている。
だれもが目を奪われそうになる豪奢な意匠は、この国を背負う王の威容にこそ相応しい。
ちょうどその時、中央の高座近くにいた左僕射が、千仲連を一瞥し、やや険のある表情で声を発した。
「やっと来たか、千殿。見ての通り、もう皆そろっているぞ」
王座を正面に据え、その左右には各部の尚書や老臣らがずらりと座している。この顔ぶれが一堂に会するなど、果たしていつぶりか。嘉衡の政を担う中枢が、今ここに集まっていると言っていい。
千仲連の到着とともに、すでに始まっていた礼部尚書の報告が、ピシャリと一瞬止んだ。
両脇から集まる視線を受けながら歩を進め、一礼ののち自席へと腰を下ろす。
さすがの仲連も真顔ではあったが、内心では、
(……気まずさ限界なんですけど。いや、いかんいかん、冷静に、冷静に)
「遅れてすまない。話の腰を折ったようで。どうぞ、お続けください」
そして話は途切れたところから何事もなかったように再開された。
すると、左隣の兵部尚書が、わずかに身を寄せ、囁いてきた。
「どこで油を売ってたんだ、仲連。朗堅はいい働きをしてくれたか?」
旧友の言葉に仲連の肩の力は自然と抜け、苦笑いで返す。
「いやはや、おかげさまで。真面目にやってくれていたよ。そちらも手一杯のはずなのに、助かるよ湯尚」
仲連がそう返すと、湯尚は口元だけで小さく笑った。
「ふん、ならば、またひとつ貸しを作ったな」
「つまらん冗談を言うな。そっちから返ってきてない貸しなら山ほどあるぞ。……奥方に黙ってやってる女の件、何人分か覚えてるか?」
湯尚はわずかに咳払いをひとつし、その耳元が、ほんのり赤く染まったのは、光の加減ということにしておく。
千仲連と湯尚は、長きにわたる付き合いがある。
かつて三代王・嵯烈宗の治世、まだ若かりし頃の二人は、剣を手に共に戦地に立ったこともあった。
今でこそ、千仲連は刑部の要職を預かり、湯尚は兵部の長官を務めているが、互いの本質は昔とさほど変わっていない。
地位が上がっても、気心の知れた間柄で、今なお酒を酌み交わす仲は続いている。
湯尚が兵部にて千朗堅を預かっているのも、実のところはその縁の延長にすぎない。
二人が視線を前へ戻すと、礼部尚書が、王の葬儀に関する細々とした段取りを、やけに改まった口調で読み上げているのだが、これが長い、無駄に丁寧、そして、なぜか話すたびに情報が遠ざかる。
誰かが止めない限り、このまま一刻は語り続けるに違いない。
「――遺骸は現在、王宮内の清嘉殿に安置されておりまして、所定の礼に則ったかたちにて保持されております......
なお...明日午後には、嘉衡王陵において、仮葬の儀として......これをお見送り申し上げる段取りにございます」
礼部尚書は一拍の間を置き、声をやや落としながら続ける。
「大葬について......」
しかし、この"大葬"という言葉が発せられた瞬間、大広間に目に見えぬ緊張が走る。
声ひとつなくとも、わずかな身じろぎ、衣擦れの音、交わされる視線――
沈黙のすべてが、それぞれの胸の内に潜む思惑を、じんわりと滲ませているようだった。
礼部尚書本人は、空気の変化などどこ吹く風とばかりに、変わらぬ調子で話を続けた。
「礼制に則り、大行王の御名のもと...七日後を期して.......その折までに新王の御決定が賜われましたならば、正式なる礼儀をもって...これを執り行う予定にございます」
……つまり、新しい王が決まるのは七日後――ということなのだが、それよりなにより、誰もが心のどこかで思ったのは。
(((言い回しが、長い!遠い!ややこしい!)))
――そんな思いが、場にいたほぼ全員の胸をかすめた頃。
「異議ある者は?」
左僕射が中央の高座のすぐ傍から問いを放つ。
しかし、袖口をいじる者、視線を泳がせる者、筆先を直す者はいても、声を発する者はいなかった。
「……よろしい。では、その手筈で進めよ」
左僕射が頷きを添えて言い切ると、礼部尚書は深々と一礼し、満足げな顔で自席へと戻っていった。
やっと終わった。仲連が広間をざっと見渡すと、皆からほぼ同時に、押し殺されていた息が漏れ出す。
咳払い、小さなため息、筆が走る微かな紙音――それらが、ふわりと解き放たれる。
だが、それは緊張が和らいだわけではない、ただ沈黙が割れ、“次”が始まったにすぎない。
すると湯尚が、またも千仲連に身を寄せ、声を潜めて囁く。
「冒頭で中書令が言ってたが――やはり遺詔は、ないらしいぞ。どう思う?」
すると筆を止め、机の上に手を置いたまま、唇を引き結び、千仲連は明らかに不機嫌な表情をした。
苦虫を噛み潰した、というより、飲み込んで喉につっかえたままのような顔だ。
「……ほう。それはそれは、ありがたい話だ。まだまだ養老はさせてもらえんってことだな」
湯尚はその様子に声を殺して笑った。
(書かれてなかった? 誰かに消された?――いやもう、どっちでもいい!どうせ動くのは刑部じゃないか!!これでまた、私の老後設計が崩れていく!!)
「遺詔・不在」と、少々強めの筆圧で書き記す仲連だったが、これでも叫ばなかっただけ、彼は大人である。
書かれた文字に滲んでいたのは――哀愁か、それとも憤りか。……いや、たぶん、両方だ。
ちなみに千仲連には、可愛い盛りの孫たちがいる。みな、そろそろ六つや七つになり、話も通じるし、遊び相手としては、今がいちばん良い時期だというのに。
本来なら、そんな孫たちに囲まれて穏やかな老後を送るはずだった。
なのに――どうしてまた、こんなざまである。
そっと筆を置いた彼の引退は、まだまだ先になるだろう。
──第一章・〈ニ〉 了──
