帝がゾッコン|第一章 王なき嘉衡〈三〉
前回のあらすじ
【前回のあらすじ】
王が亡くなり、ピリつく嘉衡の朝廷。
そんな張りつめた空気の中、ようやく廷議に到着した刑部尚書・千仲連。
礼部尚書が葬儀の段取りを一通り説明し終えた頃、古くからの友である、兵部尚書・湯尚から「遺詔はないらしい」と耳打ちされて――
第一章〈三〉
遺詔がない。
その事実が、刑部尚書・千仲連の胸に重くのしかかっていた。
――本当に、なかったのか?
あるいは、仮に用意されていたものを、都合の悪い誰かが“無かったこと”にしたのでは?
刑部に籍を置く者として、こうした場面でどうしても穿った見方をしてしまうのは、もはや職業病と言えるだろう。
彼の内では、次から次へと仮定が浮かんでは消え、それを延々と繰り返していた。
ざわめきの続く広間に、左僕射が含みのある咳払いをひとつすると、それは、"雑談をしに集められたのではない"という無言の牽制となって次を促した。
「各部尚書、報告の続きを、工部――」
そう呼ばれると随分と年若い男が前へ進み出る。
(工部尚書ではないな……補佐か?)
もっとも、仲連がそう思ったのも無理はない。
工部の長官といえば、仲連よりは年下ながら、たっぱがあり、岩のようにごつい男だからだ。
「工部侍郎の光印と申します。恐れながら、尚書殿は現在、南部水路の復旧現場にて指揮を執っており、本日はその代理として拝命を賜っております」
光印と名乗ったその男は、工部に属するとは思えぬほど、整いすぎた容貌をしていた。
柔らかな明るい茶の髪が額から後ろへと流れ、浅茶と黒革の帯、ありきたりで地味な袍でさえ、彼が身に纏えば、まるで仕立ての良い礼服のように見える。
立ち姿もまた、いわゆる工部の技術官に見られるような泥臭さや、職人気質の無骨さが微塵もない。
この場にいた何人かが、彼を見て同じことを思っただろう。
――こいつが本当に、工部の人間か?と。
しかもその口調からはいささかの淀みもないときた。
滑舌、声色、語尾の処理、どこを取っても及第点どころではない。
(……見た目が良くて、喋りも上手い。……ならば性格が悪いんだ!そうでないとこの世の帳尻が合わん!)
仲連の心は、完璧な若者に対して"せめてどこか欠けていてほしい"と願わずにいられない、ご年配特有の防衛反応であった。
光印は、そつがなく話を続ける。
「先週末に発生した河川の大規模氾濫はご存知かと――つきましては現在、応急処置が進み、一部では航路の復旧に目処が立ちつつあります。
しかしながら、農地の浸水は広範に及んでおり、秋の収穫への影響は免れないかと存じます」
遺詔なき王の死に加え、重なる自然災害。
嘉衡はいま、混乱のただ中にある。
――それなのに。
ご年配の高官らには、どうにも話の中身が入ってこないのだ。
気づけば皆、突然現れた光印が気になって仕方がない。
先ほどの礼部尚書の長ったらしい話には、誰もが半ばうつむき、筆をいじり、時には遠くを見つめていたというのに、いまやその目は、まん丸に見開かれ、ひとところに釘付けである。
「――特に沿岸部の村々では避難者も生じており、戸部、兵部との連携のもと、物資の搬送を手配中にございます」
朗々と語る光印の姿に、臆した様子など一つもない。
高官たちを前に、牽制することも、迎合することもなく、これほど堂々と振る舞える者が、いったいどれほどいるだろうか。
水害対応の報告を受け、それまで黙していた中書令が、こくりと頷きこともなげに口を開く。
「――棺の製作は、どうなっている?」
その言葉はまさかの礼部尚書に向けられた。
工部の若い侍郎に問うても満足に答えられまいと踏んだ上で、あえて振ったのだろう。
礼部尚書はわずかに目を泳がせたあと、なんとも小さな声で答えた。
「製作の実務は、工部にて……」
(えっ、ここで俺!?)という反射的な戸惑いは、隠しようもなく顔に出てしまっている。
……そしてその瞬間。
全員の視線が一斉に礼部尚書に集中する中、皆が心の中で、完璧なタイミングで声を揃えた。
(((中書令……絶対楽しんでる!!)))
案の定、中書令の表情が、ほんのわずかに動き、“そんなことは分かっていて、お前に聞いている”と言わんばかりの、絶妙に人の悪い表情をした。
その気配にたじろぐ礼部尚書に、すかさず救いの手が伸びる。
「よろしいでしょうか、中書令閣下」
光印がそう問いかけると、中書令はすばやく視線を移し、再びこくりと頷いた。
それを合図にしたかのように、光印は悠然と口を開く。
「先王の柩の製作につきましては、礼部より礼制の指示を受け、すでに工房にて着手しております。
金絲檀木を用い、礼に則った形式で進行中です。予定通り、明日午後までには清嘉殿への搬入が完了する見込みです」
まるで、こうなる流れを見透かしていたかのように、光印は完璧なまでに淡々と述べた。
驚くべきは、何よりもその段取りの早さと、手際の良さである。
王の急逝からわずか四日足らずで大葬に使われる棺を、仕上げたというのだから。
「以上、略儀ながらご報告申し上げました」
光印がそう言い終えるや否や、普段は言葉少なな中書令の口から、珍しく即座に返答があった。
「英才俊逸.....承知した。下がってよい」
その時、礼部尚書の方はというと、なんとも煮え切らぬ顔をしていた。よもや工部の若造に、一枚も二枚も上手を取られるとは、まさに赤っ恥である。
なにしろ“陥れた”とまでは言わずとも、今のやりとりひとつで、工部尚書の不在を誰ひとり咎められぬ空気へと、光印は巧みに作り上げてしまったのだ。
(……やり手すぎてもういやだこの子)
千仲連の内心には、そう書き殴りたくなるような気持ちが渦巻いていた。
(工部尚書は、最初からこの男を差し向けるつもりだったのだろう。
“うちには、これだけの人材がいる”と、そう誇示してみせたというわけか。
まったく、どこもかしこも抜け目のないことだ!)
光印は、中書令と左僕射へ順に拱手すると、まっすぐと自席へと戻っていった。
その姿が仲連の前を通り過ぎたとき、ふと彼の脳裏をよぎったのは――
(それにしても、あれで微笑みでも浮かべられたら、大抵のおなごは落ちるだろう......いや、下手をすれば男でも……か)
なぜそんなことを考えたのか、千仲連自身もよくわからなかった。
しかし、それほどまでに光印が、この政の場にいた大先輩たちに、強烈な印象を焼き付けたことは、もはや疑いようもない。
見目麗しい若き侍郎の登場に、ほんの束の間、重臣たちが嬉々として目を奪われ、一縷の和みすら漂っていた議場だったが、その空気も長くはもたない。
左僕射が席を正し、これまでで最も重みを帯びた声で言った。
「さて、諸君。次に議すべきは――次期王の擁立についてである」
左僕射の一言をきっかけに、前列に座していた宗正卿がそろりと立ち上がり、列席する者たちへゆっくりと一礼を送った。
──第一章・〈三〉 了──
