帝がゾッコン|往痕編
まえがき
本作は、『帝がゾッコン』本編とは異なる時系列で描かれる、ヒロイン落霞を中心とした、読み切りの番外編です。
本編にて彼女が暮らす翠天山、そして翠嶺客館。
彼女は、いかにしてそこへ辿り着いたのか?
また、本編第一話「王なき嘉衡」に登場していた刑部尚書・千仲連も、本編とは違った形で物語に関わってきます。
往痕編を通じて、『帝がゾッコン』本編をより深く楽しんでいただければ幸いです。
なお、往痕編に描かれるのは、血のつながりだけでは語れない家族のかたち、そして、誰かを想う気持ちが、時に人を傷つけ、歪ませてしまうという現実です。
この物語には、筆者である私自身の実体験を投影した部分も含まれています。
少し重たい描写もありますが、登場人物たちの痕跡が、読んでくださる方の心に残ればと願っています。
云霄流転 始
この地を「多安」と名づけた者は、いま何処で何を想うのだろうか。
嘉衡国の西辺を護る、国境の町・多安鎮。
もとは隣国の領地だったこの地は、二十数年前に烏邪刳将軍の軍勢が鎮圧し、嘉衡の版図へと組み込まれた。
その後要塞が築かれ、軍の拠点として整備された多安鎮は、見た目だけならそれなりに立派な町と言えなくもない。
今では多くの兵が駐屯し、昼夜問わず街道には荷車が行き交い、兵士らがカシャン、ガシャンと鎧の音を響かせては、遠く鍛冶場の槌音と交じり合う。
そして賑わいを見せる表通りには、雑多な市に酒楼や食堂が軒を連ね、夜になれば紅提灯の奥で女たちの嬌声が宵を彩るのだ。
だが、ひとたび裏路地へ足を踏み入れれば、酒に酔った兵の怒号と抜き身の刃が交わるのは日常のこと。
通りがかる者たちは、目を逸らし、ただ黙って足早に夜をすり抜けていく。それが、多安という町である。
仮にも多安の出と言えば、大抵は眉をひそめられ、親は極悪人か娼婦だろうと訝られることも珍しくない。
だが、そう思われるのも無理からぬ土地なのだ。
それほどに、この町には“曰く”がある。
なにせ、あの年の冬──
元女将軍、樊紅晶が半狂乱に陥り、見境なく剣を振い、遂には一夜にして十余の命を奪った。
そればかりか、犠牲者の中には嘉衡朝廷より派遣されていた刑部直属の按察使〔王都より派遣された地方の不正や民政を監察する高官〕までもが含まれていたのだ。
よりによって、そんな大物が巻き込まれてしまったものだから、ただの地方の騒ぎでは済まされなくなったのである。
もっとも、時が過ぎれば人の口とは閉じるものだ。
家々は建て直され、商いも再び活気を取り戻し、街の喧騒はまるで最初から何もなかったかのよう戻っていった。
けれど、雪のちらつく季節がくると誰からともなく、決まってこんな冗談が交わされる。
『さあさ、また女が狂う季節が来るぞ』
そして、そんな言葉のあとには、決まってひとつの話がついて回る。かの樊紅晶には、一人娘がいたと。
──あの女の娘は、今どこで何をしているんだ?
落霞──
狂女、樊紅晶が唯一残したその娘は、あの冬の夜を最後に、多安鎮から忽然と姿を消したのだった。
♦︎
第一幕 癲狂染红
落霞はこの日も普段通りに馬丁の仕事を終え、陽が落ちきる直前、街の喧騒も次第にしぼんでゆく頃に家へと戻ってきた。
茅葺きの屋根に歪んだ木枠の戸。
誰かが母に与えたらしい木造の小さな家に、生まれてから十七年間もうずっと住み続けてきた。
もともとは、駐屯中の兵に貸し出されていた簡易の兵舎だったなんて話を耳にしたこともあるが、どういう経緯で、誰の手によって渡ったのかなんて詳しくは知らない。
もとより、落霞にしてみればそんなことに興味など湧くはずもなかった。
庭先に着くと、着物についた干し草をぱっぱっと払い、家の戸に手をかけた──そのときだった。
ガシャーンッ!
何かが砕けた音が家の中から響く。
「ッ!?」
落霞の頭の奥で、苛立ち混じりの声が渦巻いた。
(まただ。もういい加減にしろ、色狂いめ!)
「母さん! 今度はなに──」
背中の袋を地面へ放り捨て、戸を引き飛ばすように勢いよく家の中へ飛び込むと、次いで響いたのは女の金切り声だった。
「ぎゃああああッッ!! 霄威ィィィィ!!」
目を凝らすと、薄闇の中で虚な目とボサボサに乱した髪の樊紅晶が異様な顔つきでぬるりと落霞の方へ顔向けた。
「霄威ッ……!烏霄威!どこに行ってたの!!」
顔の片側には生々しい裂傷があり、そこから血が一筋、頬を伝って滴っている。
着物は半ば肩からずり落ち、露出した肌のあちこちに擦れたような傷や、引っ掻いたような痕が赤黒く滲んでいる。
目の前の母、樊紅晶のその姿を前にした落霞は、彼女が何でどうやって傷ついたのか想像すらしたくなかった。
そして、錯乱状態のまま千鳥足でにじり寄ってくる樊紅晶は、どうやら娘の落霞を別の誰かと見間違えているようだった。
「帰ってきたのね、おかえり霄威……ふふ……」
そう呟くと、血のついた手で落霞の肩をがっしりと掴み、まじまじと顔を覗き込んできた。
こうして樊紅晶が半狂乱に陥ると、決まってその男の名を口にする。
泣きながら縋りついたり、怒鳴りながら罵倒を繰り返したり、時には恋うような笑を浮かべることさえあった。
だが落霞自身は、その烏霄威という男に会ったことすらないのだ。
そもそも、何者なのかも知らなければ、母とどんな因縁があったのかさえわからない。
けれど、そんな男の幻影にとり憑かれて、壊れていく母の姿だけは、物心ついたときからかれこれずっと見続けてきた。
掴まれた肩にぞわりと悪寒が這い、不快感に全身が強張る。それでも負けじと、樊紅晶の濁りきった目を睨み返してこう言った。
「違うよ。あんたの言ってるそいつじゃないってば」
声が震えていたのは怒りのせいか、恐怖のせいか、それとも、もっと別の何かか。
昔は、ただ怯えて泣くことしかできなかったのに、いまは睨み返して、言い返すくらいはできる。
こんな反発でも、多少は強くなったってことなのかもしれないと内心で思った。
「いい加減にしてくれない? あたしは烏霄威なんかじゃない……その汚い手、どけてくれるかな」
すると樊紅晶の動きがすんと止まり、その目が怒りと狂気の色でぎらりと光った。
──どうやら言葉は通じたようだが、それが逆効果だったことを次の瞬間に思い知らされる。
目の前の樊紅晶は額に青筋を浮かべ、濁った息を荒く吐きながら、今度は落霞の首筋めがけて一気に掴みかかってきたのだ!
「ちがッ、母さん、落霞だよ! もうやめて、正気に戻って!」
必死に抵抗して押しのけた拍子に、樊紅晶の身体はどさりと板張りの床へ倒れ込んだ。
そのまま動かなくなったかに見えたが「ギギ...」と軋むような音を立てて、床に伏せた顔がゆっくりと持ち上がる。
そして、鬼のごとき形相で落霞を睨み上げた。
その視線に、背筋がひやりと凍る。
倒れた樊紅晶のすぐ脇に火鉢があるのを見た瞬間、落霞の脳裏に嫌な予感が走ったのだ。
(まずい──)
だが、それに気付いているのは落霞だけではなかった。
暴走した樊紅晶が、そんな『武器』を見逃すわけがない。
次の瞬間、素手で火鉢へと手を突っ込み、赤々と燻る炭を鷲掴みにした。
「母さん!やめてッ!」
恐怖と焦りで思わず叫んだが、呼号したところで止まるはずもないのは落霞自身が一番よく分かっていた。
樊紅晶は腕を振りかぶり、その手に握った炭を、落霞へと容赦なく投げつけた!
「──熱ッ!」
咄嗟に腕で顔を庇ったが、投げられた炭の欠片が肩をかすめ、焼けるような痛みに思わず肩を押さえた。
ごろんと床に転がった炭の塊は、火の粉をぱちぱちと弾けさせながら視界の端で赤く燻っている。
だが今はそんなものに気を取られている余裕などどこにもない。
「烏霄威を......どこにやった!!」
そう叫んだ樊紅晶は、まるで蛇が跳ね起きるように身を起こし、またもや落霞へ襲いかかってきた。
再び両手が喉を掴み、先ほどとは比べ物にならないほどの力で締めつけられる。
(……苦しい、痛い、離して……)
首根っこを絞める爪が喉に食い込み、ひと息ごとに潰されていくようだった。
西陽に照らされた樊紅晶の顔は、なおさら化け物のように浮かび上がり、笑っているのか泣いているのか判別もつかない表情で金切り声を上げ続ける。
「この穢れ者ッ……っ!妾腹のくせにッ……私を妾みたいに見下しやがって……ッ!」
何を言っているのか、落霞にはもう分からなかった。
いや、樊紅晶がこうなってしまえば、もはや理解など到底できるわけもない。
「烏霄威は私を愛しているッ! 最初に抱かれたのは、私だったんだよ……!」
血走った目を剥きながら叫ぶ樊紅晶の瞳には、もはや落霞の姿など映っておらず、そこに映っているのは、記憶の底で歪みきった『烏霄威』という男の幻影だった。
ほんの一瞬、そんなものを哀れんだ自分が心底バカだったと思う。
何が哀れだ。哀れなのは、こんな理不尽に命まで握られてる、こっちの方じゃないか!
そんなふうに心の中で怒鳴り返していた矢先、案の定、またしても喉を締め上げる両手に、ぐっと力が込められた。
「お前さえいなけりゃあの人は、私のもとに戻ってきたのに! なのにお前が、私の“女”としての価値を奪ったんだッ! 霄威を惑わせたッ! 返せッ! 私の……私の烏霄威を返せぇッ!! 烏霄威はどこにいる! 答えろ穢れ者ッ!」
そう叫ぶなり、樊紅晶は掴んでいた落霞の首根っこを、ぐいっと引き寄せたかと思うと、すぐさま力任せに左右へと激しく揺さぶった。
(ああ......これは、さすがにまずいかもしれない)
そのまま身体ごと引きずられ、今度はいきなり背中からゴンッと柱に叩きつけられた。
後頭部に激痛が走り、意識がぐらりと揺らぐ。
指先から、さぁっと感覚が引いていくのがわかった。
暴力を振るわれること自体は、今に始まったことじゃない。
けれどそれが、恐怖に変わったのはいつからだっただろう?
そしていつから、本当に殺されるかもしれないと思うようになったのか?
薄れゆく意識の中で、落霞は自分に言い聞かせた。
(冗談じゃない。こんな女に殺されてたまるか!)
「ぎりっ」と歯を食いしばると、最後の力を振り絞って腕を持ち上げ、家の外を指して言った。
「──烏霄威なら……! さっき、街にッ!」
会ったこともない男の名。
だがこの時ばかりは、それに縋るしかなかったのだ。
息も絶え絶えに、咄嗟についた嘘だった。
(頼む引っかかれ、今だけでいい!)
ほんの僅かでも樊紅晶が理性を保っていたなら、
「どうして会ったことのないお前に烏霄威がわかったんだ」とでも問い詰められ、こんな嘘はたちまち見破られていたに違いない。
それでも、落霞は賭けた。
生に執着があったわけでも、命が惜しかったわけでもない。
ただ、自身の最期をこの女の手で迎えるなんて、虫唾が走るにもほどがある。
落霞は祈るような気持ちで戸口を指し続けた。
(お前にだけは殺されてたまるか! せめて死に方くらい、自分で選ばせてもらう! ほら、さっさとその手を放せッ!)
その指先をしばらく睨みつけた樊紅晶は、目を爛々とさせながら戸口のほうへとゆっくり首を回した。
その瞬間、彼女の髪の隙間から覗いた赤石の耳飾りが、白蛇の目のように不気味な光を放っていた。
やがて、喉を締めつけていた手の力がすうっと抜け、押さえつけられていた身体が支えを失う。
落霞はそのまま冷たい板の間に、ズドンと音を立てて崩れ落ちた。
「ゴホッ、ゲホッ……!」
激しく咳き込みながら必死に呼吸を取り戻し、視線を上げてみると目の前には、男の名を呪詛のように繰り返しながら、よろめく足取りで去っていく母の背があった。
「霄威……やっと会えた……霄威……今行くわ霄威……」
(もうどうしようもないな。あれが母親だなんて、笑える)
横たわったまま、落霞はただその背を痴れるように見つめていた。
嘘にすがった自分もどうかしているが、それにしたって、樊紅晶の壊れっぷりには、毎度のことながら驚かされてばかりだ。
……とはいえ、今回は本当に終わりかと思った。
見え透いた嘘が、奇跡みたいに効いたのは、運が良かったとしか言いようがない。
疲労で放心していた落霞は、情けないやら、安堵するやらで、最後はなぜだか笑いが込み上げてくるのだった。
やがて、焼け焦げた炭の匂いだけが残る中、視界がふっと傾き暗闇に飲み込まれていった。
どれほど気を失っていただろうか。
目を開けると陽はもう、とうに沈んでしまっていた。
仄暗い室内には白い息がかすかに立ちのぼり、開け放たれた戸口から凍えるような空気が吹き込んでいる。
(うう......寒い)
ぼんやりとその寒さに身を任せていると──
ゴン、ゴン、ガンッ!
戸板を乱暴に叩く音とともに男の怒鳴り声がした。
「おい、寝てんのか! 起きろ!ったく、気味の悪い娘だな……あんたんとこのイかれた母親が、またやらかしたぞ!」
現れたのは近所に住む男で、吐き捨てるような勢いで言葉を重ねてくる。
「おい、聞いてんのか! 起きろって言ってんだろ!」
ずかずかと家に上がり込んできた男に乱暴に腕を掴まれ、力任せに引き起こされる。
落霞は、まだ半分夢の中にいるような顔で男を見上げた。
「ちょ、え……ちょっと、なに……?」
「ちょっとなにだと? 寝ぼけてんじゃねえ、今がどんな状況か、まったくわかってねえな! 役人連中がてめぇを呼んでんだ! さっさと来い!
そのまま着物の裾を引きずりながら外へと引っ張られたが、寝起きの頭では、状況がまるで飲み込めない。
男は苛立ちを隠そうともせず、早口でまくし立てた。
「樊紅晶が通りで松明振り回した挙げ句、火が移って大騒ぎだってのに! なに呑気に寝てんだ!
それにあの女、意味の分からねぇことを叫びながら、止めに入ったやつらをぶっ叩いてよ……何人も吹っ飛ばしやがった」
どうやら、相当にまずい事態が起きているらしい。
男の荒々しい口ぶりと険しい態度が、それを物語っていた。
けれど、この時の落霞にとっては薄着のまま外へ放り出されたせいで、夜の冷気が肌を鋭く刺してくるほど寒い、ということと、懸命に動かす手足が縺れそうになるのをなんとか堪える、ただそれだけに精一杯だった。
そんな事はよそに、男は構うことなく荒い足取りで引っ張り続ける。
「まったくあいつはバケモンかよ! 女将軍だったって話は本当だったんだな! しまいには屯兵の剣までぶん獲って、そのまま数人斬り倒したんだぞ」
「うそ、でしょ……?」
落霞の頭の中で何かが軋む音がした。
樊紅晶は、確かに正気を失っていた。けれど──
(だめだ、だめだ、絶対にだめだ! あいつに剣なんて握らせたらおしまいだ!)
樊紅晶は、腐ってもかつては前線に立ち、兵を率いた将である。
無論、ただの酔狂な娼婦や、落ちぶれた妓女とはわけが違う。
正気を失っていようと関係ない。剣を握らせれば、本能だけで斬るには十分な腕がある。
そうとなれば、誰彼構わず見境なく斬りつけるのは当然の成り行きだ。
そもそも樊紅晶にとって、兵の一人や二人など、的のひとつに過ぎないし、下手をすれば剣の勘を取り戻すための踏み台、よもや肩慣らしの相手にすらなりかねない。
心臓の鼓動が速くなるたびに、落霞の頭の中では樊紅晶の顔と『剣を振るった』という言葉がぐるぐると回っていた。
「……ねえ、どこまで連れていくの?」
声を絞り出すように問うと、男は振り返り怒鳴った。
「屯所だよ、屯所! 馬鹿野郎!! お前もただで済むと思うなよ、しっかりしやがれ!」
肩を揺さぶられながら、落霞はずるずると引きずられるように歩を進めた。
(屯所ということは......まさかそこに烏霄威がいるとでも思ったのか?)
「あのさ......樊紅晶は、どうなったの」
本気でそれが知りたくて聞いたわけじゃない。
けれど、胸の奥でざわつく何かに背を押されるように、気づけば声が漏れていた。
すると男は、一度鼻を鳴らして、うんざりしたように返す。
「止めに入ったえらいさんと斬り合いになって──」
「まって、それってどこの!? まさか殺したの!?」
男は立ち止まり、顎で前方をしゃくった。
「ああもう、見りゃわかる! とっとと行け、あそこに転がってんのがそうだよッ」
そこには夜の寒さも忘れ、集まる人だかりと、薄く雪に覆われた地面にべったりと赤黒い染みが広がっていた。
落霞が足をすくませながらも一歩ずつそこへ近づいてみると、視界に飛び込んできたのは思わず目を覆いたくなるような惨状だった。
こんなものを見ているというのに、がくがくと震える足で、それでも自分がまともに立っていられることが、不思議でならなかった。
(これは冗談か? 悪い夢か? それとも誰かが仕掛けた悪趣味な嘘か?)
「ふざけんな、どこで死んだふりしてんだよ……」
目の奥は確かに、血に濡れた死体を見ているというのに、落霞の脳は、それを現実として受け入れようとしなかった。
理解が追いつかないまま、気づけば何かがぷつりと切れたように、わけのわからない笑いが込み上げてくる。
「ははっ……はは……ねえ、起きなよ? なんの真似だよ……ねえ……」
その得体の知れない笑いは、やがて怒りへと姿を変えていった。
(これからどうなると思ってるんだッ! お前がこんなことして、誰がどうすんだよッ!)
「穢れ者が来てやったんだけど......起きろよッ!!」
落霞は、ぶつけどころのない怒りを、そのまま地面へと思いきり叩きつけた。
それが母に向けられたものだったのか、それとも、どうしようもない現実から逃げ出したいという衝動だったのか、自分でもわからないまま、とにかく体が勝手に動いていた。
ハッとして空を仰いだその瞬間、見慣れたはずの景色が、まるで墨を流したかのように色を失って見えた。
毫も、世界そのものが色を無くしたわけではあるまい。
見ている当事者の心が絶望し、色のない現実を映し出すようになっただけだろう。
それでも落霞の目には、騒ぎに群がる野次馬も、多安の町も、しんしんと降る雪も、何もかもすべてが無機質な灰色にしか映らなかった。
そして次第に押し寄せてきた理解の波に、心が真っ先に知覚したのは、足元に横たわる樊紅晶の亡骸が、もはや「人の形」をしていないということだった。
剣で何度も貫かれた衣は血でべっとりと染まり、もとの色なんてわかりやしない。
袖口から覗く腕に至っては、皮膚を裂かれ、肉を抉られ、白い骨までもがむき出しになっていた。
紅潮と黄ばみでまだらになった顔は異様な色をしているのに、どこか笑っているようにさえ見えた。
けれどそれは、絶叫の果てに裂けた唇が引き攣られ、紫色に変わった舌が無様に垂れ下がっていたからに過ぎない。
樊紅晶の見るもあさましい最期に胃の底からせり上がるものが口を突いて飛び出す。
「お゛ぇ……っ、げほっ……ごぼっ……!」
(──どうして、どうして、こんなことになるんだよ)
空っぽな問いだけが胸に響いては消えていくなか、あの男の名前が脳裏を彷徨っていた。
(烏霄威、呼ばれ続けていたというのに、結局一度も現れなかったな。
こんな最期を迎えるほど、二人のあいだに何があったというんだ?
そもそも本当にそんな男がこの世のどこかに存在していたのか?)
樊紅晶の一生は、くだらないにもほどがあるだろう。
一人の男に執着し続け、代わりに娘を痛めつけることで日々を繋いできた。
そして最期は、自分自身を見失い、何ひとつ報われないまま終わったのだ。
そもそも、この結末は、最初から決まっていたのかもしれない。
ただ、それが訪れたのが落霞が十七歳を迎えた、この年の今日であって、所詮それだけのことだったのだろう。
降りしきる雪の下、野次馬たちは口々に好き勝手を叫び、誰もが面白半分で、樊紅晶の死をただの見世物へと貶めていた。
そのさまを見つめながら、落霞は小さく口を開いた。
「お前らさ……他人の不幸で冬を暖めないでくれる?」
誰に向けるともないその呟きは、雪に紛れて消えていく。
そしてもうひとつ吐き捨てるように言った。
「ねぇ、世界......あのさ、これが、“愛”ってやつだったの?」
誰にも届かないほどの小さな声で言い残した落霞はゆっくりと、樊紅晶の亡骸から目をそらした。
♦︎
第二幕 花落何思
樊紅晶の亡骸に雪が積もっていく間にも野次馬は膨れ上がり、ほどなくして大勢の屯兵たちが駆けつけた。
気づけば、落霞は取り囲まれ、腕を掴まれ、まるで共犯者でもあるかのようにその場から連行されていった。
(はぁ......騒ぎを起こしたのは私じゃないのにな)
当然、そんな当たり前のことすら誰も信じようとしなかった。
落霞が牢へと放り込まれた際、「調べが済むまで」と言い放ったのは、按察使の副官を名乗る男だった。
あまりにも高位な肩書の者が、なぜ多安にいるのかと訝しく思っていた矢先──
その副官から聞かされたのは、あの狂乱の最中、樊紅晶が斬った相手の中に、朝廷から偶然視察に来ていた按察使本人がいたという事実であった。
落霞は溜息をつきながら、頭をぐしゃぐしゃとかきむしる。
(あーあ……めんどくさ。死罪か、よくて流刑ってとこかな)
もうどう転んでも、元の生活には戻れない。
だったらせめて、面倒ごとの一つや二つ、ぶちまけてやってもいいだろう。
そんな開き直りの境地で、落霞は牢の格子越しに言ってやった。
「その“えらいさん”って、女に斬られるくらい弱かったんだね」
副官は面倒くさそうにあしらう。
「そんな口がきけるのも今のうちだ。 余裕ぶってられるうちに好きなだけ言っとけ」
落霞は悪びれた様子もなく、むしろ楽しげに言葉を重ねる。
「ふーん? 女に殺されたなんて、しめしつかないね。 腰の剣、抜き方わかんなかったんじゃないの? はは、はははっ」
副官が眉をひそめ、何かを言いかけてやめた。
どうせあの樊紅晶の娘だ、こいつに何を言っても無駄だとでも思ったのだろう。
それから数日の間、多安鎮の役人どもが入れ代わり立ち代わり現れては、あれやこれやと、普段の暮らしぶりから、当日の出来事まで、根掘り葉掘りと尋ねてきた。
『多安鎮に居を構えたのは、いったい何年前からだ?』
『樊紅晶が、あんな凶行に及んだことに何か心当たりは?』
『“烏霄威”という名を何度も口にしていたが何者だ!』
そんな問いを延々と繰り返され、落霞は次第に答える気力すら奪われていった。
かれこれ何日ここにいるだろうか?なんて考えることすら面倒になっていた頃、聞き慣れたものとは違う靴音が、石の床をコツ、コツと叩いて近づいてきた。
牢の前に立ったのはふたりの男で、落霞にはどちらも見覚えのない顔だった。
格子越しに、ぼんやりと顔を上げてみると、
深い紫の官服を纏った、品のある年配の男が立っていた。
その立ち居振る舞いは穏やかだったが、牢番たちの露骨なまでの畏まりようを見るに、この人物がかなりの重職にあることは間違いないだろう。
その大官の隣には、剣の柄に肘を乗せて気怠げに立つ異様な風貌の男がいた。
高貴な黒装束に、肩から上等な黒毛皮を羽織っている。片目を仮面で覆っていて素顔はよくわからないが、そこから覗く浅黒い肌が、上等な装束とどこかちぐはぐに映った。
仮面の男をしばらく見つめていた落霞だったが、何者なのか見当もつかず首を傾げた。
(爺さんのほうは、いかにも朝廷からのお出ましって感じだけど……。
隣の仮面野郎は? 身なりからして貴族にも見えなくはないけど、殺気立ってるのは気のせいかな)
大官は落霞と一瞬だけ目を合わせたが、すぐに仮面の男に話しかけた。
「本当に来るとは思わなんだよ。あの件のあと、姿を消しただろう?」
そう呟くと、手を軽く払って見張りに下がるよう合図を送り、人払いが済んだのを確認してから、少し声を落として続けた。
「またお前絡みで問題が起きたとあっては、こちらも立場がない。
なんにせよ、ここへ現れたということは、この娘のこと引き受けてくれるんだろうな?烏邪刳」
落霞はその名を聞いた瞬間思わず総毛立った。
(……う、じゃく? 烏邪刳って……あの烏邪刳将軍なのか!?)
それは、この多安鎮を、わずかな兵で制圧し、嘉衡の旗を打ち立てた猛将の名だ!
誰もがその武功に畏敬の念を抱き、英雄とまで讃えた人物である。
だがしかし、その名声も地に堕ちることとなる。
英雄は一転して、「殺戮将軍」と呼ばれ、恐怖の象徴へと変貌を遂げたのだ。
どんな事情があったのか定かではないが、彼は命令に背き、独断で出兵した挙げ句、民をも巻き込むほどの過剰な殲滅戦を引き起こしたという。
この一件により烏邪刳将軍は軍規違反の咎で処され、ついには国を追われた。
しかも、噂というものはいつだって尾鰭がつくもので。
「女や子どもすら見境なく殺した」とか、「怨みを買えば、自国の者であろうと村ごと焼き払われる」とか、そんな噂話が、今もなお殺戮将軍の異名とともに民のあいだで囁かれ続けている。
そして今。
あろうことか、大官が目の前の仮面の男を、烏邪刳と呼んだのだ!
落霞は二人の話しに目を剥き、牢の格子ににじり寄る。すると仮面の男が口元をわずかに歪め、話しだした。
「はっ、あんたに立場がない? 俺を追い詰めておいて、『引き受けてくれるんだろう』だと? 笑かすな。
来るしかないように仕向けておいて、選ばせてやったつもりか……白璃君?」
「なあに、来るも来ないもお前の自由だったろ? あと、その呼び名はやめてくれ。今の私にとって、過ぎた名だ」
「へぇ、そうか。 なら今は天下の刑部尚書様か? えらく出世したもんだな千仲連」
そう言われた千仲連は、至極めんどくさそうに長い息を吐いた。
牢の中から問答を見ていた落霞は、思わず目をぱちくりさせる。
(烏邪刳将軍の次は、刑部尚書だって? どんな顔ぶれだよ! 按察使が巻き込まれたからって、国の中枢まで出張ってくるのはさすがに話が大きすぎるような......)
いくら世情に疎い落霞とはいえ、三省六部の名前くらいは知っている。
その頂点に立つ官僚のひとりが、よりにもよってこの騒動の渦中に現れるなど常軌を逸していると思った。
「話は短く済ませよう、烏邪刳。この娘を連れていくのか、否か」
「そうじゃなきゃ今度こそ俺を始末する気だろう?
それとも、名軍師殿は俺をまだ使える駒とでもお考えか──」
「まったく、質問に質問で返すな……。私はただ、状況を整えただけさ。選ぶのはいつだって君だよ」
烏邪刳が、落霞へ一瞥を送り、またすぐに千仲連へと視線を戻した。
「──あの時、俺の鎖を外したつもりか知らんが、首輪はつけたまま。 “選べた”と錯覚させておいて、道は一つ。
ふん、見事な誘導だな。
白璃君、お前の掌の上にいるってことぐらい、とうにわかってる。 連れていくさ」
「だからその名で呼ばないでくれと、何度言えば......」
さっきから“白璃君”と呼ばれるたび、眉を八の字にする千仲連に、烏邪刳は、淡々と話し続ける。
「このまま"烏霄威"が何者かって話になりゃ、俺は否応なく朝廷に引きずり出されて、大理寺あたりで詮議されることになる。
兵部に御史台、噂好きの三省──
誰かが余計な口を利けば、王様のお耳に届くのも時間の問題だろう。
そうなりゃ、刑部の机に収まる仕事じゃ済まなくなる。
──もっとも、俺の放逐の件まで蒸し返されるとあんたも面倒だってわけだ。
ならこうして、内々で済ませようってのが落としどころなんだろ?」
千仲連が、パン、パン、と手を二、三度叩きながら言う。
「ご明察。話が早くて助かるよ。 ではこの娘は君に一任するとしよう。
こちらとしては不関不聞ということでね。
事件そのものは、私の職権で早々に処理しておくが、按察司の殺害はそうだな......
副官をひとり昇格させておけば、表向きは整うだろう」
そう言いながら、懐から牢の鍵を取り出し、錠前に差し込む。
「いやほんとね、こんな歳になって、わざわざ末端の調書なんぞ扱うくらいなら、孫の相手でもしてる方がよっぽど建設的ってもんだ」
千仲連が錠前をカチリと外しながら烏邪刳を見やる。
「余生くらいは、家族と平穏に過ごしたいんだよ。 今回は、そのために動いたまでだ。私はね」
それを聞いていた落霞の頭の片隅に、樊紅晶の顔が浮かんだ──
それを思い出すだけで、胸がざらりとした嫌悪に包まれ、すぐにかぶりを振った。
ずいぶんと、ご立派な話だ。家族も、守りたい誰かも、落霞には何ひとつないというのに。
それでも千仲連の言葉は、どこか胸の奥に引っかかるものがあり、ほんの少しだけ、羨ましいとすら思ってしまった。
(ふーん……誰かのために動く、か。私には、無縁の言葉だな)
──ギィ……
錆びた牢の扉が、音を立てて開いた。
「お嬢さん、長居させたね。入牢留置は本日をもって解除だ。さ、出なさい」
「えっ、あ、あの……ど、どうも……」
どこか抜けたその反応に、隣にいた烏邪刳が鼻で笑った。
「命拾いしたとでも思っているのか? 状況が分かってないようだな」
仮面の下から、じろりと鋭い視線を投げつけて続ける。
「按察使が斬られたってな。 まあ、そこの老ぼれには、さぞ頭の痛い話だろうよ。俺には関係ないがな」
と、一瞬わざとらしく千仲連へ視線を向けた。
「だが、烏霄威なんて名を口にした阿呆のおかげで、こうして俺の耳にまで届いちまった。
しかも知らん顔したガキが、のうのうと生きてやがるとはな……癪に障るにも程がある。
だから勘違いするな、ここから先は、“俺の面倒ごと“だ」
吐き捨てるような言葉に、落霞は数歩下がった背を壁に預けながら、じいっと目の前の烏邪刳を見上げた。
(ふぅん、“俺の面倒ごと”、ねぇ。
さっきの二人のやりとりを聞く限り、本来なら刑部で処理されて、あたしなんてとっくに片付けられてたはずの案件に、“殺戮将軍”のご登場。
しかも、自ら回収に来るくらいには“わけあり”ってことか。
となると、余計にさっきから引っかかるのは......)
「烏霄威ってのは、あんたと何の関係があるわけ? なんでそんなに、癪に障るの?」
落霞の問いに、一瞬、牢内の時間が止まったような沈黙が流れる。
仮面の下から鋭い眼差しが彼女をねめつけるように光り、答えは返ってこなかったが、微かに笑ったような声がした。
(やっぱり、こいつは何かを隠してる!)
烏邪刳はこの場に現れてからずっと、どこか肝心な部分を濁していた。
樊紅晶の狂気と血の果てに、何があったのかを知っているのはまず間違いないだろう。
そして、千仲連はおそらくそれを察している。
いや、すでに全てを知っていて、その上で沈黙しているのかもしれない。
だが、どこまでを把握しているのかは読めなかった。
しかし“烏”という名が、また一つ現れた。それは偶然にしてはできすぎている。
落霞は、自分の親戚について語られたことは一度もなく、父の名も、祖父母の顔すらも思い浮かばない。
もし、この場に彼女以外の者がいたとしても、きっと同じ結論に至っただろう。
(烏邪刳──この男は、“身内”だ。おそらくは、叔父にあたる存在か?)
まさか自分の血縁に、かの殺戮将軍がいたとは、誰がそんな絵図を望んだというのか。
けれど、もうなにもかもどうでもよかった。
状況の重さに頭を抱えるよりも、くだらない冗談の一つでも口にしていたほうが、よほど気が楽だと落霞は笑って言った。
「ねぇ叔父さん、せめて……最後の晩餐くらい付き合ってくれるんだよね? へへ……ははっ」
何気なく放った一言に、千仲連の目が僅かに泳いだような気もしたが、はぐらかすようにくつくつと笑ってみせた。
「いやはや、そこまで勘が働くとはね。君は、なかなか頭の回る子だ……
それに、最後の晩餐なんて物騒な話じゃないよ。
少なくとも私が知る限り、烏邪刳は、噂ほど非情な男じゃないからね」
落霞と千仲連の会話を横で聞いていた烏邪刳は、剣の柄を指先でトン、トンと執拗に叩いていた。
会話に割って入るつもりはないらしいが、「無駄口はそのくらいにしておけ」と言いたいのは、火を見るより明らかだった。
♦︎
千仲連が「城門まで同行する」と言ったあと、落霞は烏邪刳とともに連れられ、ようやく衙門牢を出た。
その途端、迎えたのは、どんよりとした午後の空と、頬を刺すような冷たい北風だった。
さらに牢門をくぐったところでふと振り返ると、重々しく掲げられた「多安監牢」の扁額が落霞の視界に映り込む。
(連れてこられた時には、こんなのに目を向ける余裕などなかったな。 まあ、立派な牢でしたこと)
内心そんなことを思い、再び二人の後をついて行くのだった。
向かった先は、多安鎮の北側にある城門で、普段はあまり使われることのない控えの門だ。
千仲連の話によれば、人目を避け、北門から町を抜けさせる段取りになっているらしい。
落霞にしてみれば、この町に良い思い出など、ひとつもない。
それでも、まさか自分が故郷を離れることになるとは。
しかも、よりによって、こんな形でだなんて。
住み慣れた……いや、見慣れただけの景色かもしれない。
そんな町並みをぼんやりと眺めながら、城門が見えてきたころで役人らしき二人とすれ違った。
偉そうにふんぞり返っていたのが、多安の鎮主。その隣にいたのは、あの嫌味たらしい按察司の副官だ。
二人は千仲連に向かって、深々と「ご苦労様です」と頭を下げていたが、烏邪刳には鋭く冷たい視線を投げかけていた。
落霞は心の中でひっそりと皮肉を並べながら通り過ぎていく。
(ご自慢の領地が騒ぎになって、さぞ迷惑だったんだろうね。ん? なに? こっちチラチラ見て……もしかして、謝ってほしいとか思ってんの?)
(副官のほうはっていうと。 はは、手柄がうやむやになってムカついてる顔か。
でもまあ、近々昇格なんだっけ? よかったじゃん、報われて)
やがて堀のように一段低くなった先の石橋を渡り、三人は城門の外まで進んで行った。
簡素な駐馬棚の脇に控えていた門兵が烏邪刳に手渡したのは、がっしりとした肩と太い脚を備えた、他の馬とはどこか趣の違う軍馬だった。
するともう一頭、栗毛の馬が連れてこられた。
見る限り、穏やかな顔立ちにくりくりとした瞳をしていて、額には白い流星模様があるようだ。
落霞がその様子を眺めていると、すでに馬に跨っていた烏邪刳が言い放つ。
「そいつはお前のだ、使え。 馬くらい乗れるのは知っている」
手綱を受け取った落霞は、栗毛の馬をしげしげと眺めて首をかしげた。
「ねぇ、この子って名前あるの?」
脈絡のない問いに、顎髭をいじりながら笑って返したのは、千仲連だった。
「ああ、私が手配したんだ。名があるのかまでは分からないが返さなくていい。 出所祝い、ってやつかな」
落霞は馬の首をポンポンと二度叩いた。
馬をいただけるのはありがたいけれど、よくよく考えてみればこの先、自分はどうなるのだろうか。
ふと現実に引き戻されるような感覚に、視線が曇る。
そんな落霞を横目に、烏邪刳は手綱を捌きながらぶっきらぼうに言った。
「ついて来い、行き先は決まっている。 ぼさっとしてると殺すぞ」
その一言にやれやれ、と落霞は頭をかいた。
物騒な話だが、樊紅晶のように理由もなく殺意を向けてくる相手と比べれば、「殺す」と宣言してくれるほうが、よほど親切に思えてしまうのだから不思議なものだ。
(はいはい、大人しくついて行けば殺されはしないってことなのか? まあ、もし殺すってんなら、ひとおもいにお願いしたいとこだけどね)
そんなことを思いながら、落霞が馬に足をかけようとしたそのとき。
「おい、待てーっ!」
背後から、門兵のひとりが声を張り上げたかと思えば、それと同時に「ワンワンワンッ!」というけたたましい鳴き声が響き渡る。
振り向くと、門の影から飛び出してきたのは真っ黒な犬で、落霞と栗毛の馬のもとまで一直線に駆け寄ってくると、ぴたりと前足を揃えて座り込んだ。
さらに、馬上の落霞をじっと見上げるように、黒い瞳を輝かせながら、前足をこまねいて何かを訴えている。
間をおかず、額に汗をにじませながら後を追ってきた門兵が深々と頭を下げる。
「し、失礼いたしました! そいつ、勝手について来てしまったようで!」
門兵の話によるとこの黒犬は、栗毛の馬が使っていた馬房に、いつの間にか現れて住みついていたのだという。
それを聞いた千仲連が、感心したように「ふん」と頷き、顎髭を撫でながら語り出した。
「黒犬ってのはな、昔から吉兆とされてるんだよ。
災いを喰ってくれる、だの、病を追い払う、だの……民間の言い伝えは様々だ」
落霞と黒犬を見比べて、にやにやと笑いながら話しを続ける。
「それに、黒犬の方から人に懐いてくる時は、良縁の前触れだとか……ま、そういうのを信じるかどうかは君しだいだがね」
真偽不明の民間伝承か何だか、と落霞は半ば流しつつも、ひとまず馬から降り、ちょこんと座っている黒犬を「よっと」と声を漏らして抱え上げてやった。
「あの......念のため聞いとくけど」
待ちぼうけを食らっている烏邪刳に、やや気を使いつつ声をかける。
「目的地ってさ、犬、飼ってもいいとこなの? 願掛けってことで、連れて行ってもいいかな? あ、一応.....ほら...犬と馬は食べられるし」
最後の一言に抱えられていた黒犬が、びくっと震えた気がした。
尋ねられた烏邪刳はというと、面倒くさそうに舌打ちしただけで、否定も肯定もしない。
要は、どうでもいいと思ってるのだろう。
(ま、最悪、世話できない場所だったら馬は売ればいいか。 この犬も利口そうだ、引き取り手くらい見つかるでしょ)
そんなふうに適当なことを考えながら、犬を抱えたまま再び馬に跨った。
不思議なことに、犬は暴れるどころか、すっぽりと腕の中に収まり、じっとしている。何にせよ馬のほうもまるで気にしていない様子だった。
「寒いから、あったかくてちょうどいいや」
そう呟き犬の頭をやさしく撫でながら、ぼんやりと思いを巡らせていたのは、この子達の名前をどうしようか?ということだった。
気づけば、母の死も、この先どうなるのかも、このときは自然と頭の片隅に追いやられていた。
びゅうう......と北風が吹き抜ける。
その音に押されるように、千仲連は一歩退き、拱手を送っていた。
「お嬢さん、この先、諦めて投げ出すんじゃなくて、前に進んでから手放しなさい。
順其自然は、そのあとにしか来ないものだよ」
思いもよらぬ丁寧な見送りに、落霞は少しだけ目をしばたたいた。
刑部尚書でもあろう人間が、自分たちのような者に礼を送るなど、ありえないことだろう。
烏邪刳はといえば、無言のまま軽く一礼するだけだった。
それを見た落霞もあえて、あっけらかんと振る舞ってみた。
「はは……なにそれ? よくわかんないや。年寄りの知恵ってやつ?
まっ、行くよ……大官さんも頑張って、じゃあね」
曇天の下、落霞の髪が風に踊り、二頭の馬はまっすぐに多安の果てへと走っていった。
♦︎
云霄流転 終
──あの冬を最後に、落霞は多安鎮から姿を消した。
数日かけて馬を走らせ、たどり着いたのは嘉衡の国境を越えた先、中原と北方の境に程近い、翠天山という山域だった。
そこには、夏になると避暑地として賑わいを見せるという宿館、翠嶺客館が建っている。
しかし、訪れたこの時の季節は冬。
吹きすさぶ風は容赦なく、一歩踏み出すたびに膝まで雪に埋もれるほどで、多安鎮の冬など比較にならない白銀の世界が広がっていた。
そこで初めて、ここが樊紅晶の実家だと知らされた。
館主を名乗った男は樊紅晶の弟で、つまり落霞にとって、母方の叔父にあたる人物である。
しかしながら、突然現れた姪を決して快く思っている様子はなく、一番わかりやすく「気に食わない」と顔に書いていたのは、その妻と娘たちだった。
とはいえ、客館の離れにある打ち棄てられたようなボロ小屋ではあったが、住まいは与えられ、なんと働けば給金すら出るというのだ。
口では威圧ばかりだった烏邪刳が、まるで別人のように物事を運んでいたことに、落霞は少なからず驚かされた。
ついには思っていたよりも、ずっと、随分と、マシな結末だったと言えるだろう。
けれど──出立を前に、烏邪刳が語ったとある昔話は、それ以上に驚くべき内容だった。
かつて隣国に、女だてらに剣を執り、軍功を重ね、数百の兵を率いた将がいたという。
戦に敗れ、剣も領地も部下もすべてを失い、捕虜となった彼女は、自ら命を絶とうとした。
だが、彼女を捕らえた敵将はそれを止めた。
『死ぬ前に、一度くらい女として生きてみたらどうだ』
それが本気だったのか、戯れだったのかは、当人らにしかわからない。
一人の女として扱われるうちに、彼女は戦うことも、名を掲げることもない日々を過ごしたのだった。
そんな戦乱の片隅で芽生えた泡沫の縁は、やがてすれ違い、潰えていった。
不本意にも彼女は子を宿すこととなったが、男が戻ることは、ついぞなかったという。
言うまでもなく、女の名は樊紅晶。
そして、男は烏霄威と名乗った。
──生きることにしがみつく者ほど、突然の別れに心を砕かれるのかもしれない。
そうやって愛と憎しみに呑まれていった樊紅晶の顛末を知ったとき、落霞はひとつの考えに至った。
もしあれが、罪悪感に向き合おうとすればするほど壊れていった心だったのだとしたら──
それは裏を返せば、本来はとても愛情深い人だった、ということにならないだろうか。
だとすれば、あの人をただ“母性のない、頭のおかしな女”と断じるのは、あまりに安易すぎる気がした。
誰かの生の余熱が、胸に焼きつくようなそれを、「往く者の痕」そう呼ぶのかもしれない。
さて、そうなると最後に気になるのは、やはり、例の男、烏霄威のことだろう。
落霞は烏邪刳の背を見送りながら、せめてもの一言を口にした。
それが正しかったのか、間違いだったのかはわからない。
「……ありがとね」
こんなときは、たとえ形ばかりでもこの一言が、なにかの意味を持つ気がしたのだ。
謂れのない感謝に、烏邪刳は小さく舌打ちを鳴らすと、雪の中をそのまま歩き去っていった。
そして、肩越しに──
「もう気づいてるんだろ。樊紅晶が呼んだ名──あれは、俺の諱だ」
往痕編・完
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