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崇徳天皇に逢はむとぞ思ふ⑨

悲運の天皇、怨霊となった天皇として
現代まで語り継がれている崇徳天皇。

三年間かけて書いた写経を
「呪詛の込められた写経」だとして
朝廷から送り返され
爪や髪を伸ばし夜叉、天狗の姿となり
都に帰ることなく讃岐の地にて
46歳で亡くなられました。

その生涯は辛いことばかりだったのか。
本当に怨霊となられたのだろうか。
わたしはそこに疑問を感じています。

崇徳天皇には4人の奥さまがいらっしゃいました。

中宮藤原聖子(皇嘉門院)(1122年 - 1181年) - 藤原忠通長女
・宮人:兵衛佐局 - 法印信縁の娘、源行宗養女
 第一皇子:重仁親王(1140年 - 1162年)
・宮人:三河権守 - 源師経の娘
 第五皇子:覚恵(元性)(1151年 - 1184年)
・宮人:烏丸局

wikipediaより

中宮である皇嘉門院との間にはお子さまはいなかったそうですが
とても仲が良かったそうです。
しかし、兵衛佐局との間にお子さまが生まれたことを、皇嘉門院と父である忠通は良く思っていなかったようです。
保元の乱では、忠通と崇徳天皇は敵対する立場となります。
皇嘉門院は崇徳天皇の配流後、出家されています。

鳥羽上皇と美福門院得子の間に生まれた
體仁親王(のちの近衛天皇)を養子に迎え入れた崇徳天皇と皇嘉門院。
皇嘉門院は體仁親王を熱心に教育されたようです。
近衛天皇即位後は皇太后となられています。

その頃から崇徳天皇の御心は兵衛佐局に移っていったようです。
崇徳天皇の第一皇子となったお子さまの重仁親王は、
鳥羽上皇と美福門院の養子となり
平忠盛の妻、池禅尼が乳母となりました。
重仁親王の後見役となった忠盛は
崇徳天皇と兵衛佐局を物心両面で支えられたようです。

近衛天皇が17歳で崩御されたあと
皇位継承の最有力候補であった重仁親王ですが
周りの大人たちの策謀により皇位につくことは叶いませんでした。

兵衛佐局は崇徳天皇の讃岐への配流に同行されましたが
崇徳天皇が亡くなると都へと戻られ出家されています。

都でさまざまな事件や災害が起こり、崇徳天皇の祟りであるとされ
後白河院は崇徳院を祀る御廟を建立することにしました。
そこに納めるご神体として、崇徳天皇の愛用していた鏡を兵衛佐局が献上されたそうです。

三河権守、源師経の娘との間に生まれた
第二皇子である元性は
(Wikipediaには第五皇子となっていますが…)
重仁親王の異母弟にあたります。
仁和寺の華蔵院に入り僧となって
覚恵と名乗りました。
高野山で修行中に西行と交流があったようです。
(西行は白峯山にて崇徳天皇の怨霊と語り合ったと『雨月物語』に記されています)
崇徳天皇が舌を噛み切った血で呪いのことばを書きこんだ写経を、この元性がのちに引き受けたと言われています。

このように崇徳天皇のお妃となられた方たちは
崇徳天皇に寄り添い、
崇徳天皇と離れてからは出家されています。
恐らく崇徳天皇の霊を慰めるために出家されたのではないか…
とわたしは思うのです。
元性法印にしても、父の血経を引き受けておられますし
これらのことから崇徳天皇のお人柄が見えてくるような気がします。

瀬を早み 岩にせかるる滝川の
われてもすえに 逢はむとぞ思ふ

このような美しい歌を詠む方ですもんね。
まわりにおられた方々も
同じ思いだったのではないかと思います。

そしてもうひとりの奥さまとして挙げられている【烏丸局】ですが
この方については以前少し触れましたが
調べていくうちに不思議なつながりが見えてきましたので
これについては次回(10)にてお伝えしたいと思います。

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yuka あなたの愛をしかと受け止めます!お気持ちありがとうございます💕