三島から村上へ━━尾辻克彦 『肌ざわり』と赤瀬川原平を読む(6)「1970年、三島の首、篠山紀信〈2〉」
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1970年、三島の首②━━ニーチェ、バタイユ、三島
大塚英志は「三島由紀夫の首」でこう書いている。
いささか強引な言い方をすれば「生首」を好奇心に負けてメディアが採用することでかろうじて三島はその目的をささやかに果たし、同時にその行動の持つ意味を伝えることに成功したように思える。
大塚は、自身が小学六年生の頃に起きた〈三島事件〉の後に、朝日新聞の一面に掲載された三島の首をみたという。小学生ながらに「TVや新聞のニュースがけっして本物の死体の写真を採用しないことを経験的に悟っていた」中で、「新聞の秩序から逸脱した画像であるにも拘わらずどこか新聞の一面を飾ったその異常さをめぐる印象」をうけた。この「異常さ」は、私が前回記した週刊誌に掲載された三島の首の像をみた際の印象とも重なる。そもそも大衆や世間の意識と三島の主張や思想にはずれがあった。しかしそれとは別に大塚がいうように、その「異常さ」によって、世の中に像としての首は一定程度のインパクトを齎しただろう。
占拠した市ヶ谷駐屯地のバルコニーにおける、独演会ともいえる演説。この形式自体が演劇的であり、周到な準備の元での計算づくの行為であった。自決と介錯も事前に準備していたことは、その行為ありきで自身の主張や思想がメディア間に流通することを三島は見越していた。テロリズムや劇場型犯罪のメディアにおける波及効果や、また、自身の自決という行動の波及力には明確な自覚があったに違いない。
その結果、彼の主張や思想はメディア上に流通したが、果たして多くの国民に受け入れられたのだろうか?
大塚は、クーデター未遂事件の末の三島の首の像は「新聞の秩序を逸脱」し「その枠組みを侵犯せしめることに成功し」たという。続けて、「ぼくが三島由紀夫に好意を持つのは彼が行動によってその枠組みを打ち破ろうとしたからではない。むしろ行動に至る以前はなんとかその枠組みと折り合いをつけ妥協しうる接点を模索していた」からだと述べる。しかし、三島は「内なる「危うさ」に背を押され、行動に出る」。
三島は、事件を起こす一週間前の11月18日に文芸評論家である古林尚と対談を行ない、その中でバタイユの思想へのシンパシーとでもいえるものを語っている。
ぼくが現代ヨーロッパの思想家でいちばん親近感をもっている人がバタイユで、彼は死とエロティシズムとのもっとも深い類縁関係を説いているんです。その言うところは、禁止というものがあり、そこから解放された日常があり、日本民俗学で言えば晴れと褻というものがあって、(…)つまり現代生活というものは相対主義のなかで営まれるから、褻だけに、日常性だけになってしまった。そこからは超絶的なものが出てこない。超絶的なものがない限り、エロティシズムは存在できないんだ。
この三島の言に対して古林は、「その超絶的なものが三島さんの場合にはすぐ天皇というイメージに短絡してしまう。そしてエロティシズムはセックス抜きで観念の高みに飛翔してしまう。」と批判する。それに対して三島は、バタイユの著作(『エロスの涙』)の中に掲載されている支那の掠地の刑の写真について言及しながら反論する。
胸の肉を切り取られてアバラが出ている。ひざを切られて骨が出ている。そんなふうにやられている連中が写真では笑っているんです。(…)これはアヘンを飲まされているんですね、苦痛を回避するために。バタイユは、この刑を受ける姿にこそ、エロティシズムの真骨頂があると言っているんです。つまり、バタイユはこの世でもっとも残酷なものの極致の向こう側に、もっとも超絶的なものを見つけ出そうとして、(…)そういう行為を通して生命の全体性を回復する以外に、いまの人間は救われないんだと考えていたわけです。ぼくもバタイユに賛成です。
三島は対談においてバタイユの思想との「親近感」を語りながら、「死とエロティシズムとのもっとも深い類縁関係」を論じる。また、日常性だけになってしまった現代社会には褻的な日常に対し「超絶的なものがない限り、エロティシズムは存在しない」と語り、この「超絶的なもの」に「天皇」を想定している。そして「生命の全体性」を回復しなければ「今の人間は救われない」のだという。
三島によればバタイユは、「残酷なものの極致の向こう側に」そのような「もっとも超絶的なものを見つけ出そう」としている。一方三島の中では、バタイユの思想=理論がその死とエロティシズムへの語りや一週間後の行動にあらわされる熱量や自刃という肉体性に反比例するかのように理路整然と観念的に内面化されてもいる。インタビューを額面通りに受け取れば、大塚がいう「彼が耐え難かった枠組み」とは「褻」(け)としての「日常性」や「相対性」であり、その「外」とは「晴れ」(ハレ)としての「超絶性」、そこにおける「エロティシズム」や「絶対性」や「生命の全体性」ということになるだろう。
平野啓一郎は『三島由紀夫論』(新潮社、2023年)の中で、上記の古林との対談について言及している。
三島の、「ぼくは絶対者である天皇が必要だといつも主張しています」という対談の中での言を引きながら『太陽と鉄』の中の「絶対」と「虚無」という言葉の使用を、「ここで語られる「絶対」とは、即ち死であり、「虚無」とは「相対」的な生である」と平野は述べる。
また、「三島の基本的な戦後社会の認識は、「大義」なきニヒリズムの時代、というもので、これまで見てきた通り、「世界崩壊」の妄想は小説の主題として何度となく繰り返されてい」て、「個人の生は、天皇と死という〈絶対〉と結びついた有機的な全体から切り離されて孤立し、意味を剥奪され、実感を喪失して、方向性を失ってしまった」ことが「三島がバタイユの「非連続性」という着目した所以」だと指摘する。
平野によれば、バタイユの『エロティシズム』の議論では、「生ける存在は、他者と分割され、区別される、という意味に於いて「非連続」であ」り、「他方、人間は、死に於いては、この個体としての区別を失い、「連続性」へと移行する」。この古林との対談で、「注目すべきは、三島がエロティシズムである以上は、「体を張って、死に至るまで快楽を追求する」べきだと主張している点であり」、「この言葉は、「死にまで至る生の称揚」というバタイユのエロティシズムの定義を、直接的に想起させる」という。
四十代になった三島が、〈絶対者〉という言葉を口にする時、それが意味するのは天皇だったが、その更に以前から、彼が本質的に絶対視していたのは、二◯世紀の小説家らしく〈死〉だった。
もしここに言う「超絶的なものに触れる」という言葉を天皇ではなく死と考えるならば、それこそは、三島文学の隅から隅まで浸透している主題であり、彼がバタイユに惹かれたのも当然と思われる。「エロティシズムを復活させるために」という古林の問いも、三島自身は、孤独な「非連続」的存在である現代人に、「連続」的な共同性を恢復させるために、と受け止めたのであろう。
バタイユの日本における代表的な訳者でもある酒井健も、論考「頭部への否定」の中で〈三島事件〉について触れ、事件時に新聞で三島の首をみた記憶を皮切りに三島の諸作について分析している。その中で、大塚や平野と同様に前述の古林と三島の対談の分析を通してバタイユの思想と三島の思想の関連についても述べている(https://note.com/hup/n/n47f307e79886 )。
酒井によれば、三島が16歳時に書いた第一作である小説『花盛りの森』のラスト場面の文章と、1970年の事件当日に『新潮』の編集者に渡した『天人五衰』の最後の場面は酷似している。両者の描写からは「有から無へ、無から有へ、すべてを否定し反転させるこの世のアナーキーな摂理がここに見てとれる」。そして、「それにこだわったのが三島であり、バタイユであった」という。
この反転は、平野が指摘するところのバタイユにおける「非連続性」と「連続性」の反転と重なる。
『エロスの涙』のバタイユによれば、この写真(引用者注:三島と古林の対談における「支那の掠地の刑の写真」)を彼が初めて知ったのは1925年(バタイユ28歳)のときで、以来、彼はこの残虐な光景に取り憑かれるようになったのだが、1938年のヨーガの実践を契機に「このイメージの暴力のなかに、反転の終わりなき価値〔une valeur infinie de renversement〕を見分けるようになった」(バタイユ『エロスの涙』)と告白している。目を背そむけたくなるようなこの写真に不快や不安、さらに人道的に反感を覚えるのが人の常だろう。これは三島言うところの「ザッハリッヒ〔即物的〕」な反応なのだ。あれこれ目にみえる個物に意識がとらわれているときの人間の反応なのである。しかしバタイユ自身こう告白する。「私は、この図像の暴力から出発して、あまりに反転させられ、恍惚に達してしまったのだ」(バタイユ『エロスの涙』)。性愛の絶頂時のように彼は、非道徳的に、善悪の彼岸の喜びを体験したのである。
酒井によれば、三島のバタイユへの親近感には、彼がいうところの「具体的に今見えているものが全く別に「超絶的なもの」を指し示す点にある」。そして、「バタイユと違って三島はこの「超絶的なもの」を天皇や神と同一視」している。三島が「天皇」という「特別な存在」を持ち出すのは、「この「超絶的なもの」を行為の目的に据えているから」であり、「そのようにしてさらに「超絶的なもの」を特別な存在物とすれば、その行為は格別に素晴らしいこととして正当化される」のだという。
酒井は件の新聞掲載の首の写真について、「同日発行の夕刊の写真のインパクトについても、三島はある程度想定済みで、『エロスの涙』のあの残虐な写真がバタイユにもたらしたのと同じ効果を新聞の読者に期待していたのかもしれな」く、「あの逆光の室内の凄惨な頭部の写真から「終わりなき逆転の価値」を見分けて、即物的ではない何かを感じ取るように、善悪の彼岸に出ていくように、彼はあらかじめ夕刊の読者に迫っていたのかもしれない」と述べる。この見解は前述の大塚のものと近接しているだろう。
また、酒井が「善悪の彼岸に出て行くように」とバタイユ=三島の行動を表現するように、バタイユだけではなくニーチェの思想(ニーチェイズム)へのシンパシーが古林との対談の中では語られている。
三島はそこで、「あんなに楽しくて、心をおののかせてくれる本というのは、ほかにはありませんね」と述べながらニーチェの著作『悲劇の誕生』を挙げる。
ニーチェは『悲劇の誕生』において古代ギリシャにおけるアポロン的(一元論的・秩序的)な物差しだけではない、ギリシャ悲劇におけるディオニュソス的(バッカス神的、酩酊的・混沌的)な世界観を提示した。三島はここで、日本における「なんでも一つにしちゃう」という「相対主義」=「非連続性」の秩序的な世界に対し、ニーチェがギリシャ悲劇に見出したディオニュソス的な「連続性」をぶつける「強烈な二元論」を思考している。
三島は、「こういう世の中だからこそ、かえって強烈な二元論や、強烈な相対主義というものが一方に無ければ、絶対の主張が不可能」であり、「それがぼくの文武両道であり、ニーチェイズムであり、西欧世界なんです」と述べる。
このニーチェイズムを梃子にした日本的な「一元論」に対する「二元論」をぶつけていく思想にも、これまで確認してきた、「連続性」と「非連続性」、「有」と「無」、「相対的」と「絶対的」などの観念が内包されている。三島は戦後の日本社会に「一元論」的な「相対主義」的価値観の蔓延をみていた。それに対し、「絶対主義」的な価値観を強烈な「二元論」として立ち上げようとした、と考えられる。
しかし繰り返しもう一度問えば、日本における武士道精神や皇国思想等と、上述したようなフランス近現代思想のハイブリッドを内面化し、論理的にも一貫した、高潔かつ高踏的ともいえる事件=自決によって、果たして三島がいうところの「相対的」「日常性」の価値観の蔓延した戦後の日本の社会に、死のもつ「連続性」や、バタイユやニーチェの生と死を反転し混淆させるようなエロティシズムや「生命の全体性の回復」やディオニュソスの思想を経由した「絶対性」を、戦略的にメディアを経由させつつ、一部のスキャンダラスさという好奇な視線を超えて、日本の社会に齎すことにはたして成功したのだろうか?
三島と〈シミュレーショニズム〉①━━村上春樹『アンダーグラウンド』、またはディズニーランドにおける〈シミュレーション〉
大塚は、前述したように、この〈三島事件〉における三島の行動に対し、「新聞の秩序を逸脱」し「その枠組みを侵犯せしめることに成功し」、「その行動の持つ意味を伝えることに成功したように思える」と一定の意義は認めるが、「そのような方法でしか越境は叶わず、しかもそこまでしてもわずかに首ひとつが、彼が耐え難かった枠組みの外に脱出しうるにすぎないことを三島は多分、この時点でよくわかっていたはずである」と指摘する。大塚はバタイユやニーチェという固有名こそ出さないが、「逸脱」、「侵犯」、「越境」という言葉には、三島の影響を受けた思想も含意されているだろう。
大塚はこう続ける。
枠組みの存在を指摘し、それに命名することは易い。そしてその名前を批判することで枠組みの外に立ったような錯覚におちいる人は少なくない。たとえばそれは戦後民主主義や消費社会といった名前に置き換えることもできる。けれどもその枠組みのなんともいえないゆるやかで始末の悪い強度を正しく指摘する人は少ない。
(…)
三島の首だけが外にある。 しかしぼくたちは内側にいる。 そのことだけは忘れるべきではない。
三島はかろうじて「枠組みの外」に越えた。しかし、それに反して彼の抱え持つ「絶対性」を基点とする思想信条の事件当時の国民への影響力はそうはいかなかっただろう。三島がそこに「相対主義」や「日常性」をみた「戦後民主主義」や「消費社会」は東西冷戦終結後の21世紀を迎えた現代でも長い間、大塚のいう「ゆるやかで始末の悪い強度」を保ち続けていた。
・『日本・現代・美術』における〈閉じられた円環〉
美術評論家の椹木野衣は、
ここであらためて確認するまでもなく、「敗戦後日本民主主義の安定」とは、より巨視的に見れば、まず第一にアメリカの覇権の確立と、それに唯一拮抗しえたソ連とのあいだに繰り広げられた冷戦下の核の傘下にあって、仮想の無風状態である「抑止」ゆえに、日本が吹きさらしの「世界史」から守られていた時期であることを意味している。しかし、本質的な意味で、世界史なき「場所」にはたして美術の歴史が成立するものであるか否かは、一度は真剣に考えてみるにあたいする問いではある。
「一九九五年」以後、六◯年代の「反芸術」、七◯年代の「もの派」からの流れ、八◯年代の「ポストモダン」と並べてみれば、そこにはなにか歴史的な「展開」があったように見えるかもしれない──しかし、そこに大文字の「歴史」を見てしまうということ自体が、その人がいっそう強固に、この「閉じられた円環」に繋ぎ留められていることを意味する。じつのところわれわれはいまだに「閉じられた円環」の「彼方」であるところの歴史から本質的には切り離されており、同じ場所において同じ問題を多様に「反復」しているだけなのだ。
と、『日本・現代・美術』において指摘した。椹木が1955年以後の日本の「敗戦後日本民主主義の安定」に基づいた〈閉じられた円環〉(もしくは〈閉ざされた円環〉)における場所性を、〈悪い場所〉と名付けたことは美術評論だけでなく広汎に知られている。唐突かもしれないが、椹木によるこの〈悪い場所〉や〈閉じられた円環〉という概念は、先立っては戦後における日本(・)現代(・)美術(史)における切実な問題設定であるが、日本の戦後(史)における政治思想や言論や表現の空間性に密接に連関する論であることから鑑みれば、まさに同時代に生きた表現者である三島を考える上で参照できるのではないだろうか? 戦後の社会において大塚や椹木がいう「戦後民主主義」や「消費社会」という「内側」の〈閉じられた円環〉の中において「ゆるやかで始末の悪い強度」を保ち続けている日本という〈悪い場所〉性と、当時、もしくはそれが完成する前夜を生きた三島が批判した「非連続的」で「相対的」で「日常性」の中にある日本の社会や、彼の思想や表現の関係である。
椹木によれば〈悪い場所〉における、「「歴史」が抹消された「場所」においては、芸術も反芸術も字義通りには対立せず、ばかりか互いに相似の共犯関係とならざるをえない」。また、「だとしたらより深刻なのは、そのとき、芸術と下位文化(サブカルチュア)との関係もまた、同様にうつろな共犯関係に入らざるをえない」。そして、そのような「絶対的な価値の根拠から切り離された近代人」における「高級文化と下位文化の無媒介な交流」は、〈シミュレーショニズム〉としてあらわれる、という。椹木の『日本・現代・美術』に先立つ著書『シミュレーショニズム』においては、「本物(オリジナル)とか偽物(コピー)とかいった不毛な二元論を超え出た怪物(シミュラクル)──それを、ニーチェ流に「超人と呼んでもいい──「生成変化」させること」が提示され、「そのためにあらゆる現象が、自在に採取(サンプリング)や分断(カットアップ)、そして反復(リミックス)できる原子素までに一様に分解されること」が提案されている。
椹木は『日本・現代・美術』の中で、「「閉ざされた円環」という暴力を、さらなる暴力をもって累乗に否定的に推し開こうとするものではない。そうではなく、この円環それ自体が巨大な暴力であり、それに対するには暴力をもってしても無意味であるということ」と指摘し、「われわれの「現実」を一枚岩の「平和」ではなく、多種多様な生存の様式の複合的な集積として発見し、そこにおいて新しい生の在り方を「発明」していくための突破口とすること」、「「ポストモダンとしてのシミュレーショニズム」を、そのような複合的な概念として再発見すること」と「その実践」を「日本・現代・美術」 の課題である」と述べている。
『日本・現代・美術』の初出は『美術手帖』誌上での1996年7月号から翌1997年の6月号迄である。上記引用の「「閉ざされた円環」という暴力を、さらなる暴力をもって累乗に否定的に推し開こうとする」という言葉からは、その直前に起こったオウム真理教における地下鉄サリン事件(1995年3月)を含む一連の事件を想起させる。
1984年に、オウム真理教の前進団体であるオウム神仙の会を麻原彰晃(松本智津夫)は立ち上げた。教団は、戦後の日本社会において、社会の混乱や国体意識の解体、それに続く消費社会や郊外型生活にともなう共同体や伝統の解体による国民のアノミーに呼応するかのように起こっていた新(新)宗教ブームに乗るかたちで短期間で急速に発展した。しかしその後、1989年に弁護士一家殺害等を起こし、また、1990年年2月の第39回衆議院議員総選挙での真理党候補者の全員落選などを契機に国家体制への不信を募らせ、1994年6月に松本サリン事件(8人死亡)、1995年3月に国家に対するテロともみれる地下鉄サリン事件(14人死亡、6,300人負傷)を霞ヶ関に通じる路線で起こすにいたる。
オウム教団は、椹木がいうところの「「閉ざされた円環」という暴力を、さらなる暴力をもって累乗に否定的に推し開こう」としたように思える。2018年に教祖の麻原含むテロ関係者13名の死刑が執行された。
・オウム教団について
オウム教団とは一体なんだったのか?
当時のオウム教団の特徴は、猛毒であるサリン製造等にみられる高学歴の工学系、理系の信者の多さや、それにも一部関係するであろうサティアンと呼ばれる独自の建築物や化学プラントの製造、関連会社による秋葉原でのPCショップの運営、同時代のヒットアニメからの教団内での用語の引用(『宇宙戦艦ヤマト』における「コスモクリーナー」を教団開発の空気清浄機に命名する)等サブカルチャーや80年代文化との親和性がある。また、「ハルマゲドン」という宗教的な終末論だけでなく、当時のメディアを席巻していたノストラダムスの大予言といったオカルトや今でいう都市伝説的及びスピリチュアルな言説を経由した、当時の文化やメディアにおける言説の折衷としての終末思想がうかがえる。純粋に既存の正統的な宗教の教義に基づいた宗教性を追求し布教するというよりは、同時代文化を教団内に取り込むなどのポストモダン的な折衷主義により、サブカルチャーのイメージや時代的な空気感を巧みに引用し、教団外部への親和性を高めつつ、信者同士や教団内部での結束を高めていく運動がそこにはある。また、教祖や信者個人のメディアへの固有名や個性を発揮した積極的な出演や露出により、世間の広汎に渡るキャラクター性の認知やマスコミ(や宗教学関係の学者さえも)を利用した訴求力や求心力を高めていった。
オウム教団には、当時の論壇でもブームであったポストモダン的な折衷主義、いいかえれば文化やキャラクター性の模倣や引用や断片性の集積、フランスのポストモダン思想家であるボードリヤールいうところの〈シミュレーション〉と〈シミュラークル〉、椹木のいう〈シミュレーショニズム〉の概念を駆使するような教団の特質があった。
村上春樹は教団の持つこのような特質を、地下鉄サリン事件の被害者に取材したインタビュー集である『アンダーグラウンド』(講談社、1997年)の中で〈ジャンクとしての物語〉と名付けた。そして翌年には、教団の信者を取材した『約束された場所で―underground 2』(文藝春秋社)を上梓することになる。
後述するが大塚は、三島と村上とオウム教団における〈シミュラークル〉性や〈シミュレーション〉性や〈ジャンクな物語〉性への連関については「三島由紀夫論、あるいはあらかじめそこにあり、そして終わったディズニーランドについて」(『三島由紀夫論 何故自死の直前にディズニーランドに行きたかったのか』、所収)の中で、「関係を結び得ない断片と全体性を回復する装置としての中心という関係」として詳しく論じている。ここでいわれる「中心」は三島の場合は「天皇」であり、オウム教団の場合は教祖の麻原である。
やや論が迂遠になるのでまず村上に話を限定すれば、〈デタッチメント〉を作品で標榜することで日本の戦後社会や歴史性や土着性との距離をそれまで保ってきた村上が、サリン事件及び教団や被害者の関係者を取材しドキュメンタリーを書くほど深く〈コミットメント〉したのは、1979年に『風の歌を聴け』で作家としてデビューした彼自身の歩みと教団の急速な発展とその手法=「ジャンクとしての物語」の集積に同時代性を感じたからであろう。村上自身の作品は、ヴォネガット、サリンジャー、カポーティー、ブローティガンや、ペーパーバックのハードボイルドなどアメリカ文学のエッセンスや文体を取り入れ、また作中にジャズやクラシックやアメリカ文化の固有名詞を数多く散りばめるところに特徴がある。村上は戦後のアメリカニズムの日本への浸透を屈託なく作中にミックスしながら表現する。いわばアメリカニズムの〈シミュレーション〉やリミックスによる日本文学である。そんな自らの文学と、オウム教団が体現した〈ジャンクとしての物語〉との同時代性を事件を契機に考えたに違いない。
・初期村上作品におけるアメリカニズム
ここで今一度、村上の作品を振り返っておく。
村上の初期作品における、日本近現代文学で表現された土着性や土俗性からどこか解離、浮遊したその表現は、椹木いうところの戦後社会の〈閉じられた円環〉の中でいかに最適に振る舞うか、を文体として体現しているかのようにも思える。『風の歌を聴け』の群像文学新人賞受賞時の選考委員(佐々木基一・佐多稲子・島尾敏雄・丸谷才一・吉行淳之介)の選評の特徴を文芸評論家の市川真人は以下のように指摘している。
佐々木、島尾、丸谷各氏の評価には、「ポップアート的」「アメリカのどこかの町」「アメリカふうの小説」という同じ視線があり」、「吉行淳之介の評価も、“従来の日本的なそれとは隔たっている”という意味としてとれば前の三人の延長線上にあるともいえ、五人中四人がどこか共通した印象を抱いているかにすら見え」るというものである。
この市川の指摘からうかがえることは、1979年の発表時に一つの歴史的な切断がこの作品には内包されていた、ということだろう。
本作の時代設定は奇しくも三島の自決した1970年に設定されている。この三島と村上文学との断絶線は、見方を変えれば文学史的なバトンの受け渡しのようにも思える。
しかし、群像文学新人賞に引き続き芥川賞の候補ともなった際の、同作の丸谷や吉行も参加した10名の選評者へのウケは必ずしも好ましいものではなく、あえなく落選することとなる。
その中で丸谷は、「アメリカ小説の影響を受けながら自分の個性を示さうとしてゐます。」「もしこれが単なる模倣なら、文章の流れ方がこんなふうに淀みのない調子ではゆかないでせう」と評価している。また、大江健三郎は「それがアメリカ小説のたくみな模倣であり、独自の創造とは違う方向にむかっている、という点」を指摘したという。
市川は、新人賞でも芥川賞の選考でも「委員たちの言葉のいくつかも、『風の歌を聴け』をアメリカに結びつけていたはず」と指摘する(「デビューまもない村上春樹を苦しめた「ある逆風」とは?」https://www.gentosha.jp/article/13979/ )。続いて、「それらの評価はどれも、「「アメリカ的であるもの」を先行例に置き、それとの関係において善し悪しや特徴を判断しています」とも述べる。
村上のデビュー作を評価するにあたり、肯定するにせよ否定するにせよ審査員たちの中には作品を通して「アメリカの影」(加藤典洋)がちらつき続けており、それを己の文学観や歴史観、いってしまえば実存までも照らし合わせてどう評価するのかが問題視されているのだ。村上文学の当時の衝撃性はそこにあった。
・『アンダーグラウンド』と『約束された場所で』
無論、いうまでもなくこのような初期村上の文学とアメリカニズムの関係、もしくは戦後の日本におけるアメリカと日本文学の関係性や距離感に関する問いは、江藤淳(『アメリカと私』(朝日新聞社、1965年)、『成熟と喪失』(河出書房新社、1967年)や加藤典洋(『アメリカの影』(河出書房新社、1985年)『敗戦後論』(講談社、1997年)を代表するように切実な問題であり続けた。江藤の村上の作品への「読んだことがない」「論じたことがない」と暗に黙殺する態度も、村上の文壇や文学史における分断や切断線の上でのアンビバレントな立ち位置をあらわしているだろう。
戦後日本社会の〈悪い場所〉における〈閉じられた円環〉の中での振る舞いとしては、村上の社会や政治における動乱や流れと一定の距離を取った〈デタッチメント〉、またアメリカニズムの〈シミュレーション〉としての態度を基調とした表現=作品は、環境に順応し最適化した振る舞いだったのかもしれない。しかし、その〈閉じられた円環〉の中での振る舞いは必ず何かしらの暴力による破壊と内閉を反復し続けており、簡単には乗り越えられるものではない。村上の諸作をめぐる文学者たちの態度にはどこか煮え切らないものが現れているが、その不安とでもいうべきものは、必ずしも彼らの日本への土着性や思想からくるものだけではないだろう。それは村上の作品が内包する態度が持つ危うさ、故のものかもしれない。オウム教団が〈ジャンクな物語)を集積し、この〈閉じられた円環〉を破壊しようとした結果、その切先が逆に自分たちを崩壊させたことに村上自身が敏感に反応したように、だ。
これは奇妙な一致と呼べるものであるが、村上は『アンダーグラウンド』のあとがきともいえる論考「「目じるしのない悪夢」」の中で、三島の言を意識しているかは不明なところ(おそらくしていないだろう)、「相対性」と「絶対性」という言葉を用いている。「当時のマスコミの依って立つ原理の構造」が「世間の圧倒的多数の人間」による「「正義」であり「正気」であり「健常」」の「こちら側」と、麻原とオウム教団の「悪」と「狂気」と「奇形」に分けられていたことを指摘し、〈閉じられた円環〉は勿論「こちら側」の「相対性」であり、その外側である「あちら側」は後者の側の「絶対性」であり、村上によればその両者が事件時は「近接していた」という。
村上は1990年2月のオウム教団の選挙キャンペーンを目の当たりにした際に、まず「名状しがたい嫌悪感であり、理解を超えた不気味さ」をそこに感じたが、続けて、「心を乱されないわけにはいかなかった」理由を、「オウム真理教という「ものごと」が実は、私にとってまったくの他人事ではなかったからではないか」、と考える。「「こちら側」=一般市民の論理とシステムと、「あちら側」=オウム真理教の論理とシステムとは、一種の合わせ鏡的な像を共有していたのではないか」と述べる。
この村上による「こちら側=一般市民」と「あちら側=オウム真理教」の構図は〈閉じられた円環〉の中では「他人事」ではなく「合わせ鏡」としてある。「こちら側」は「あちら側」を「見ないふり」をし通り過ぎ」殺傷事件的な重大な事件が起きた後も、自分たちとは異質な「悪」や「狂気」として遠ざけいずれ忘れてしまう、というのだ。
村上が『アンダーグラウンド』や『約束された場所で』を執筆した動機の一つは、このような忘却を促す「制度=システム」に対し、一旦疑問符をかけることであった。また、「人は、物語なしに長く生きていくことはできない」。「こちら側」も「あちら側」も人々に常に物語を備給し続けている。村上は自身が「「物語」を職業的に語る人種」として、「私自身の内なるジャンクと欠損性を、ひとつひとつ切々と突き詰めていかなくてはならないだろう」と自己反省的に語る。
あなたは誰か(何か)に対して自我の一定部分を差し出し、その代価としての「物語」を受け取ってはいないだろうか? 私たちは何らかの制度=システムに対して、人格の一部を預けてしまってはいないだろうか? もしそうだとしたら、その制度はいつかあなたに向かって何らかの「狂気」を要求しないだろうか?
それら(震災とサリン)は、考えようによっては、ひとつの強大な暴力の裏と表であるということもできるかもしれない。(…)
それらはともに私たちの内部から(…)「悪夢」というかたちにをとってどっと吹き出し、同時にまた、私たちの社会システムが内包していた矛盾と弱点をおそろしいほど明確に浮き彫りにした。(…)我々はその到来を予測することもできず、前もって備えることもできなかった。そこであきらかにされたのは、私たちの属する「こちら側」のシステムの構造的な敗北であった。
(…)
言い換えれば、我々が平常時に〈共有イメージ〉として所有していた(あるいは所有していたと思っていた)想像力=物語、それらの降って湧いた凶暴な暴力性に有効に拮抗しうる価値観を提出することができなかった(…)。その時点でもできていなかったし、それから二年を経た現在でも事態はほとんど改善されていないのではないか。
『アンダーグラウンド』での被害者への取材や執筆を経過した村上の眼には、日本という国の体制=システムと国民はこのように認識されていた。この文面は、三島による1970年のクーデター未遂事件を想起させる。三島は「あちら側」の「暴力」を行使する存在である。しかし、それと同時に、村上の文学者としての認識と共有する部分を三島は持ち合わせていたようにも思える。むしろ、オウム教団による殺傷事件により村上が考えざるをえなかった反省的な意識を、形は違えども先行して思考していたのが三島ではなかったか? それ故に彼は、主体者として事件を実行した、のではなかったのでないだろうか?
しかし、三島の実行した、〈閉じられた円環〉の中での「こちら側」の「合わせ鏡」であったはずの「あちら側」の行動=「悪夢」は、「見ないふり」をし通り過ぎ」、遠ざけられ、忘れ去られ、その後も反復的に続いていくこととなる。
では、この戦後日本の〈閉じられた円環〉の中での暴力と忘却の反復を少しでもずらしながら回避していく方法はないのだろうか?
村上も勿論そのことについて思考している。それは物語をめぐるものであったことは前段で確認してきた。オウム教団はジャンクにせよ人々を惹きつける物語を持っていた故に教団は信者を多く集め成長した。しかし、その物語は後に国家体制や社会と対立することとなる。村上はそれに対して同様に読者に向かい物語を綴る小説家として自己反省的な視線を送る。
『約束された場所で』に収録された河合隼雄との対談「『アンダーグラウンド』をめぐって」の中で村上は、「麻原の用意した物語というのは結局彼のパラノイド性に汚染されていくわけですが、そのパラノイド性に対抗する有効なワクチン的物語を社会が用意できなかった」と述べる。続いて、「ただ僕はあの本(引用者注:『アンダーグラウンド』)を書いていて思ったんですが、社会そのものにはあの事件を防ぐだけの抑止的ワクチンは備わっていなかったけれど、人々の一人ひとりの語る物語の中には、やはりたしかな力を感じるんです。潜在的な力というか。そしてそれらの物語をひとつひとつ集めて積み重ねていけば、そこには何か大きな勢力が生まれるのではないかと」と語り、そこに、「希望のようなものを感じ」、「そのような個々の力をどのように社会的に顕在化していくのかということになると、まだ五里霧中」であると述べる。
村上による『アンダーグラウンド』と『約束された場所で』の二冊は確かにサリン事件の被害者である「こちら側」と加害者である教団の信者である「あちら側」のあくまでそれぞれ個人の語りや人生を「物語」として語りなおしている、という意味で、村上なりの抵抗の書物といえるだろう。しかし、個々人の物語が本人の口から語りやすくなったともいえる現代のネット社会においては、個人の物語というよりは、寧ろ反動的ともいえる大きな枠組みによる物語やそこへの帰依や依存によるSNS上での争いなども絶えないように思える。
また、河合との対談の別の箇所で村上は、「小説を書くのも宗教を追求するのも、重なり合う部分が大きい」とし、「そういう文脈で、僕は彼らの語る宗教観をある程度正確に理解できたという気がします」とした上で、しかし、「宗教的な話になると、彼らの言葉には広がりというものがな」く、「口では「別の世界」を希求しているにもかかわらず、彼らにとっての実際の世界の成立の仕方は、奇妙に単一で平板」で「あるところで広がりが止まってしまっていて」「箱ひとつ分でしか世界を見ていないところがあります」と批判的に指摘する。村上によれば人が捉える世界は入れ子のような構造になっておりそれが音楽でいう倍音のように影や深みを与えているが、彼らの世界観にはそれがみえない。
しかし、このような世界把握は本論の見方に沿えば、オウム教団特有のものというよりは、〈閉じられた円環〉における生の条件にも思える。我々はそこから脱出しようとすれば、必ず破壊の末の忘却に見舞われる。となれば、外側のない世界の中での物語の差異のゲームに参加せざるをえないのではないか?
『約束された場所で』の「あとがき」では、取材時には時間の可能な限り地下鉄サリン事件の実行犯たちの公判に村上は顔を出した、と述べる。そして、「そこで私が現実に目にしたものは、うら寂しく陰鬱な、救いのない光景だった。その法廷はいつも私に、出口のない部屋を想起させた。どこからか入ってきたはずなのに、今となっては出口がどうしてもみつからない悪夢の中の部屋を」という印象を述べている。この文章は村上らしい巧みな比喩表現による修辞だが、〈閉じられた円環〉の中で繰り返される現実こそを描写してやいまいか?
村上のアメリカニズムの〈シミュレーション〉としての文学は「日本が吹きさらしの「世界史」から守られていた時期」にこそ適応していた。一方で村上は、オウム教団のテロ事件によってその〈閉ざされた円環〉の内部での反復とそれに付随する破壊衝動のメカニズムに深く気づいたのではなかったか?
・三島とアメリカニズム
ここで三島に話が戻る。三島はその思想の表明の中で、自衛隊の立ち位置含めてアメリカニズムとの軋轢は問題視していた。しかし、〈三島事件〉時の声明文である「激」を読んでも楯の会隊長としての直接的な攻撃や苛立ちの対象は「自己欺瞞」や「自己冒涜」の最中にある自主独立出来ない国家や自衛隊(員)に向けてのものであり、「シヴィリアン・コントロール」などへの「憂国」としての言及はあれど、反米意識からくるようなアメリカを直接的に批判する言葉はない。
三島の苛立ちは国家や自衛隊を含めた自身や同志に向かい、自らの主張のために自刃した。〈閉じられた円環〉の中での国家に対する破壊的暴力の発露だとしても、オウム教団と三島の両者の間には差異があった。三島が同志と自分以外に死者を出さなかったことは、彼と国会や自衛隊への自責的態度と重なってみえる。それは三島の倫理観、とるべき思想的態度だったのではなかろうか?
三島のアメリカ(ニズム)への思いや距離感は、はたしてどういったものであっただろうか?
一つの興味深い話題がある。それは三島とディズニーランドの関係である。三島とディズニーランドの関係については大塚が前述の「三島由紀夫論〜」の中で詳しく論じている。本論が収録された書籍のタイトル『三島由紀夫論 何故自死の直前にディズニーランドに行きたかったのか』にもある通り、大塚は、三島が自決の年の初めにディズニーランドに訪れることを望んでいたことに注目する。
自決の十年前の1960年に川端康成宛の書簡、そして「美に逆らふもの」(1961年)のなかで三島はディズニーランドについて言及しているが、このそれぞれの前年に書かれた『京子の家』(新潮社、1959年)と『文化防衛論』(新潮社、1969年)は「三島のディズニーランド論としか言いようのない作品」だということを大塚は論じていく。詳細は同論考に直接当たっていただきたいが、本稿で注目するべき点は、三島自身が、村上やオウムより以前に、ボードリヤール流の〈シミュレーション〉や〈シミュラークル〉的な感覚、またアメリカニズムや〈ジャンクとしての物語〉への親和や考察を先んじていた、という指摘だろう。
三島はアメリカのディズニーランドを訪れた直後に執筆した「美にさからふもの」の中で、ディズニーランドを含むアメリカの商業美術における機能主義的なデザインなどの形式を考察し肯定的に評価している。この文章を大塚は、「六〇年に於ける三島のディズニーランド体験を直後に論じたこの一文を八〇年代のニューアカ的な流行の中に身を置いたものならまるでJ・ボードリヤールのようだ、と感じない者はいないのではないか」と述べた上で、ボードリヤールのアメリカ論である『アメリカ──砂漠よ永遠に』(田中正人訳、法政大学出版会、1988年、原著1986年)の文章を引きながら、
試しにボードリヤールのアメリカ論をこうして三島のディズニーランド論と並べた時、両者は殆ど同じことを語っているように思えてしまう。三島に「ハイパーリアリティ」や「シミュラークル」といった便利なキーワードがないだけで、三島が賛美するディズニーランド的な「極度の商業主義」の体現たる美意識とボードリヤールの言う「ハイパーリアリティ」とは、「ヨーロッパ的なモノや風景が否応なく歴史や伝統を文脈として背負うのに対し、モノがただモノとして単独で存在することによって成立するリアリティ=美であるという点で全く同一であり、仮名遣いを除けば引用した二つの文章が一つのエッセイの中にあったとしても論旨の上で破綻はない。
と指摘する。三島のこのようなアメリカニズムを「賛美」するような「ディズニーランド的な「極度の商業主義」の体現たる美意識」は一見すると彼の日本における「皇国」や「歴史」や「伝統」に依拠するような保守思想とは相容れないようにも思える。しかし、大塚も指摘するように、三島のアメリカについてやハワイや北米滞在時のエッセイ(『三島由紀夫紀行文集』(岩波書店、2018年)を読んでも江藤淳の『アメリカと私』や『成熟と喪失』のような屈託はそこにはない。江藤の論調では、終始アメリカというものと日本人である自らの間にある違和感や軋轢の感覚を軸に筆が進んでいるように思えるが、三島の滞在記には江藤のような感覚は描写されず、むしろ屈託なく乾いた冷静ともいえる観察眼による描写がそこにはある。
前述の古林との対談の中で三島は、戦後日本社会のなかに蔓延る「相対性」的日常に対して「絶対性」をぶつける必要性を説いていたことは前段で確認してきた。しかし、三島は「歴史」や「伝統」や「天皇」を語る一方で、ディズニーランドというアメリカニズムへの肯定を語る。ボードリヤールがいうところの〈シミュラークル〉や〈シミュレーション〉性、いわば「相対性」への屈託のない親和性や美意識も三島は持ち併せていたのだろうか?
対談において古林の「三島美学を完成するためには、どうしても絶対的な権威が必要だということになり」、「問題は文学的な美意識でしょう、なぜ政治的存在であるところの天皇が顔を出さなきゃダメなんですか」という問いに対し三島は、「天皇でなくても封建君主だっていいんだけれどね」と答えている。この後で「ロイヤリティの対象たり得るもの」という発言があるので、なんでも良いという意味ではなく、列島の歴史を辿った際にそこにあるのは、「戦後における天皇観をひどく嫌悪しているのは、あれはヨーロッパの制度をまねて明治になってつくられた創作品だという考え方についてですよ」という発言にある通りに、三島の中では戦後の日本では「天皇」の像が歪められている、という感覚がある。三島の「天皇観」の是非はここでは問わないが、彼がここでいいたいことは、「絶対性」が歪められた形で追いやられ「相対性」が蔓延しているとされる戦後日本の社会への批判である。バタイユの論との関連でみてきたように「美、エロティシズム、死という図式はつまり絶対者の秩序の中にしかエロティシズムは存在しない」という論の「絶対者」の位置に三島によっては象徴としての「天皇」が設定されている。「もし神がなかったら、神を復活させなければならな」く、「神の復活がなかったら、エロティシズムは成就しない」。これは一種のエロティシズム=生命論であり、戦後社会の「相対性」や「日常性」の中にはそれがないので復活せねばならない。
この三島の論を逆さにしたいい方をすれば、「相対性」の中にはエロティシズム=生命性は広く薄められてしまっている。戦後日本社会はアメリカニズムと消費社会の只中で、拡散された汎エロティシズムの生命論の中で駆動されている。
保守派の論客である西部邁は1980年代後半にこう指摘している。
かつて、欲望における共同性の次元は、宗教や道徳や倫理などによって、総じていえば慣習によって打ち固められることにより、あるていど実体的な内容をもつものとなっていた。しかし近代は、進歩主義のイデオロギーに率いられ、それらの慣習を解体しつづけてきた。その結果、欲望は個別性の次元においてのみ、つまり個人や個別集団の選好という次元でのみ実体をもつという外観を呈するようになった。こうした欲望の分化は戦後の高度大衆社会において加速的に進行し、いまや差異化こそが文化の基本だといわれるようになっている。共同のシンボル・イメージはいまや消滅したかの様子なのである。
「欲望」=エロティシズム(生命性)と考えればわかりやすい。ポストモダンにおいては「共同性の次元」はたえず「差異化」され「解体」される。「差異化」のなかでは、〈シミュレーション〉による汎エロティシズムの渦中では「共同のシンボル・イメージ」は消滅する(かのようだ)、と1980年代には当時流行していたポストモダニズムにおいてだけではなく、保守系を含む多くの論者により考えられていた。
一方、時が進み2020年代の現代社会では、「進歩主義的イデオロギー」による「慣習」の「解体」=グローバリズムは、トランプ大統領の再選に合わせるように、グローバリストやリベラリズムやディープ・ステイトによる世界支配の構造や冷戦解体後の新世界秩序(ニュー・ワールド・オーダー)と陰謀論的に語られ、それに付随して反動的ともいえるナショナリズムやポピュリズムや排外主義の台頭により、世界中で多様性(また、アフォーマティブ・アクションやLGBTQやPCや多文化主義や多文化共生や民主主義や自由主義や啓蒙主義)に基づく「相対性」は否定されつつある現代においては、政治や文化や商品経済においても宗教的にいえば「絶対性」が長い年月をかけてエスニシティだけではなくグローバル経済圏のなかでもバックラッシュとして回帰しつつあるように、「差異化」による「欲望」の汎エロティシズム化だけでは、エロティシズム=生命性を統制することはできなかったといえる。1970年に「絶対性」への回帰を主張した三島の思想はこの面でも早過ぎたともいえる。
たとえば、このような現況に対して、宗教性における「絶対性」の復権をポップカルチャーにおけるカトリック神聖性回帰の例としてのロザリア『LUX』や、アメリカにおける右派インフルエンサーの台頭、ウォーホルの作品に潜在していた宗教性を紐解く柳澤田実の評論を参照されたい。
https://realsound.jp/book/2026/02/post-2296507.html )
ロザリア『LUX』の収録曲である「Porcelana」のモチーフは日本の江戸時代の尼僧・了然である。曲の中では「美貌なんて捨ててやる 君に台無しにされる前に ヤバい奴って思うかな 持って生まれた才能なの 私はカオスの女王 だって神様が決めたこと」と突如日本語の歌詞で歌われる。タイトル名であるporcelana はスペイン語で磁器の意味であり、語源はタカラガイ(貝殻)を意味するイタリア語の porcellana (陶磁器の意でもある)に由来している。陶磁器は一般的にchina ともいわれるところからアジア系である了然尼とかけているのだろう。また、彼女は禅宗の門に入る際に美貌のために許されず自ら顔面を焼いて入門を許されたという逸話から、女性における美顔や美白と陶磁器の表面の輝き(LUX=光)を重ねて表現している。了然尼がその美しい肌を自ら焼く凄惨なシーンは歌川国貞により浮世絵「古今名婦伝 了然尼」(画帳『豊国錦絵集』、1864年)にもなっている。絵における了然尼が右頬を差し出す様子は、いみじくも『LUX』のロザリアが修道女のような衣裳を召したジャケット写真と重なる構図となっている。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:NDL-DC_1304218-Utagawa_Kunisada-%E5%8F%A4%E4%BB%8A%E5%90%8D%E5%A9%A6%E4%BC%9D_%E4%BA%86%E7%84%B6%E5%B0%BC-%E5%85%83%E6%B2%BB1-crd.jpg
ここまで筆を進めてきたわたしたちには、楽曲「Porcelana」において「美貌なんて捨ててやる」と自らの陶器のように美しい顔に傷をつけ「サクリファイス(犠牲)」としての聖性に身を投じる「カオスの女王」了然尼=ロザリアのニーチェにおけるディオニュソス的な「狂気」に見做されかねない行動や表現と、三島における「絶対性」における聖性=エロティシズムを〈あちら側〉に見いだす態度と行動が、長い年月を超越して、どこか捩れながらも重なっているようにみえる。
しかし一方で、ロザリア自身は現代におけるグローバル資本主義や消費社会のど真ん中に位置するアーティストであり、聖性という一なる「絶対性」を直接的に信仰し希求するというよりは、西部いうところの「共同のシンボル・イメージ」をナショナリズムやイデオロギーとして一つに統合するのではなく、世界中の多様な女性の聖人たちにアイコンとしての自らの身体を曲毎に次々に憑依=〈シミュレーション〉=横断させていくことによってそれぞれの文化として「差異化」しながら分化を保ちつつ、かつ拡散する戦略をとっている。
(ロザリア本人の「Porcelana」と了然尼の関係への言及の詳細についてはApple Musicによるインタビュー「ROSALÍA: The LUX Interview | The Zane Lowe Interview」にも直接当たっていただきたい。)
〈シミュレーション〉における「相対性」や「絶対性」にもさまざまな形態がある。
それでは、三島と親和性があるとされるディズニーランドにおいての〈シミュレーション〉や「相対性」とは一体どういったものなのだろうか?
それについて、映像研究家 Murderous Ink によるウォルト・ディズニーが構想した街であるセレブレーションからアメリカにおける〈ニュー・アーバニズム〉について検討した論考「こんな町で育ちたかった」 ( https://www.kinomachina.blog/2021/03/celebration/ )を参考にしながら、以下に考えていきたい。
セレブレーションとは「フロリダ州オーランドのディズニー・ワールドリゾートから車ですぐのところにある人口7,000人余りの町」である。「まるで、映画のセットのような風景が続き、ゆったりとしたコミュニティに子どもたちの声が響」いている「ウォルト・ディズニーのヴィジョンが詰まった町」だ。
ウォルト・ディズニーは1960年代にフロリダで土地を買い集めて、実験的な理想郷を作ろうと計画していた。彼の死後に計画は進み、1990年代に実際にセレブレーションの町が完成することとなる。セレブレーションはディズニーランドと同様に、ウォルトの理想や思想が詰まった現実の町である。
下記サイトによればセレブレーションという町は、「フロリダ州オーランド市の南西に位置し、ウォルト・ディズニー・ワールドリゾートの南側に接する住宅地。この街は、隣人とのコミュニケーションを大切にし、交通事故や犯罪発生を抑え、家族が安心して暮らせるだけでなく、ショッピングや豊かな自然までもが楽しめるように計画され」た。また、「セレブレーションは1940年代のアメリカ南東部のノスタルジーを感じさせる古き良きアメリカを、現代に作り出そうとして設計されました。このため、住宅はマスターアーキテクトが設計したガイドラインに沿って、建築様式や色などが厳密に決められてい」るという。この説明からすれば、セレブレーションは〈シミュレーション〉された街といえる。
https://www2.panasonic.biz/jp/solution/fujisawa/ecotown/florida.html
Murderous Ink が注目するのは、セレブレーションというウォルトが実現しようとした、ノスタルジーを感じさせる「古き良きアメリカ」、「隣人とのコミュニケーション」や「交通事故」や「犯罪」に対しての安全性を考慮した理想郷として「計画され」たこの町の、「1980年代からアメリカで急速にモーメンタムを獲得し始めた《ニュー・アーバニズム》の成果としての側面」である。
ニュー・アーバニズムとは、第二次世界大戦後のアメリカ国民の生活空間が、《郊外の無軌道な拡大/スプロール化》とともに様々な問題を抱えるようになったことへの危機感から生まれた新しい都市開発の哲学とその実践を指す。地域コミュニティは多様性に富んだ機能や住民構成から成っており、移動手段は自動車のみならず、歩行者にも配慮され、公共の空間や施設が町の空間を形作る ─── 都市空間は、地域の歴史や気候、エコロジー、建築慣習などを尊重した建築・空間設計に基づくべきだ、という思想である。
〈ニュー・アーバニズム〉においてはコミュニティの機能や住民構成における「多様性」や、地域の「歴史」や「気候」、「エコロジー」や「建築慣習」などへの尊重が重視される。セレブレーションという町はウォルトの思想を元にして「アメリカの小さな町」の「古き良きアメリカ」を参考にしている。同様に〈ニュー・アーバニズム〉でも、「郊外開発が進む前のアメリカの小さな町をコミュニティ設計の下敷きとしている」。
ウォルトが幼少期の数年間を過ごし、「生涯アメリカの理想とした町」ミズーリ州マーセリンは、「歩いていける距離に生活圏がすべておさまり、自動車を必要としない町。穏やかな中心に公共の場があり、その周辺に多様な設計の住宅が広がっている。まさしく《ニュー・アーバニズム》のヴィジョンそのもののような町」であった。両者には戦前の「古き良きアメリカ」の小さな町の〈シミュレーション〉として重なり合う部分がある。そして〈ニュー・アーバニズム〉の思想を下敷きとして「生まれた町は、創造性に富み、住民の生活の質を変えるものとして注目を浴び」ることとなる。
しかし、アメリカの戦後における〈郊外化〉には、「有色人種が都市部の生活圏に流入してきたことを嫌った白人が、外縁に逃げ出して新しい生活圏を創造した。それが郊外である」といった側面があるように、「ニュー・アーバニズムの哲学は、無秩序な拡大、自動車依存、無軌道なエネルギー消費、デザインのコモディティ化といった《郊外》の病に対する《反郊外》であったのだが、実際に町として実現されてみると、住民の多様化という《郊外》に対する《反郊外》でもあった」。
〈郊外〉の「相対性」を嫌う住民は価値観の一律な「絶対性」的な側面を持つ〈反郊外〉を築いていく。一方、ウォルトの理想や思想に基づいて開発されたセレブレーションの町も同様に、「もともと、人口比率も人種・エスニシティを考慮して「多様性」をもたせたものにするつもりだった。しかし、2000年には人口の88%、2020年には91%が白人という結果になった」。
〈郊外〉化に対する〈反郊外〉化を推し進めていく過程には、人種的な分断が常に付き纏ってくるのだ。ここには住民によるナショナリズムの意識を見出すこともできるだろう。
また、「古き良きアメリカ」の町を理想として作られた〈シミュレーション〉としての〈反郊外〉にはMurderous Ink が批判的に検討するように、「《郊外のスプロール化》という言葉で、自分たちの「新しい都市開発の思想」から《郊外》を切り離して取り除いていく。《戦前のアメリカの小さな町》を理想として、《戦前の都市部のスラム》、《南部の小作人たちの部落》、《ゴールドラッシュで湧いた町》を記憶から消し去っていく」。それは、個別の土地の成り立ちや記憶や歴史や、それぞれの異なる環境や経済下での歴史化されなかった生活が隠された上で成り立っている空間ということだ。
話を戻せば、三島がディズニーランドに注目したことには、その〈ポストモダン〉性や〈シミュレーション〉の「相対性」の空間から、セレブレーションに宿っていたような、「書き割り」によって仮構されたノスタルジーとしての郷土性に宿る「絶対性」を希求する意識をどこかで感じとっていたからではないだろうか?
村上のデビュー作である『風の歌を聴け』は「アメリカのどこかの町」と選者に評された。村上は〈シミュレーション〉された小説空間、いい変えれば〈閉じられた円環〉の中の更に仮構された空間で、社会に対する〈デタッチメント〉を繰り返していたが、のちにオウム教団によるサリン事件後には社会に対する〈コミットメント〉に転向することになる。三島はディズニーランドの〈シミュレーション〉空間への親和性を語りつつも、同時にニーチェやバタイユの思想を経由しながら〈三島事件〉を起こすことにより、〈閉じられた円環〉から外側へ出ようとした。という意味で、〈アメリカニズム〉における「古き良きアメリカ」の郷土性を巡って両者は文学者や表現者として捻れながらも反復していた、ともいえるのだろう。
三島と〈シミュレーショニズム〉②━━篠山紀信『三島由紀夫の家』を読む
前段では村上や三島における〈シミュレーション〉性や〈アメリカニズム〉との距離や関係性について考えてきた。「相対性」による〈シミュレーション〉性がポストモダンな社会に浸透する中でも、それが進展していくにつれ、「絶対性」に集約されるような運動が俄かに始まる。現代社会ではグローバル化の進展に伴う歴史的な反動ともいえるが国家単位でもそのような回帰的な運動が起こりつつある。
大塚は「三島由紀夫論〜」の中で、三島の最晩年の代表的論考である『文化防衛論』(新潮社、1969年)における「日本文化は、本来オリジナルとコピーの弁別を持たぬこと」という日本文化論・天皇論を引きながら、ボードリヤールの言説や〈シミュレーション〉やディズニーランドと三島の思想や著作の内実の親和性を指摘していく。
石の文化の西欧文化に対し、木の文化である日本列島では建築物は一定の歳月で素材自体は入れ替わっていく。伊勢神宮の式年遷宮における社の建て替えにおける造営では、一定の年月を経て必ず新たにされたコピーこそが真正のものとして扱わる。三島曰く、「いつも新たに建てられた伊勢神宮がオリジナルなのであつて、オリジナルはその時点においてコピーにオリジナルの生命を託して滅びてゆき、コピー自体がオリジナルになるのであ」り、その上に「時間的連続性と空間的連続性の座標軸」としての「天皇」が存在する。このような「天皇」を軸とした「絶対性」や「全体性」の回復が望まれる。
大塚は三島の論とボードリヤールのアメリカ論における「起源の消去」という共通の発想を指摘する。大塚はそこに、「三島の言説があまりに早過ぎた消費社会論であったことに七〇年に於ける彼の悲劇の根拠の一つを見出しても良い気さえする」という。
根拠はそもそも〈シミュレーション〉され世界に遍在している。いってしまえばあらゆるアイデンティティの礎となる根拠に我々は直接的に触れることができない。それは伝達された記号的な情報ともいえるし、その歳月が長く続く程に内容も変化し続け中心となる軸は強固なものとなっていく。いずれそれは人種や民族や伝統や慣習や道徳や信仰や宗教と呼ばれるものとなり、「絶対性」の根拠として人々の中で生き続けていく。ナショナリズムとはその典型的なものであろう。
「古き良き」ものや「座標軸」となるものを常に想定すること。それを自らの依って立つ場としなければ、我々はえてして生きる根拠を失ってしまう。
勿論、自分はそうではない、と自信を持っていう人々もいるだろう。しかし、そういった人々も、普段は特に意識せずとも、従来のそれこそ共同体における伝統的な価値観以外の何かしらの信じるべきことやものを持っているに違いない。それは趣味や、勉学、仕事や、家族や、恋人や、友人や、資本主義が供給するコンテンツか、インフルエンサーや推しへの支持か、政治的な主義主張か、絶え間なき理想の追求か、様々な形態をとっている。「相対性」に基づくポストモダンにおける〈シミュレーショニズム〉は「差異化」に基づきその根拠を矢継ぎ早に備給し続けている、ともいえるだろう。
一方で、ネットの時代になり、〈シミュレーション〉に基づく「差異化」により、一層の細分化が為されると同時に、寧ろ情報の縮減化が起こり、プロパガンダのように根拠が一定の方向性で集約されていく、分断や二極化のような現況もある。このような世界各国で隆盛する状況は〈トライバリズム〉( tribalism、政治的部族主義 )
と呼ばれる。
社会学者の渡辺靖によれば、
トライバリズムとは、ここでは人種や民族、宗教、ジェンダー、教育、所得、世代、地域などの差異に沿って、各自が自らの集団の中に閉じこもることを指す。それだけなら目新しくないが、最近の問題は自らの部族を「被害者」「犠牲者」と見なし、他の部族を制圧しようとする点にある。ソーシャルメディアがこうした傾向を助長している。
政治的指導者は国民融和を目指すのではなく、特定の部族(=支持基盤)の利益のみを重んじ、抗う部族を徹底的に敵視する。そのためには、専門家の知見をものともせず、然るべき手続きや不文律も軽んじ、そのことを「強い指導者」の証として誇示する。対外的にも同じで、多国間主義を疎んじ、自国第一主義を鼓舞する。
という。〈トライバリズム〉への傾向は2024年のアメリカでのトランプ大統領の再選以後、日本を含めより世界中でますます強まり、拡大しているように思える。
また、自国第一を「強い指導者」の元に掲げる国家単位の〈トライバリズム〉だけではなく、ネット社会ではより細分化された部族=クラスタの〈ジャンクな物語〉への依存や信仰も併存として拡がりつつあるのかもしれない。その中でも、今や世界の思想潮流の覇権を握りつつあるテック起業家・ピーター・ティールがその思想の軸として援用するルネ・ジラールの提唱した〈「模倣の欲望」理論〉のように、特定のトライブやクラスタに対し「悲劇的」な「被害者」の物語、ナラティブを語ることによって、同タイプの支持者の模倣を欲望させインフルエンサーとしての空洞化に耐えられない人々の受け皿として支持を集めるタイプの物語の利用は、いってみればオウム教団や、村上が自覚したような〈ジャンクな物語〉やナラティブの濫用化による〈閉ざされた円環〉での反復に近づいていくだろう。
というよりは、大小の物語の復興という傾向が世界的に再帰しているともいえる。
前回の連載の繰り返しになるが、三島や西部が持ち出した伝統へ向かう意識に、「古き良き」ものや伝統や慣習への憧憬や志向があったとすれば、同じように集約的に国家や伝統や全体性への回帰を掲げたとしても、現況のナショナリズムやそれから派生している〈トライバリズム〉や〈「模倣の欲望」理論〉に基づく政治思想や資本主義におけるインフルエンサーの振る舞いの内実には、少なからずの意識のズレを感じたのではないだろうか?
いや、もしくは全く反対に、彼ら自身が時流に乗り「強い指導者」として「差異化」された部族=クラスタのカリスマとなっていただろうか?
今更だが取り急ぎ書き加えれば、行動や発言や作品にその傾向がなかったとまではいわないが、本論考では三島を、「悲劇的」な「犠牲者」と位置付け、「物語る」ことにより「神格化」するつもりはない。そのことはお断りしておきたい。
・篠山紀信『三島由紀夫の家』を読む
篠山紀信『三島由紀夫の家』(美術出版社、1995年)という本がある。いわずと知れた戦後日本でもっとも有名といえる写真家・篠山紀信による三島の自らの設計思想やコンセプトを元に建設され住んでいた家(1959年竣工)を写した写真集である。
もっとも篠山によって撮影されたのは1995年のことなので、ところどころ往時の写真は挿入されているにせよ、主なものは三島が1970年に亡くなった後に撮影されたものである。主人なき後の家具や調度品や三島の私物、また庭や家屋も保全されていたようだ。
そして、この写真集を眺めていると、これまで検討してきたような三島における「古き良き」ものへの憧憬や〈シミュレーション〉への意識を感じる。
けれども、それはいわゆる日本における伝統的な木造の平家造りの日本家屋やもしくは、戦後の郊外化によって失われた、としばしいわれるような家郷や古里や、またはウォルトにおけるセレブレーションの町、といったような「古き良き」単一の共同体や郷土性への回帰のイメージとは異なるものである。
冒頭からパラパラとページを捲ってみると、まずは外観から始まるのだが、洋風の瀟洒な白亜の邸宅といった趣である。
高い金属の門扉の先の正面壁には闘牛の様子を描いた彩色陶板画が飾られている。続いて、園庭がみえ、その先にバルコニーを二階部分に据えた背の高い円形破風窓の並んだモダンな造りの三階建ての本邸が姿をみせる。
竣工当時の写真だろうか、バルコニーで半袖のシャツから逞ましい二の腕を剥き出し、がっしりと鉄柵を掴んだ、ありし日の三島がこちらをじっと観察するようにみつめる白黒写真が挿入される。
庭園にはオレンジの木が植わり、自らデザインしたというスフィンクスの肘掛けをあしらった石のベンチや植栽用の甕、モザイクによる円状の黄道十二宮を象る床の中央の台座の上で、白亜の逞しき肉体を誇示する大きな彫像が、反対にポーチや邸宅をみすえている。
家の中に入ると、内装も完全に欧風趣味であり、吹き抜けの応接間に置かれた家具や絵画やシャンデリアはどれも異国を思わせる趣きである。写真集の巻末に添えられた篠田達美の論考「三島由紀夫の家」に、三島による家の設計の「コンセプト」が引用されている。
私は生来、明るい地中海文化が好きで、ラテン的な色彩を愛し、さらに中南米(ラテン・アメリカ)の植民地建築に心酔して、その熱帯の色彩美とメランコリーを日本に移植しようと志し、スペイン植民地風の家を建て、その中をフランス骨董やスペイン骨董で飾り立てた。
家具類は家内と二人で足を棒にしてマドリッドの骨董屋をあさって歩き、スパニッシュ・バロックの豪宕な装飾美に熱中した。……
大体私は、熱帯好きでもあるし、北方風なキチンとしたお洒落はきらひである。できるなら一年中裸でゐたいのだが、それもならず、庭の中央にイタリーから持ってきて据えた大理石のアポロ像が、春夏秋冬、まっ裸で外気にさらされてゐる姿をうらやむばかりだ。
美的生活と云っても、十九世紀のデカダンのやうな、教養と官能に疲れた憂欝で病的な美的生活は、私はまっぴら御免である。
大塚は「三島由紀夫論〜」の中で、「フランス骨董やスペイン骨董で飾り立てた」「スペイン植民地風」に〈シミュレーション〉された三島邸の、伝統や文脈から切り離された物と物が三島という中心によって統合された状態を、「関係を結び得ない断片と全体性を回復する装置としての中心という関係」と指摘する。式年遷宮において建物が常に更新されコピーされ、オリジナルを欠いた状態が天皇という象徴に統合されることと同様だ、という理解だろう。確かにそれは一理はある。
敷衍して考えてみよう。例えば、現在の京都では寺社仏閣や御所などは、建築様式や行事や管理などにおいて文化的・伝統的な形態が一定程度は保たれている。しかし、街並みにおいてはコンクリートのビルが建ち並び、建築の様式自体もいわゆる碁盤の目に沿う木造の町屋だけではなく近現代の様々な様式に満ちている。このような光景は、伝統や歴史を重んじる立場からはその街並みはチグハグでバラバラであり、線的に連綿と継続した歴史性を感じないものにみえる。一方で、生まれた時からその環境に馴染んでいるものからすれば、その状況や、都市が急速にスクラップ&ビルドが繰り返される光景こそが、自らの故郷の風景だと感じているかもしれない。
ここで日本列島における建築論や文化論を展開するつもりはないが、明治維新以降の開国により、文化や歴史に紐づいた様々な様式自体が解体されていったことは確かだろう。現代のグローバル経済下において日本の会社員の多くはスーツを着ていて、和服を着て会社勤めをしている人は稀だろう。わたしたちは衣服のことを洋服(洋式の服の略)と違和感なく呼ぶが、この言葉遣いひとつとっても、いかに普段から文化や言葉が混交したり解体されていることを無意識的にでも忘却しているかがわかる。
一方で、急速な文化や生活様式の変化は、伝統や歴史の軽視や忘却として人々の心性において反発の材料にもなる。現代おける反グローバリズムの波もその大きな一例だろう。それは、世界中でアイデンティティの不安が広がっていることの理由でもあるだろう。
ポストモダン社会に近づくにつれ、実際の物のグローバルな流通過程にせよ、ネットを通じた記号の交換にせよ、それらはスピードとしても急速かつ、価値観や文化としても多様化する反面、急速なそれはバックラッシュを生むということだ。
そのようなバラバラの価値や物が併存する際においてのアイデンティティ不安に対し、それらを統合する一つのものを求める心性はあらわれるだろうし、それは安易には否定出来ない。
三島の場合は、1970年の時点で日本においてその位置を象徴的にあらわすのは「天皇」である、という立場を提示した。それは確かにそうなのだ。
しかし、『三島由紀夫の家』にはまたそれとは異なった観点から捉えられる三島の一貫した思想の核となる「美学」的意識が感じられるのではないだろうか?
それは、「太陽」と「海」である。
初めにいえば、記紀神話におけるアマテラスの話をしようとしているのではない。三島は引用した家の設計のコンセプトを解説した文のなかで、自分の好みは、「明るい地中海文化」、「ラテン的色彩」、「熱帯」、「色彩美」、「裸」、「大理石」といった、所謂日本の伝統と呼ばれるものからかなり距離のあるものを挙げている。これは、三島の中の思想や日本への意識の矛盾云々、というよりは、もっと素直な心性や美的感覚や美学意識をストレートに表しているのだろう、と捉えてみる。そして、それこそ、いままで検討してきた、三島の中の「エロティシズム」=生命論の問題と恐らくは密接に関わるのだ。
この三島における「太陽」、三島における「海」という題材自体は、小説では短編「海と夕焼け」、「真夏の死」、長編『潮騒』、絶筆である『豊饒の海』など、エッセイや論考では『太陽と鉄』など、多数の主題であり、文学研究や三島研究、また考察や批評としては基礎といえるだろう。しかし、本稿においては『三島由紀夫の家』とともに今一度、検討に値すると思われる。
三島の家自体は篠山の撮る写真からは、白色を基調としたものであり、庭のイタリアのローマから運んできたという大理石のアポロ(アポロン)像を含み、「明るい地中海文化」を基調としていることは一見して確認できる。
ここで注目するべきはアポロンの像であろう。
アポロン(アポローン)とは、いわずと知れたギリシャ神話におけるゼウスの息子であり、古代ギリシャにおけるオリュンポスの十二神の一柱とされる代表的な神である。アポロンは音楽、芸能、医術、弓矢、などを司る。紀元前六世紀頃から植民地経由でギリシャからローマへ神話が伝わり、ローマ古来の神々がギリシャ神話の神々と同一視されるようになる。アポロン神も例に違わず伝わり、その光明神的な性格からローマ時代にはヘーリオス(太陽神)と混同され同一視されるようになった。
簡単にいえば、三島がローマから持ってきたアポロン像には、ギリシャ神話経由での太陽の神としての象徴性があるのだ。

2世紀の作、作者不詳。高さ2.24mの大理石像。紀元前4世紀頃の古代ギリシャ・アテナイ出身の彫刻家であるレオカラスの作の模作。15世紀にローマ近郊アンツィオで発掘されたとされる。発掘された際は右腕の下半分と左手が欠けていたのをミケランジェロの弟子の彫刻家、ジョヴァンニ・アンジェロ・モンソーリ(c.1507-1563)が修復した。1511年にローマ市内のバチカン(現・バチカン市国)のサン・ピエトロ大聖堂の北の夏の別荘の中庭のベルヴェデーレに置かれたことから、「ベルヴェデーレのアポロン」と呼ばれる。ギリシア神話の蛇の怪物、ピュートーンに弓を放った瞬間である。庭園で「ラオコーン」と並ぶバチカンにおける代表的な彫刻であり、現代では観光客が途絶えない。1952年に三島もバチカン美術館を訪れている。(筆者撮影)
希臘人は美の不死を信じた。かれらは完全な人体の美を石に刻んだ。日本人は美の不死を信じたかどうか疑問である。かれらは具体的な美が、肉体のように滅びる日を慮って、いつも死の空寂の形象を真似たのである。
ギリシャの彫刻は神々を形取っている。神々は完璧な美を体現し、そのヴァルター・ベンヤミンがいうところの「模像」、コピーこそが自然としての人体である。
アポロンという若い裸体の男神はその象徴でもある。三島の庭におけるアポロンの像は、ギリシャからローマへの文化や宗教の混淆と「模像」の末にたどり着いた、太陽の神である。だから、「できるなら一年中裸でゐたい」三島にとって、「それもならず、庭の中央にイタリーから持ってきて据えた大理石のアポロ像が、春夏秋冬、まっ裸で外気にさらされてゐる姿をうらやむばかり」なのだ。
そこにあるのは、太陽の下での晒された「裸」という「絶対性」=エロティシズムという神的な生命力の発露である。
神々は像として、その「裸」体は「模像」され、コピーされ〈シミュレーション〉され続けていく。
篠山の『三島由紀夫の家』の裏表紙では、この三島の庭の中央に屹立した白亜のアポロンの裸の臀部が太陽に照らされ、その堂々とした肉体美が活写されている。
日本人が敗戦のおかげで、性的偏見からかなり自由になったのは愉快なことと云わねばならない。
(…)日米両国は、若さの崇拝において、よく似ている。
三島は1952年にバチカン美術館を訪れた際に、アンティノウスの像に魅せられている。
アンティノウスとは、2世紀にローマ皇帝ハドリアヌスに寵愛された十代の美青年である。若くしてナイル川で謎の死を遂げ、悲嘆した皇帝により神格化された。後に多くの彫像など芸術品の題材となる。
今日ヴァチカン美術館を訪れて、私はアンティノウスのその一つは胸像であり、その一つは古代埃及の装いをした全身像である、(…)二つの美しい彫像に魅せられてしまい、他のさまざまな部屋の名画を見ていても、心はアンティノウスのほうへ行っているので、全体としてはヴァチカンの見物は、甚だ収穫の乏しいものに終わってしまった。
このうら若いアビシニア人は、極めて短い生涯のうちに、奴隷から神にまで陞ったのであったが、それは智力でも才能のためでもなく、ただ疇いない外面の美しさのためであり、彼はこの移ろいやすいものを損なうことなく、自殺と過失ともつかぬふしぎな動機によって、ナイルに溺れるにいたるのである。

(筆者撮影)
三島はアンティノウス像のその美貌に魅せられながらも、その生涯の影に潜む暗さ=思想にも目を向ける。
一説には厭世自殺ともいわれているその死を思うと、私には目前の彫像の、かくも若々しく、かくも完全で、かくも香わしく、かくも健やかな肉体のどこかに、云いがたい暗い思想がひそむにいたった経路を、医師のような情熱を以て想像せずにいられない。ともするとその少年の容貌と肉体が日光のように輝かしかったので、それだけ濃い影が踵に沿うて従っただけことなのかもしれない。
余程その姿に惚れ込んだのだろう、三島は別の日に、再度この美青年・アンティノウスの像をみにバチカン美術館を訪れている。
今日私はアンティノウスに別れを告げるために、再度ヴァチカンを訪れた。(…)
パレストリアで見出されたこの立像は、バッカス神に扮したアンティノウスであるが、その表情や姿態には、バッカスらしい闊達さや、飄逸さはなく、やや傾けた首はうつむきがちで、彼自身の不吉な運命を予感しているようである。
アンティノウスの像には、必ず青春の憂鬱がひそんでおり、その眉のあいだには必ず不吉の翳がある。それはあの物語によって、われわれがわれわれ自身の感情を移入して、これらを見るためばかりではない。これらの作品が、よしアンティノウスの生前に作られたものであったとしても、すぐれた芸術家が、どうして対象の運命を予感しなかった筈であろう。

ハドリアヌスの別荘から発見された。
バッカス神(ディオニュソス)に擬している。(筆者撮影)
この時、三島は突き動かされたようにアンティノウスの像と対面し、その青年の美的な顔貌をみつめながら、逆に像に己の今後の運命さえ見返されてしまっているかのようだ。そして、神の「絶対性」の下で、太陽に照らされたような大理石の「地中海」の白い輝きの中にある、「翳」を一人冷静にじっとみつめているのだ。
その生前にすぐれた彫像が作られる。するとその人の何ものかはその時に終わってしまうのだ。その死後にすぐれた彫像が作られる。するとその人の生涯はこれに委ねられ、この上に移り住み、これによって永遠の縛しめをうけるのだ。われわれの苦悩は必ず時によって解決され、もし時間が解決せぬ時は、死が解決してくれるのである。希臘人がもっていたのは、このような現世的なニヒリズムであった。希臘人は生のおびただしい畏怖のために蒼ざめた石、あの蒼白の大理石を刻んで、多くの彫像を作りだし、これによってかれらを生のおそるべき苦痛から解放した。あるいは厳格な法則に従った韻文劇を、かれらの言葉の中から刻み出し、それによって人々の潜在的な苦悩や苦痛を解放した。それが希臘劇である。それらはいわば時間や死による解決の模倣である。
三島はアンティノウス像を見つめながら、希臘(ギリシャ)の彫像や韻文劇の持つ「生のおそるべき苦痛」からの解放の可能性をそこに見出す。
そしてそれらは「時間や死による解決の模倣」だという。
ニーチェは『悲劇の誕生』の中で、「アポロン的」、「ディオニュソス的」な対立と融合を、ギリシャ悲劇の中に見出したことはよく知られている。アポロンは芸術や理性や秩序を司る光の神・太陽神であり、一方のディオニュソスは渾沌・狂乱や過剰や陶酔を司るバッカス神である。ギリシャ悲劇は、この矛盾する調和的秩序と破壊的渾沌の二項対立的な要素を併せ持つ故に、当時の最高峰の芸術たり得た。
三島はバチカンのアンティノウス像の中に、ニーチェの悲劇理解におけるバッカス神=ディオニュソスをじっと重ね合わせていたのだろう。おそるべき生の苦悩や苦痛は、この二項対立を併せ持つ悲劇としてのディオニュソスの「模像」としての彫像の中でこそ解放される。……
私は又しても埃及の部屋の立像の前にしばらく佇み、この三体のアンティノウスの印象がほかのさまざまのもので擾されぬように、匆々にヴァチカンを辞し去った。
私は今日、日本へかえる。さようなら、アンティノウスよ。われらの姿は精神に蝕まれ、すでに年老いて、君の絶世の姿に似るべくもないが、ねがわくはアンティノウスよ、わが作品の形態をして、些かでも君の形態の無上の詩に近づかしめんことを。
━━ 一九五二年五月七日羅馬にて ━━
『三島由紀夫の家』の庭の中央にあるアポロン像、その秩序、時を経て、それは三島が占拠した自衛隊市ヶ谷の駐屯地でバルコニーの下に集まる自衛隊員たちである。
少なくとも三島にはそうみえていた、幻視していた筈だ。三島はバルコニーの上から、庭園にいる太陽に照らされたアポロンたちを見下ろしながら演説をする。
静聴せい
その時、三島は、時を経て、自らアンティノウスの「形態」の「模像」として、ディオニュソス的破壊と渾沌=カオスにおける「絶対性」、そして「連続性」における一編の「無上の詩」のエロティシズムの「死」の「翳」をその全身に纏っていた筈なのだ。……

「さらば、アンティノウス!」
(筆者撮影)


多くの大理石像は、足や腕や首等細い部分が損壊状態で発掘されている。
(筆者撮影)

(筆者撮影)

(筆者撮影)

1430年代からローマにあったと知られており、紀元前の物と考えられていたが、今では2世紀に作られた模造と考えられている。捻った筋肉が特徴。ミケランジェロやラファエロに影響を与え、古典復興のきっかけとなった。ミケランジェロは特に入れ込み、『最後の審判』ではキリストの身体描写の着想としている。彫像の身体の各所が破損しているが故に醸し出される絵もいわれぬ魅力(アウラ)と迫力を感じる。(筆者撮影)

(筆者撮影)
ゲーテはローマについて、「自分にとって今まで空虚な言葉であり、ただ文字の上の伝統に過ぎなかったすべてのことが、ここに来て初めて生きた概念とかわってしまった」と書いている。

『ローマの休日』(ウィリアム・ワイラー監督、1953年)でオードリー・ヘプバーン扮するアン王女がアメリカ人の新聞記者(グレゴリー・ペック)と初めて出会うシーンで有名。紀元前6世紀頃から293年にかけて、古代ローマの国家の政治・経済の中心地であったが、西ローマ帝国滅亡後は打ち捨てられ、土砂の下に埋もれてしまった。素人目には地中海近辺の古代感覚を漠然と感じるが、様々な時代の様式が混ざり合い上書きし合い、その全容は未だ判然としない。それより更に歴史を遡った古代ギリシャ人からみれば彼らの文化や建築物の「模像」にみえたかもしれない。しかし、そのギリシャの建築も……(以下省略)。
共和政時代の「フォロ・ロマーノ」は、市民と政治家が本気で討論しぶつかり合う場所だった。 その象徴が「ロストラ」と呼ばれる演壇であり、当時の哲学者・弁護士である雄弁家マルクス・トゥッリウス・キケロ(b.c106年-b.c43年)が国家の陰謀を暴く大演説を行い、市民を熱狂させた。後に権力闘争に敗れたキケロは暗殺され、彼の首と右手は、見せしめとして彼が数々の名演説を残したこの「ロストラ(演壇)」に晒されることとなった。
「さらば、永遠の都、羅馬!」
(筆者撮影)
(7)に続く
