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ゼンマイ採り 季節を生き延びる人たち

先日山菜の話をして、

いよいよ本当に山菜取りに行ってきた。
以前までであれば、例えば最初にふきのとう、それからタラの芽、そうしてぜんまい、こごみ、ミヤマイラクサなどで、春の最後にタケノコ、それらが一週間と波を次いで季節を運んできたりしたものだ。ワラビは我関せずと、ほかの山菜が終わっていくなか一人春の初めから夏までも生え続けていたりして、なんだか憎まれっ子世に憚る的な様子で面白かったりしたようなものだ。

しかし、今は山菜各自による週間毎の季節贈りは殆どなくて、一気に生え出して殆ど一気に終わっていくような感じだ。
父は山菜取りに行くたびにネジ巻き玩具のように何度もそう口にするから、本当なのかもしれない。

とにかく、山菜の命は短くて、旬で採ろうとした場合、適齢期を見計った一週間を当てなければならない。
私の見立てでは発芽に必要な積算温度の集計結果は、先週か今週がその適齢期で、父を誘って行ってきた。

果たして採れた。

これは背景を画像処理してあるけれど、実際に取ったものの写真。
左側がタラの芽、コシアブラ、ハリギリ  (1㎏弱)
中央にあるのが、ぜんまいだ。 (6.4kg 処理後)
それからワラビも少し混じっている。

写真では、タラの芽は開いてしまているが、本当は新芽の皮から少しだけ穂先が出たようなものが一番美味いと思う。新芽のほのかな香味というか苦味というか、そういうものが一番感じれるもので、開いてしまうと土の熱量と冬を耐えたエネルギーの凝縮が空に飛んで行くようなものかもしれない。

ゼンマイは本当にいい場所を見つけないと、太くて柔らかいようなものは生えていない。子どもの箸のように細いものを歩き歩き見つけるような採り方だとこういう量にはならない。

私たちはたまたまゼンマイの群生地を見つけたので、そこを毎年の狩場にして、良いときには10㎏くらいは採る。しかしまあ、良い狩場を見つけた贅沢で、今度は逆にそんなに採らなくてもいいような気持になって、ほどほどでやめている。
ゼンマイの取り方は、オスとメスがあって、メスを採るのだけれど、一株から全部のメスを採ると絶えてしまう。だから必ず、メスをその株に2つくらい残すようにする。

これらは1か所で採ったので、採った量というよりも採り方として贅沢な気がしている。山菜をとるということがもっとも贅沢な春の味わい方かもしれないと思う。

以前にも書いたけれど、

山に行って山菜でもキノコでも採っていると、父との別れを考えている。
父は私と離れて少し遠くで探していることが殆どだ。お互いに何となく相手の場所はわかって、何かがあったとき、熊が出たり足を踏み外したりしたときに、助けられる距離、協力できる距離にいる。
それでも視界にいないことも多く、目線は山菜やキノコを求めてさまよっている。虫を避けたり、掴まる枝や草を探したりしている。たまには遠くの稜線を眺めたりして空気の色をうかがっている。
それでも、父と来たということが頭にある。
そういうときに、父がいなくなったときに今日のことを思い出すだろう、と思うのだ。
それこそ私もネジ巻き玩具のように、いつもいつも、父がいなくなってもこの風景を、こうやって山に来たことを思い出すだろうと考えてしまう。

ゼンマイが沢山とれたことは嬉しい。
でもそれはゼンマイが食べたいということとは少し違っている。
父がいて、沢山とれたことに驚いている。今年も採れたと言って、上手くいったと言って納得している。それが嬉しいのかもしれない。
これが季節の本当の贅沢なのだろう。
これは季節を生き延びた人たちが継いできた想いなのだろうか。山の葉陰に皆が隠見するものなのだろうか。

そういうことも思いながらも、私の方が経験も浅いのに、今年も父は季節を読み違えて、私が誘わなければ山菜の適齢期に出掛けていかなかっただろう。そういうことでなんだか腹立たしくもある。
それも含めて季節は巡る。
巡る度に別れは近づいて、季節は廻り続けて悲しいようなもので、腹立たしい。

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