Facebookアカウント復旧を待たずに、もう一度発信を始めた日
前回は、本人確認の入口に入れず、できる限りの対応をしても状況が動かなかった話を書きました。今日は、その先の話です。
私が「待つこと」をやめると決めた日のこと——正確に言うと、「元のアカウントが戻ることを願いながらも、それを待って今を止めるのはやめよう」と決めた日のことです。
これは、簡単な決断ではありませんでした。15年以上使ってきたFacebookアカウントです。投稿もありましたし、思い出もありました。仕事のつながりもありましたし、講座やコミュニティで出会った方とのやり取りもありました。できることなら、戻したかったです。今でも、戻るなら戻ってきてほしいと思っています。
でも、戻るかどうか分からないものを待ち続けている間に、今の発信まで止まっていく——それは違う。そう思った瞬間がありました。今日は、その話を書きます。
1ヶ月以上、画面は止まったままでした
Facebookアカウントが使えなくなったのは、2026年3月20日頃でした。そこから1ヶ月以上、画面はほとんど動きませんでした。
異議申し立て画面は、ずっと「Appeal Submitted」の表示のまま。異議申し立ては受け付けられているように見えるのに、その先に進まない。本人確認のフォームには入れないし、書類を出したくても提出する画面まで行けない。サポートから返ってくる案内は、同じところをぐるぐる回っているように感じる。母のアカウントから問い合わせると、今度は母のアカウントの問題として話が進みそうになる。「違うんです」「復旧したいのは私のアカウントなんです」——何度そう思ったか分かりません。
その間、PCのデスクトップには、提出したくても提出できない書類が少しずつ増えていきました。マイナンバーカード、開業届、確定申告書、個人事業主としての資料、経営する法人会社に関する資料、Meta広告の領収書——「これを出せば伝わるかもしれない」と思って準備したものが、出せないままそこにある。それを見るたびに、なんとも言えない気持ちになりました。
書類はある。説明したいこともある。でも、届ける場所がない——この状態が、本当にしんどかったです。
「あと1週間待てば」を、何度も繰り返していました
最初の頃は「あと数日待てば動くかもしれない」と思っていました。数日経っても動かないと「週明けには何か変わるかもしれない」と思いました。週明けになっても変わらないと「あと1週間だけ待ってみよう」と思いました。でも、その「あと1週間」が、何度も繰り返されました。
朝、画面を開く。変わっていない。昼にもう一度見る。変わっていない。夜、もしかしたらと思って開く。やっぱり変わっていない——そんな日が続くと、少しずつ気持ちが削られていきます。何か大きな失敗をしたわけではないのに、ずっと責められているような感覚。何かを待っているのに、何を待っているのかも分からなくなっていく感覚。復旧の見通しは、まったく立ちませんでした。
それでも私は、しばらく待ち続けていました。15年以上使ってきたアカウントだからです。簡単に見切りをつけられるものではありませんでした。
過去のために、今を止めていることに気づきました
ある日、ふと思ったんです。私はいま、「過去を取り戻すこと」のために、「今と未来」を止めているんじゃないか。
15年分の投稿、つながってきた方々との履歴、ふりかえり会の写真、セミナーで一緒に学んだ仲間との交流、メッセンジャーでのやり取り、コメント欄で交わした言葉——それは確かに、私にとって大切な記録でした。戻るなら、戻したい。その気持ちは、今でもあります。
でも、戻るかどうか分からないものを待ち続けている間、私は新しい発信を止めていました。Facebookでつながりたい人にも会えない。グループでコメントもできない。近況も伝えられない。新しく出会うはずだった人にも、届かない。「復旧するかもしれない」という希望にしがみついている間に、今の動きが止まっている——これが、本当に私の望んでいることなんだろうか。そう思いました。
私が守りたいのは、過去だけじゃなかった
もちろん、過去は大切です。15年以上分の積み重ねは、軽いものではありません。でも、私が守りたいのは、過去のアカウントだけではありませんでした。
これから出会う人、これから届ける言葉、これから作っていく場所、これから関わっていくコミュニティや学びの場、これから発信でつながっていく方々——そこも、同じくらい大切です。
元のアカウントを取り戻したい気持ちはある。でも、そのために今の発信が止まり続けるのは違う——そう思ったとき、少しだけ視界が開けた気がしました。「戻るかどうか分からないものを待つ時間」と「今できることを積み上げる時間」。私は、どちらを選びたいのか。その問いが、自分の中に出てきました。
答えは、すぐには出ませんでした。でも、少しずつ「私は止まりたくない」という気持ちが大きくなっていきました。
「待つ」をやめる、と決めました
そして、私は決めました。過去のアカウントの復旧は、願い続ける。でも、それを待って今を止めることはしない。新しいアカウントを作って、そこから動き出す。
これは「諦めた」のではありません。「止まらない」と決めた、ということです。ここは、私の中ですごく大事な違いでした。
元のアカウントをどうでもいいと思ったわけではありませんし、戻らなくていいと思ったわけでもありません。むしろ、戻るなら戻ってきてほしいです。でも、戻るかどうか分からないものの前で立ち止まり続けることは、私の未来にはつながらない。だから、見切りをつけました。過去を取り戻すことだけに集中するのではなく、もう一度発信を始める方を選びました。
正直、簡単な決断ではありませんでした。15年は長いです。そこに詰まっていた思い出を、自分から手放すような感覚もありました。でも、待ち続けて何も動かない時間より、動き出して新しく積み上げる時間の方が、今の私には大切だと思いました。
新しいアカウントを作ることは、過去を消すことではありませんでした
新しいアカウントを作ると決めても、すぐに気持ちが軽くなったわけではありません。「本当にこれでいいのかな」「もう少し待った方がいいのかな」「前のアカウントが戻ったらどうしよう」「新しいアカウントを作ったことで、変に思われないかな」——そんな不安は、いくつもありました。
でも、何度も自分に言い聞かせました。新しいアカウントを作ることは、過去をなかったことにすることじゃない。名前に込めた覚悟も、これまで発信してきた言葉も、出会ってきた方々との時間も——私の中には、ちゃんと残っている。Facebookの画面からは見えなくなったかもしれない。でも、私が経験してきたこと、届けてきた言葉、いただいたご縁まで消えたわけではない。そう思うようにしました。
それでも、怖かったです。でも、怖いまま進むしかありませんでした。
ご報告の投稿は、何度も読み返しました
新しいアカウントを作ったあと、みなさんに経緯を伝える投稿を書きました。メルマガでも、同じようにこれまでの経緯と再始動の決意を書きました。
15年以上使ってきたFacebookアカウントが本人確認の関係で制限がかかってしまったこと、異議申し立てや本人確認、サポートへの問い合わせなど考えられる手続きはしてきたこと、それでも以前のアカウントを使える状態には戻せていないこと、これからは新しいアカウントで発信を続けていくこと——ひとつずつ書きました。
でも、書きながら何度も手が止まりました。どこまで事情を書くべきか。悔しさをどこまで出していいのか。名前のことをどこまで説明するのか。「かわいそう」と思われたいわけではない。でも、軽い報告で済ませられるような出来事でもない——そう思って、何度も読み返しました。
投稿ボタンを押す前は、かなり怖かったです。「なんで急に新しいアカウント?」「前のアカウントはどうしたの?」「本人確認に引っかかったって、何か悪いことをしたの?」——そう思われるかもしれない。でも、伝えないと始まらない。そう思って、投稿しました。
どんな反応が返ってくるか、本当に怖かったです
ご報告の投稿をしたあと、しばらくは落ち着きませんでした。スマホを置いても、通知が気になる。でも、見るのも怖い。温かく受け止めてもらえるかもしれない。でも、何も反応がないかもしれない。怪しまれるかもしれない。面倒なことになったと思われるかもしれない——いろんな気持ちがありました。
新しいアカウントは、まだ何も積み上がっていない場所です。そこから「これは本当にゆきのです」「こういう経緯で新しいアカウントを作りました」と伝える。言葉にすると簡単ですが、実際にはすごくエネルギーがいりました。
でも、少しずつ反応が届き始めました。友達申請をしてくださる方、コメントをくださる方、メルマガに返信してくださる方、「またつながれて嬉しいです」と言ってくださる方——その一つひとつに、私は何度も救われました。
「ただ復活ではなくて、さらにパワーアップしての復活」
その中で、奈美さんから、こんなお声をいただきました。
ゆきのさん コツコツと育てて来たアカウント停止。どれだけのダメージなのかと、少しずつでも情報発信を始めた今なら想像することができます。 そんな状態からの再出発。 どれだけの葛藤と覚悟があったのかと思います。 でもただ復活ではなくて、さらにパワーアップしての復活。 そこに至るまでの経緯を読んで感動しました。再出発、よろしくお願いします。
「ただ復活ではなくて、さらにパワーアップしての復活」——この言葉を読んだとき、しばらく画面の前で止まりました。
私は自分の中では「また一からになってしまった」という感覚が強かったんです。前のアカウントにあったものは見えない。つながっていた方も、全員にすぐ届くわけではない。これまでの投稿も見られない——だから、どうしても「失った」という感覚がありました。
でも奈美さんは、それを「ただの復活」ではなく「パワーアップしての復活」と受け取ってくださいました。その言葉に、ものすごく救われました。そうか。私はただ元に戻ろうとしているんじゃない。今回の出来事を通して、名前のことも、発信の土台のことも、向き合い直した。だからこれは、ただの復旧ではなく、再出発なんだ——そう思わせてもらいました。
「葛藤と覚悟」を見抜いてくださったことも、本当にありがたかったです。奈美さん、ありがとうございます。
「不死鳥の如く復活ですね」に、少し笑えました
後藤大二郎さんからは、こんなお声をいただきました。
ゆきのさん 不死鳥の如く復活ですね。 繋がりが絶たれた感で辛かったと思います。 大変だったと思います。 ともあれ、復活のお知らせ、こちらも嬉しくなりましたー。
「不死鳥の如く復活ですね」——このお言葉を読んだとき、ふっと笑ってしまいました。心の中で「ふぇにーっくす」とつぶやいていました。
ずっと重い気持ちを抱えていました。本人確認の入口に入れない。サポートとのやり取りが進まない。元のアカウントが戻らない。新しいアカウントを作るのも怖い——そんな気持ちが続いていた中で、こうやって少し明るく言ってもらえることが、本当に救いになりました。
重い出来事を、軽く扱われたわけではありません。ちゃんと「繋がりが絶たれた感で辛かったと思います」と分かってくださっている。その上で「不死鳥」と言ってくださる。その温度感が、すごくありがたかったです。
つながりが絶たれた感覚。まさに、そこが一番つらかった部分でした。それを言葉にしてくださって、本当にありがとうございます。
「相当落ち込まれたかと思いますが」に、見抜かれた気がしました
小宮葉子さんからは、こんなお声をいただきました。
ゆきのさん いつもありがとうございます。 積み上げてきたものが違うので、 ゆきのさんの悔しさを簡単に分かります! とは言えませんが、悔しいですね。 相当落ち込まれたかと思いますが、 それを出さずに前を向かれて 動いているゆきのさん、素敵です! 新しいアカウントでも、よろしくお願いいたします。
「相当落ち込まれたかと思いますが」——この一文を読んだとき、心を撃ち抜かれました。
実は、相当落ち込んでいました。でも、それをできるだけ表に出さないようにしていました。悲しみや悔しさだけを出しても、読んでくださる方を重くさせてしまうかもしれない。「大変だったんです」と言いたい気持ちはある。でも、そこで止まりたくはない。前を向いている姿も見せたい——そんな気持ちがありました。だから、落ち込んでいたことをあまり出さないようにしていたんです。
でも、葉子さんは気づいてくださいました。
「悔しさを簡単に分かります!とは言えませんが、悔しいですね」——この前置きの誠実さにも、胸があたたかくなりました。簡単に分かったふりをしない。でも、悔しさには寄り添ってくださる。その距離感が、本当に葉子さんらしくて、ありがたかったです。
葉子さん、ありがとうございます。
起きたことは変えられない。でも受け止め方は変えられる
松田擁三さんからは、こんなお声もいただきました。
ゆきのさん 松田擁三@中小企業のAXDX成功の架け橋 です。
友達申請を一度にたくさんにしたらBot判定されるんですね! 起きたことを全部学びに。 そうですよね。もったいないですよね。 ゆきのさんの姿勢から私を救ってくれた方の言葉を思い出しました。 「これから起きる事は変わらない。でも心がそれをどう受け止めるかは変えられる」 これからたくさんいいことがありますように。
「これから起きる事は変わらない。でも心がそれをどう受け止めるかは変えられる」——この言葉が、まさに私がたどり着いた答えと重なりました。
Facebookアカウントが使えなくなったこと、本人確認の入口に入れなかったこと、元のアカウントが戻っていないこと——それ自体は、もう変えられません。どれだけ悔しくても「なぜこうなったんだろう」と思っても、起きた出来事そのものは変わりません。でも、その出来事をどう受け止めるかは、私が選べる。「過去を取り戻すために、今を止める」と受け止めるのか。「ここから新しく積み上げていく」と受け止めるのか。私は、後者を選びました。
もちろん、最初からきれいにそう思えたわけではありません。悔しかったですし、落ち込みましたし、何度も画面を見て、ため息をつきました。でも最後は「この出来事を、ただの損失で終わらせたくない」と思いました。起きたことを全部学びに変える。そうしないともったいない。松田擁三さんの言葉は、私が迷いながら見つけた答えを、はっきり言葉にしてくださったようでした。ありがとうございます。
届いた声で、新しいアカウントはもうゼロではなくなりました
新しいアカウントを作ったとき、私は「またゼロからだ」と思っていました。プロフィールを整える。投稿を書く。友達申請をする。これまでつながっていた方に見つけてもらう。「これは本当にゆきのです」と伝える——全部、最初からやり直しのように感じていました。
でも、こうしてお声をいただいて思いました。新しいアカウントは、もうゼロではない。なぜなら、そこにまた来てくださる方がいるからです。
過去の投稿は見えなくなったかもしれないし、前のアカウントの履歴は戻っていないかもしれない。でも、私を覚えていてくださる方がいる。またつながろうとしてくださる方がいる。「復活ですね」と言ってくださる方がいる。「悔しいですね」と寄り添ってくださる方がいる。「これからたくさんいいことがありますように」と願ってくださる方がいる——その時点で、もうゼロではありませんでした。
私は全部を失ったわけではなかった。このことに気づけたことが、本当に大きかったです。
次回からは、この出来事から見えた学びを書きます
ここまでで、Facebook停止から新アカウントで再始動するまでの流れを書いてきました。次回からは、この出来事から私が見えてきた「学び」の話に入っていきます。
一番大きかったのは、発信を、ひとつの場所に頼り切ってはいけない、ということです。
Facebookは便利ですし、私にとっても、大切な出会いをたくさんくれた場所です。でも、ひとつの場所に頼り切っていると、その場所が止まった瞬間に、発信もつながりも止まってしまう。今回、私はそれを体で感じました。
そして、その先で今、取り組み始めていることがあります。それは、最終話でお伝えしますね。
合わせて読みたい
前回の記事です。本人確認の入口に1ヶ月以上たどり着けなかった、停止期間中の記録を書いています。今回の「待つことをやめる」という決断の前提になっている話です。
→本人確認の入口が、ずっと開かなかった
次回からお届けする「この出来事から見えた学び」の話も、これから順次公開していきます。
→Facebookに頼り切っていた、と気づきました
※公開予定の記事です。公開後にリンクが有効になります。
最後に
「Facebookアカウント復旧を待たずに、もう一度発信を始めた日」——このタイトルには、私の覚悟を込めました。
決断は、簡単ではありませんでした。今でも、元のアカウントが戻るなら戻ってきてほしいです。でも、戻るかどうか分からないものを待ち続けて、今の発信まで止めることはしない。そう決めました。
そして、決めたあとに届いたお声に、何度も背中を押してもらいました。ひとりで決めた選択を、こうして温かく受け止めてくださる方々がいる。それだけで、新しいアカウントは、もう「ゼロからのスタート」ではありませんでした。
ここまで読んでくださって、本当にありがとうございます。
それでは、また次回。
ゆきの
