【掌編】『魔法の解かれた先で』(第十話)
【前回までのあらすじ】
ヴァルドに呼ばれた王子は、途中で母の部屋の前に立ち寄る。しかし扉の向こうから聞こえてきたのは、苦しげな叫び声と激しい物音。母を助けようと必死に扉を叩く王子を、ヴァルドは静かに制止する。無力感に打ちひしがれる中、王子は母を苦しめる原因が失踪した父にあるのではないかと問いかける。するとヴァルドは静かに「殿下は、どうされたいのです?」と問い返すのだった。
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※この物語はフィクションです。登場する人物および団体は、実在のものとは一切関係ありません。◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
第十話
ヴァルドに腕を取られたまま立ち上がった私は、そのまま彼に肩を担がれながら執務室へと連れてこられていた。
執務机を挟んで向かい合うように座る。紅茶を持ってきた使用人が部屋を去っていくのを、私はずっと机に視線を落としたまま送った。
耳の奥では未だに母の叫び声が鳴り続けている。拳にはまだ鈍く痺れたような痛みが残る。
ヴァルドは私の横で静かに紅茶を注いでいた。まるでそれは自らの役目だとでもいうように、静かに淡々とポットを傾ける。湯気が立ち上り、部屋の中へと茶葉の香りが広がった。
「少しは落ち着かれましたか」
カップを差し出しながらヴァルドが言う。低く穏やかな声だった。
私は無言のままカップを受け取った。何から話せばいいのか分からないほど、胸の内がざわざわと波打っていた。荒れ狂う海のようだ。
「――母上は本当に良くなるのか」
ようやく言葉を紡いで尋ねると、ヴァルドは自分のカップを机へ置きながら静かに頷いた。
「最善は尽くしております」
いつも通りの返答だった。どこにも確信のない言葉。治るとも治らないとも言わない。
私は奥歯を噛み締めた。
「最善を尽くしているなら、どうして母上はあんなに苦しんでいるんだ」
あまりにも冷めた声に自分でも驚く。もう怒鳴る気力すら残っていない。
ヴァルドは視線を伏せた。
「心の傷というものは、時に身体の病より複雑なのです」
「私にできることはないのか」
私は気付けば身を乗り出していた。
「王子である前に、一人の息子として、私は母のために何ができるのだ――」
もはや言葉の矛先は自らに向かっていた。
ヴァルドはしばらく考えるように黙り込み、やがて静かに答える。
「王妃殿下のことは我々にお任せください。殿下は殿下の務めを果たさねばならない」
それもいつもと変わらない言葉だった。
――王子として。王族として。国のために。
その言葉は私から何かを奪うことはあっても、何かを与えてくれたことは一度もない。
私はゆっくりと息を吐いた。
「母上があんな風になったのは……やっぱり、あの男のせいなんだろうな」
そう言い放った瞬間、空気が張り詰めるような、ずんと一段重くなるような異様な雰囲気がした。
おそらくそれはヴァルドの見せた僅かな動揺のせいだった。それまでになく悲しみに満ちた顔をしている。
私はそんな空気を察しながらも続けた。
「もしあの男が逃げなければ、母上は今も笑っていたのかもしれない。少なくとも、今みたいに苦しむことはなかった」
喉の渇きに耐えかねて紅茶を一口啜る。
言葉にすればするほど、胸の奥でずっと名前の分からないまま沈んでいた感情が、少しずつその輪郭を鮮明にしていく。
ヴァルドは静かに目を閉じ、小さく息を吐く。
「殿下、大変申し上げにくいのですが――」
その声色には躊躇が見えた。あの冷静沈着なヴァルドには珍しく、言葉を慎重に選ぶような素振りだった。
「本日、北方の街道沿いでひとつの遺体が発見されました――」
話の意図を掴みあぐねながら私は眉をひそめた。しかし、次のひと言に思わず息を呑む。
「兵士の報告によれば、先王によく似た男だったそうです」
部屋の空気がさっと温度をなくし、時間がぴたりと止まったような気がした。耳の奥からすべての音が消え、耳鳴りだけが響いた。
「……何を言っている」
口から出たのはひどく乾いた声だった。
掌編『魔法の解かれた先で』
第十一話に続く→
第十話のご拝読
ありがとうございます✨️
【次回の見どころ👀】
ヴァルドから告げられた衝撃の報告。先王の死を受け入れられない王子の行く末は。
📔第十一話の更新は
6/4(木)19:30を予定しています。
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