【掌編】『魔法の解かれた先で』(第三話)
【前回のあらすじ】
幼い頃、王だった父は突然失踪した。取り残された母は部屋に閉じこもり、次第に人ならざる呻き声を上げるようになる。側近ヴァルドは王子に「王子らしくあれ」と諭し続け、少年は母に会うことすら許されなかった。やがて王子の胸には、父への憎しみだけが深く根を張っていく――。
■マガジン『魔法の解かれた先で』
第一話から読みたい方はこちらから
※この物語はフィクションです。登場する人物および団体は、実在のものとは一切関係ありません。◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
第三話
冷たい空気が薄く沈む庭園に、鳥たちの軽やかな囀りが振り注ぎ、庭師が植木を剪定する刃物の音が風を切るように響き渡る。囁くように穏やかな風が吹き、僅かに開いた窓の上でカーテンが静かに揺れた。
私はぼんやりとした意識のなかで朝の気配を感じながら、ゆっくりと目を開けた。目尻にこべりついた昨晩の涙のせいでうまく目が開かず、思わず小さなため息が漏れる。
寝返りを打った視線の先、ベッドの端にはあの舞踏会の日に取り残された片側だけのゴムサンダルが、そこだけ空間が歪んでいるかのように重々しく沈んでいた。
見るほどに忌々しいはずなのに、なぜか捨てられないまま部屋へと持ち帰っていた。
「殿下、お目覚めでございますか」
扉の外からヴァルドの声がして、咄嗟にゴムサンダルへと手を伸ばし、布団のなかへと隠すように潜り込ませた。
「ああ」と短く返事をすると、ヴァルドが扉を静かに押し上げて部屋へと入ってきた。
私はベッドの上で上体だけを起こして彼を出迎えた。
「おはようございます、殿下」
ヴァルドの後ろには使用人が二人、朝食の配膳されたカートを手に立っている。使用人はベッドの脇までカートを移動させると、私と顔を合わせる間もなくそそくさと部屋を後にした。
ヴァルドはカートの上のカップに紅茶を注ぎながら、粛々と今日の予定を告げる。
「本日は午前に統治学、午後に軍略の講義。その後、他国からの書簡への返答を行っていただきます」
私は無言で頷き、ヴァルドから受け取った紅茶を一口啜った。ほのかな苦味と華やかな香りが鼻を抜け、ようやく朝がこの身に落ち着いたような心地になる。
「ヴァルド――」
カップに漂う濁りのない赤橙色を見つめながら彼の名を呼ぶと、ヴァルドは静かにこちらへ顔を向けた。
「――母上の様子は?」
ヴァルドは少しの間をおいて答える。
「今朝はだいぶ落ち着いている――と聞いております」
「それならよかった……」
もうしばらく母の顔を直接見ていない。前に顔を合わせたのはいつだったのかも定かではない。
最後に私が母の寝室に入った日、母は私の顔を見るなり狂ったように叫び出し、先王のことを口汚く罵った。私はその姿を見ていられず、逃げるように部屋を後にした。あれ以来、寝室の扉を開けるのが怖くなった。もう、母のあのような姿は見たくない。
「殿下。僭越ながら申し上げますが――」
ヴァルドがプレートのハムを切り分けながら静かに口を開いた。
「王妃殿下のことは何もご心配なさらず我々にお任せください。殿下にはそれ以上に考えなければならない責務が――」
「分かっている……」
ヴァルドの言葉を遮るようにそう言うと、彼は姿勢を正して小さく頭を下げた。
朝食を終え、ヴァルドが部屋を出ていった後、私はようやく体を滑り落とすようにベッドから立ち上がった。
壁にかけられた鏡に向かうと、酷く疲れた顔をした男がそこに立っていた。髪を無造作に乱れ散らし、腫れぼったい目がこちらを見つめている。そこにあの男の面影を見て、思わず鏡のなかの自分から目を逸らす。
あの男のことを忘れようとすればするほど、もう一度会いたいと思っている自分が顔を出す。もし仮に実際に会えたとして、私は彼に何を伝えたいのだろう。何を求めているのだろう。
しばらく呆然と鏡の前に立ち尽くしていた。窓の外で響く教会の鐘の音が、無情にも忙しない日常へと意識を引き戻す。
一度国を捨てて逃げた男だ。今さら追いかけたところで何になる。私は私のやるべきことをやるのみだ。
もう一度、鏡のなかの自分と目を合わす。お前はいづれ王になる男だ。過去は断ち切れ。そう自分に言い聞かせる。
そして今日も王子としての一日が始まる。とても憂鬱で退屈な長い一日が。
掌編『魔法の解かれた先で』
第四話に続く→
第三話のご拝読
ありがとうございます✨️
【次回の見どころ👀】
王とは孤独であるべきか。それとも人を愛してはならないのか。王子はヴァルドから『国を治める』とは何かを学ぶ中で、かつての父の姿と現在の城の冷たさを静かに比べ始める――。
📔第四話の更新は
5/28(木)19:30を予定しています。
よければ『スキ』『フォロー』『マガジン登録』もいただけると励みになります💪
■マガジン『魔法の解かれた先で』
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
いいなと思ったら応援しよう!
私の物語は皆様からいただいた一杯の珈琲の味。
よろしければ応援よろしくお願いいたします。