まだ「おいしい」と言えなくても
1歳になったばかりの陽潤(はるん)が、週に数回だけ習い事に通うことになった。
保育園とはまた違う、小さな「はじめての社会」。
人と関わって、空間に慣れて、すこしずつ世界を広げていくための、ほんの短い活動の時間。
そこに必要なのが、お弁当だった。
お弁当作りは、僕にとってはじめてのことではない。
朝陽(あさひ)が小学生になってから、給食が始まるまでの期間に作ってきた。
卵焼きにブロッコリー、おにぎりにミニトマト。
完食して帰ってくるだけでうれしくて、「おいしかったよ!」と笑顔で言ってくれるたびに、「また作ろう」と思えた。
でも、今回はちょっとちがう。
陽潤はまだ「おいしい」と言えない。
「またこれ食べたい」とリクエストしてくるわけでもない。
けれど、それでも、僕はまったく不安にならなかった。
むしろ——楽しい。
静かな朝に、小さなお弁当箱にそっと向き合うこの時間が、なんだかとても心地よい。
僕は毎朝4時に起きる。
陽潤のためのお弁当が増えても、時間的な負担を感じることはない。
日々の暮らしに、自然と溶け込んでいる。
卵焼きを巻く手つき。
星型に抜いたにんじんを茹でる鍋。
小さなおにぎりを手のひらで握るやわらかい感触。
ミニトマトの赤、ブロッコリーの緑、卵の黄色。
陽潤が喜んでくれそうな色を想像しながら、ひとつひとつ丁寧に詰めていく。
味はやさしく、素材は小さく、柔らかく。
全部を口に入れたとき、「うれしい」と感じてくれるように。
まだ言葉のない陽潤との、朝の静かな“対話”。
僕はそれを、ひそかに楽しんでいる。
夕方、習い事から帰ってきたリュックのなかにある、お弁当箱。
ふたを開けると、きれいに空っぽになっていることが多い。
連絡ノートには、先生からのコメントが添えられている。
「今日も完食でした!」
「ミニトマトをいちばん最初に食べていましたよ」
「にんじん、がんばって食べていました!」
言葉じゃない“感想”が、そこにある。
陽潤なりに「これ好き」「これちょっと苦手かも」を教えてくれている気がして、僕はその小さなヒントを毎回、丁寧に受け取る。
そして、次のお弁当の中身を、また考える。
陽潤がよく食べるもの。新しい食材。ちょっとしたチャレンジ。
「今日も、ちゃんと届きますように」
そんな思いを込めて、朝の台所に立つ。
言葉を交わさなくても、伝わるものはある。
それは、朝陽とのご飯作りで、すでに感じていたこと。
そして今、陽潤のお弁当作りを通じて、もう一度、確信に変わっていく。
いつか、「パパのお弁当、おいしかったよ」と言ってくれる日が来たら、それはそれでうれしい。
でも、今のこの“言葉のないキャッチボール”も、僕はとても好きだ。
陽潤がスプーンを持って、ニコッと笑って、パクパクと食べている姿。
その光景を想像するだけで、朝が少しあたたかくなる。
まだ「おいしい」と言えなくても、
君の気持ちは、ちゃんと届いてるよ。
——だから明日以降もまた、作ろう。
君の笑顔を思い浮かべながら。
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