【短編小説】分からないなら、続けよう
佐倉陽菜の声が、薄暗いスラムの路地に響いた。
「彩花さーん!」
木嶋彩花は振り返る。
カメラバッグを背負った二十二歳の女性が、慌てたように駆け寄ってくる。その表情には、この仕事への興奮と不安が宿っていた。
「女二人でこんなところ、危ないですよ」
彩花は歩みを止めずに答えた。
「じゃあ、なんでついてきてるんだよ」
「いや、やっぱり彩花さんの技術学びたいですし」陽菜の声が弾む。
「なんと言ってもワールドプレス・フォト賞最年少受賞!報道写真家のホープですから」
彩花の足音が一瞬途切れる。「結局、お前もか」
「え?」陽菜が戸惑う。
「もういい、行くぞ」
二人は更に奥へと進んでいく。
やがて、工場の前に出た。ミシンの音が建物の中から響いてくる。窓の向こうに、少女たちが縫製作業に追われている姿が見える。
その時、現場監督らしき男性が大声で怒鳴り始めた。作業効率が悪いと叱責している。陽菜が慌ててカメラを構える。
しかし、彩花は動かない。
陽菜は、心配そうに彩花を見つめる。
監督が去った後、一人の少女が天井を見上げた。
——その瞬間、彩花のシャッターが切られた。
静寂が戻り、二人は、静かに工場から離れる。
「なんで、あのタイミングだったんですか?」陽菜が疑問をぶつける。
「怒鳴ってる場面の方がよっぽど——」
「私が撮るのは報道じゃない」彩花が静かに答える。
「人間を撮ってるんだ」
彩花は液晶画面を見つめている。確かに写っている。少女の諦めと受容、そしてその奥にある人間の尊厳。
陽菜は彩花の意図を理解した。彼女は、表面的な告発ではなく、もっと深いところにある人間性を捉えようとしている。
でも、彩花の表情は何故か晴れなかった。
「どうしたんですか?」陽菜が彩花の表情を覗き込む。
彩花はカメラを下ろした。
「撮ったけどさ」彩花がつぶやく。
「これで本当に何かが伝わるのかな」
「え?」
「あの子の人生は、あの一瞬だけじゃない。でも写真は、その一瞬しか切り取れない」
陽菜は耳を疑った。憧れの先輩が、自分の仕事を否定するようなことを言っている。
「でも、その一瞬に真実があるから——」
「真実?」彩花が振り返る。
「フレームの外に何があるか、この写真を見る人は知らない。あの監督だって、家族を養うために必死かもしれない。あの子が本当にサボっていたのかもしれない。でも写真は一瞬しか切り取らない」
陽菜の口が半開きになる。
「私たちは真実を伝えてるつもりで、実は現実を歪めてるんじゃないのか」
「でも」陽菜が反論する。
「真実を写すから写真でしょう?」
彩花の表情が一瞬険しくなる。
「お前、写真やめたほうがいいな」
陽菜は完全に面食らった。
「で、でも彩花さんの写真で世界が注目して、支援が——」
「支援?」彩花の声に苦笑いが混じる。
「スラムの一週間分の食糧費、そのくらいは集まるだろうな。そして、写真を見て泣いた人は、一時間後に全く違うことを考えるんだ。結局、消費されてるだけじゃないか」
陽菜は言葉を失った。憧れの先輩が、こんなにも自分の仕事に絶望していることが信じられなかった。
「私だって同じだ。反体制を気取って賞を取った」彩花は続ける。
「でも結局はシステムの一部だ。『社会派写真家』なんて肩書きで祭り上げられて、消費される」
風が吹いて、土埃が舞い上がる。二人は黙って立ち尽くしていた。
その時、陽菜がぽつりと言った。
「でも彩花さん、なんで写真やめないんですか?」
「は?」彩花が睨みつける。
「そんなに意味ないと思うなら、やめればいいじゃないですか」陽菜の声は真剣だった。
「でも続けてる。それって、まだ何か信じてるからじゃないんですか?」
その瞬間、彩花の脳裏に声が蘇った。
——君は真実を求めてる
八年前の秋。夕日の中で交わした対話。
——疑うことの方が大切です
彩花は工場の方を見つめた。少女たちは相変わらず作業を続けているのだろう。単調なミシンの音が、街に響いている。
「…陽菜」彩花が小さくつぶやく。
「お前って、たまに芯食ったこというよな」
「はい?」陽菜はキョトンとしている。
「完璧な答えがないからって、問うのをやめるわけにはいかない」
陽菜が首をかしげる。
「問うって?」
彩花はカメラを握り直した。
「本当の祈り方を、まだ探してるのかもしれない」
熱帯の光が二人の影を短く落としていく。彩花は歩き始める。陽菜が慌てて後を追う。
「彩花さん、それってどういう——」
「分からない」彩花が振り返って微笑む。
「でも、分からないから続けるんだろう」
路地の向こうに、新しい光景が待っている。彩花はカメラを構えた。
まだ答えは見つからない。
でも、問い続けることの中に、何かがあるのかもしれない。
シャッターの音が、静かに響いた。
この話の前日譚はこちらです。
