【短編小説】赤黄色の金木犀と茜色の夕日
抹香が、宙を舞った。
木嶋彩花の投げた抹香が、翔太の棺に散らばる。
梅雨の雨音だけが、本堂に響いている。
「何してるの!」
高校教師、田辺が飛び出した。
十八歳の教え子は、もう次の行動に移っていた。
振り返ると、住職の松本龍道と目が合う。
三十歳の若い僧侶が読経を止める。
「続けてください」彩花の声が響く。「死んだ人のために祈ってるんでしょ?」
「木嶋!」
田辺の怒声を無視して、彩花が笑う。
「結局、生きてる人の自己満足じゃないですか」
静寂。
龍道が経本を閉じて歩み寄る。
「そうだと思います」
田辺の目が見開かれる。僧侶が、まさか——
「でも、自己満足だとしても、それが翔太君への想いから生まれたなら、僕は否定したくありません」
彩花の視線が龍道を射抜く。
「翔太の何を知ってるって言うんですか?会ったこともないくせに」
「知りません。でも、あなたが彼を想っていることは分かります」
「だったら、もっとマシな祈り方があるでしょ」
龍道が微笑む。
「では、教えてください」
彩花は答えず、走り去った。
三ヶ月後。田辺は思う。
おかしい。木嶋が最近静かだ。
「彩花が寺に通ってる」
「坊さんと付き合ってるらしい」
教室の噂話が聞こえた。
田辺の鉛筆が床に落ち、乾いた音を立てる。
その日の夕方、寺の境内。彩花と龍道が縁側に座っている。
「あの時の質問、まだ答えてもらってません」
「僕も昔、同じことを考えていました。大学生の頃、友人が亡くなって——」
龍道の声が震える。
「答えというより、意味かもしれません。人は皆、苦悩を抱えている。その苦しみから一瞬でも解き放たれる瞬間があるなら、それが祈りの意味です」
彩花の表情が変わる。攻撃的ではない、何かを渇望するような眼差し。
「でも、それって自分のためですよね?」
「ええ。だからこそ本気になれる。偽善的な博愛より、真剣な利己心の方がマシだと思いませんか?」
「……なんで、私の意見を聞くんですか?大人って、いつも答えを押し付けてくるのに」
「君の問いは本物だから。嘘がない」
彩花の目が潤む。
十月。
彩花が変わった。反抗的な口調が影を潜め、遠くを見つめる表情が増えた。
夕方の境内で、彩花が口を開く。
「私、気づいたんです」
「何に?」
「あなたは本当に人を救いたいと思ってる。だから迷ってる」
龍道の心臓が跳ねる。
「迷わないお坊さんって、自分のことしか考えてない。でも迷うって苦しいでしょ?その苦しみがあるから、困ってる人の気持ちが分かる」
龍道が微笑む。
「君の方が、ずっと僧侶らしいかもしれません」
「私が?問題ばっかり起こしてるのに」
「君は真実を求めてる。それが仏教の根っこです」
「でも、お経なんて信じてないですよ」
「信じる必要はありません。疑うことの方が大切です」
その夜。龍道の弟、禅が帰宅する。
「兄貴、変じゃない?」
沈黙の末、龍道が呟く。
「好きになってしまった人がいる」
「どんな人?」
「……高校生」
禅の箸が止まる。
「マジかよ。引くわ、兄貴」
「分かってる」
「でも」禅は兄の表情を見つめた。「本気なんだな」
職員室で田辺が考える。十八歳と三十歳。法的には問題ない。
それでも心に引っかかる何かがある。
でも一つだけはっきりしていた。彩花は確かに変わった。
十一月。金木犀が散る境内で、二人が並んで座る。
「私、あなたのことが好きです」
彩花の突然の告白に、龍道が目を見開く。
「でも、これが愛なのかも分からない」彩花が続ける。「好きっていう気持ちを愛って呼んでいいのか」
「どうして?」
「好きなのに、一緒にいると私が私じゃなくなる気がするから。これまでずっと、誰かに反発することで自分を保ってきた。でも、あなたには反発できない」
龍道は静かに頷いた。
「僕も同じです。君といると僧侶でいられなくなる。誰かを救うより、君のことばかり考えてしまう」
「あなたといると、すごく楽になる。でも、その楽さに慣れてしまったら——」
「君でなくなってしまう」
「そう。私、怖いんです。誰かに依存することが」
龍道は彩花の手をそっと取った。
「僕も怖い。君を愛することで、君を束縛してしまうことが」
二人が静かに笑い合う。
「愛してるから一緒にいられないって、おかしいですね」
「でも、それが本当の愛なのかもしれません」
龍道は彩花の手を握りしめる。
「愛って、相手を所有することじゃないですよね」
「そうです。君が君のまま、最も輝いていられること」
「だとしたら——」
「僕たちは——」
「付き合わない、ですね」
それは、深い理解に達した者だけが浮かべる、清らかな笑顔だった。
日が暮れる。金木犀のかすかな香りの中で、二人は最後の会話を交わした。
「でも、これって愛なんでしょうか」
「一番深い愛かもしれませんよ」
手が、そっと離れる。
彩花が立ち上がり、深々と頭を下げる。大粒の涙が、金木犀と共に地面に落ちる。
「ありがとうございました。初めて、愛するということを教わりました」
「こちらこそ。君からたくさん学びました」
茜色の夕日が二人を照らす。
赤黄色の絨毯の上に伸びた二つの影が、ゆっくりと、静かに離れていった。
彩花のその後はこちら
