【短編小説】小さき光が嫌われても
階段の手すりが冷たい。
田辺誠一は三階へ向かいながら、胸ポケットに入れた煙草を指先で確かめた。久野に会うのは二年ぶりになる。
317の数字が剥げかけたドアに貼り付いている。
「ああ、田辺」
ノックの前に声がした。この男は来客の足音で誰かを判別する。
「入れよ」
久野の部屋には本の匂いと、微かにコーヒーの香りが漂っていた。
「部屋番号を見たか?」久野が聞く。
「317か」田辺が振り返る。「なんでもない数字だろう」
「素晴らしい数字だ」久野がゆっくりとコーヒーを注ぐ。「六十六番目の巣数でな。面白いことに1を317個並べても素数になる」
「1を317個?」
「レピュニット数って知ってるか?111…ってずっと続けて317個。馬鹿みたいだろう?でも、そんな単純な繰り返しが素数になる。美しいじゃないか」
田辺は差し出されたカップを受け取った。湯気が立ち上る。
「吸ってもいいか」田辺は煙草を取り出した。
「官僚なのに、まだ辞めてないのか」久野が皮肉な笑いを浮かべる。
「お前、いつまでひきこもってるんだ」
「ひきこもり、とは失礼だな」久野の口元に微笑が浮かぶ。「俺はここから、世界を変えようとしているんだ」
「世界?」
「リーマン予想という問題がある。150年間、誰も解いていない。今年、アメリカの研究所が100万ドルの懸賞をかけた」
田辺は苦笑した。
「また数学か。お前、昔から変わらないな」
「変わらない?」久野の目に、一瞬鋭い光が宿った。「君こそどうなんだ。政府で15年、情報を分析して、何か変わったか?」
問いが胸に刺さった。田辺は煙草に火をつけようとして、やめた。
「俺は現実と向き合ってる」
「現実?」
久野が立ち上がり、壁際のホワイトボードに向かう。そこには田辺には読めない数式が書き連ねてあった。
「素数の話をしよう」久野がチョークを手に取る。「2、3、5、7、11…なぜそこに現れるのか、なぜここには現れないのか」
「それがどうした」
「君の仕事にも関わってるはずだ。暗号技術」
田辺は頷いた。セキュリティ関連の分析で、確かに素数は重要だった。
「でも誰も、素数の本当の規則を知らない」久野の手が動く。「リーマンは言った。ゼータ関数の零点が、全て一つの直線上に並んでいるはずだと」
複雑な数式がボードに現れる。
「意味がわからない」
「正直でいい」久野が振り返る。「世界の誰も、完全には分からない。でも、これが正しければ素数の分布が見える。宇宙の法則が」
「宇宙の法則?」田辺は鼻で笑った。「お前、やっぱり外に出ろ」
久野の手が止まった。
「外?」
「そうだ。プラトンの洞窟の話を覚えてるか?洞窟の囚人は影しか見えない。外に出なければ、本当の世界は見えないんだ」
「ああ、その話か」
久野がゆっくりと振り返る。その目に、田辺は見慣れない何かを見た。憐れみに似た、しかしもっと深いもの。
「田辺、君はプラトンを読み間違えている」
「何?」
「洞窟から出た男が、他の囚人に真実を語ろうとする場面がある。でも誰も信じない。それどころか、彼を殺そうとする」
田辺は黙った。
「真実を見た者は、必ず孤独になる。君はそれを知ってるはずだ」
胸の奥で、何かが軋んだ。
「でも、外に出なければ…」
「外?」久野が笑った。「君の言う外とは何だ?会社か?政府か?人間関係か?」
「そうだ」
「そこで君は何を見た?」
田辺は答えられなかった。
「俺はここで太陽を見つけた」久野が数式を指差す。「人間の作った嘘や駆け引きじゃない。純粋な真理を」
「それは逃避だ」
「逃避?」久野の声が低くなった。「君こそ逃避してるんじゃないのか」
「何から?」
「自分自身から。外の世界に答えを求めて、内側を見ようとしない」
田辺は立ち上がった。煙草の箱を握りしめる。
「俺は社会に貢献してる」
「貢献?」久野が近づいてくる。「君の分析で、誰かが救われたか?」
「…」
「俺の数学で、直接誰かが救われることはない。でも宇宙の真理に一歩近づく。それは嘘じゃない」
田辺は窓を見た。夕日が街を染めている。
「答えを教えてくれ」田辺が振り返る。「どちらが正しいんだ?」
久野は長い間黙っていた。
「正しさ、か」
「そうだ」
「もしかしたら」久野がゆっくりと言った。「太陽は一つじゃないのかもしれない」
「どういう意味だ?」
「君は外で光を探してる。俺は内で光を探してる。どちらも本物かもしれない」
田辺は煙草を口にくわえ、火をつけた。
薄暗いアパートの部屋に、小さな赤い光が灯る。
「光なんて、こんなもんじゃないか?」田辺が呟く。
「なにも照らさないよりはマシだ」久野が返す。
「嫌われても、小さくても」
階段を降りながら、田辺は久野の言葉を思い返していた。
「太陽は一つじゃない」
街に出る。人々が行き交う夕暮れの中を。みんな何かを探している。外で、内で、どこかで。
田辺は歩き続けた。答えは相変わらず見つからない。でも今日、問いが一つ増えた。それで十分なのかもしれない。
駐車場で、田辺は煙草に火をつけた。
老人が睨みつけ、咳払いをして通り過ぎていった。
