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【短編小説】曲がったことが大嫌い

桐島泰造は、曲がらない。

朝の大手町駅、人の流れが渦を巻く。スマホに夢中の男が歩いてくる。桐島は真っ直ぐ進む。肩がぶつかり、男の舌打ちが響く。なぜ、自分が避けなければならないのか。

通勤路、逆走自転車が迫る。桐島は歩き続ける。ベルが鳴り、怒声が飛ぶ。馬鹿を言え。正しい道を歩いているのは、自分だ。

信号が変わりかけた時、小学生が駆け出そうとした。桐島の手が瞬時に伸びる。

「大丈夫?気をつけて」

声は驚くほど優しかった。子供が見上げる。桐島が微笑む。

世界は、桐島にとって白と黒で塗り分けられていた。法がすべてを決める。未成年者は保護対象、成人は完全責任主体。グレーゾーンなど存在しない。法こそが唯一の真実。法こそが自分だ。

検事・桐島泰造、四十五歳。法と共に生きる男。


「横領事件ですね」

冬の陽が斜めに差し込む地検の執務室。桐島が事件ファイルを閉じる音が、静寂を切り裂いた。

「旗家錠一。証券会社総務部。五年間で二千七百万円の横領」

「初犯ですが、被害額からして懲役三年程度の実刑が妥当でしょう」田中検事の声が響く。

「いや」

桐島の声が低く響いた。

「これは五十四回の独立した犯行です」

田中の顔が青ざめる。

「まさか…併合罪で?」

「業務上横領、十年以下の懲役。併合罪処理なら理論上、最大三十年まで求刑できます」

田中は絶句した。横領で懲役三十年?
正気の沙汰ではなかった。

「桐島さん、それは…」

「法です」

桐島の声に、迷いは一切混じらなかった。


薄暗い取調室。蛍光灯が不安定に明滅している。桐島は旗家と向かい合った。

「バブルの頃は六本木で豪遊してました」旗家の声が震える。「毎晩が贅沢でした。崩壊後は総務部に左遷。年収三百万。ローンと生活費でギリギリで」

「それで横領を」

「一時的な借用のつもりでした。投資で倍にして返すはずだった。でも、相場は…」

桐島は淡々と記録を取った。動機など関係ない。遊ぶ金欲しさに横領をした—ただそれだけの事実があるだけだ。


「パパ、おかえり」

玄関で待つ美咲の笑顔が、桐島の心を溶かした。八歳の娘。この世で最も愛しい存在。

「今日は何を作ろうか」

「オムライス。ケチャップでハートを書いて」

キッチンで料理をしながら、桐島は冷蔵庫に貼られた娘の絵を見た。家族三人の絵。真ん中に空白があった。

「この人は?」

「ママ。でもママがいなくて、描けないの」

美咲の声が小さくなった。桐島の手が止まる。

「ママはいつ帰ってくるの?」

答えに迷った。

「ママは…遠くに行ってるんだよ。でも、パパがいるから大丈夫」

娘は黙って頷いた。その小さな肩に、重荷が載っているのを桐島は知っていた。

「パパ、愛してる」

「パパも愛してるよ」

娘を抱きしめながら、桐島は思った。
未成年者は保護対象。民法第820条が定める義務だ。しかし、それだけではない何かがある。
法では説明のつかない、何かが。


法廷の空気が重い。

「求刑いたします」

桐島が立ち上がる。検事としての使命の重さを感じる。

「被告人は五十四回の独立した業務上横領を犯しました。併合罪として処理すべきです。懲役三十年を求刑いたします」

法廷が凍りついた。傍聴席からは驚愕の声が漏れる。

人権派で知られる弁護人、佐藤雅人が立ち上がった。

「検事、二千七百万円で三十年とは、法の精神を逸脱しているのでは」

「私は法の条文に従っているだけです」

「法は人のためにあるものです」

「法の精神とは何でしょうか」桐島の声が法廷に響く。「それは条文に明記されているのですか」

「正義です。人間の尊厳を守ることです」

「条文に明記されていることが法です。それ以外は、個人的感情に過ぎません」

佐藤は首を振った。言葉を失っている。

「これは正義ではありません」

「法は、法です」

旗家は蒼白な顔で見つめていた。三十年。出所時には、人生が終わっている。


数日後、事務作業を終え、桐島は帰宅した。しかし玄関に明かりはなかった。

「美咲?」

返事がない。桐島は慌てて家中を探し回った。いない。どこにもいない。娘の笑い声が消えた家は、法廷よりも静かだった。

国際電話が鳴った。

「美咲は元気よ。でも、もうあなたとは会わせられない」

絵里子の声だった。懐かしく、そして冷たい。

「どういうことだ」

「あなたの求刑をニュースで見たの。たかが横領で三十年。あんな求刑、こっちでも聞いたことないわ。もう一緒にはいさせられない」

「それは誘拐だ。ハーグ条約違反だ」

「あなたの求刑を見れば、どの裁判所も私の判断を支持するでしょうね。美咲のことを考えたら、ニューヨークで育てる方がいい」

電話が切れた。

桐島は床に崩れ落ちた。涙が止まらなかった。正しいことをしたはずなのに。法に従っただけなのに。なぜ、最も大切なものを失わなければならないのか。


判決の前日、佐藤弁護士が新証拠を提出した。

医療費の領収書。旗家の母親の末期がん治療費。保険適用外の高額治療。横領開始時期と完全に一致していた。

「なぜこの証拠が今頃」田中検事が驚く。

「母親を巻き込みたくなかったと言っています。三十年と聞いて、被告人が考えを変えたのです」

田中が桐島を見る。桐島は書類を見つめていた。母親への愛。それもまた法では説明できない価値だった。


最終弁論の日。法廷は重苦しい空気に包まれていた。

佐藤が立ち上がった。

「被告人には深刻な情状酌量事由があります。母親の医療費のため、やむを得ない事情があった」

傍聴席がざわめく。旗家に希望の光が差した。

桐島が立った。法廷が氷河のように静まり返る。

「被告人の動機について新事実が判明しました」

旗家が顔を上げる。佐藤が前のめりになる。

「しかし」

静寂が深くなる。

娘の『パパ、愛してる』という声が聞こえる。愛。しかし愛とは何だ?個人的感情に過ぎない。法こそが普遍的な愛なのだ。社会への愛。秩序への愛。正義への愛。

桐島の手が震えた。正しさのために娘を失った。しかし、それでも—

「動機は量刑事由に過ぎません。正当な社会保障制度を利用すべきでした。五十四回の計画的犯行という事実に変わりはありません」

桐島の声に迷いはなかった。

「被告人に対し、懲役三十年を求刑いたします」

法廷が完全に凍りついた。時が止まったようだった。

旗家の絶望的な顔を見つめながら、桐島は思った。これが正義だ。これが法だ。

そして、これが自分だった。

桐島泰造は、曲がらない。



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