【短編小説】僕らは悩む。だからここにいる。
フラスコの中の細胞が分裂する瞬間を、雪乃兼作は息を殺して見つめていた。
「今だ」
顕微鏡から目を離さず、右手でストップウォッチを押す。三百六十二秒目。記録用紙に数字を書き込み、兼作は小さく息をついた。
同じ培養条件。同じ栄養素。同じ温度。それなのに、昨日の細胞は四百十七秒だった。先週のは三百八秒。
「なぜだ…」
三十四歳のポスドク研究者にとって、この「なぜ」は切実だった。任期はあと半年。論文の成果次第で、研究者としての道が続くか途絶えるか—それが決まる。
「何か見落としているはずだ」
兼作はノートに書き込んだ。同じ条件なのに、細胞はそれぞれ異なる時間で分裂する。何か未知の要因があるはずだ。
ガラス窓からは、春の柔らかな光が差し込んでいた。バブル崩壊後の大学は予算削減の波に揺れ、基礎研究の灯火は風前の灯だった。兼作の所属する生物学研究室も例外ではない。
「おい、まだやってるのか」
振り返ると、同僚の村田が立っていた。三つ年上で、来月から助教になる男だ。
「ああ、ちょっとした違和感があってね」
「君らしいな」村田は笑った。「僕なら、データをきれいに並べて、論文書いて、さっさと次のポジション探すけどな」
兼作は曖昧に微笑んだ。そういう処世術が、どうしても身につかない。
「そうだ、おめでとう。悦子さんのこと」
「ありがとう」
妻の妊娠を村田に話したのは一週間前だった。喜びと不安が入り混じる報せだったが、研究室では誰もが純粋に祝福してくれた。
「帰りが遅いと、奥さん心配するぜ」
村田が去った後、兼作は時計を見た。午後八時を回っている。悦子との約束は七時だった。慌てて片付けを始めたその時、携帯電話が鳴った。
「もしもし、悦子?」
「兼作、今どこ?」
「ごめん、もう片付けてる。すぐ行くよ」
「…病院から電話があったの」
兼作の手が止まった。二日前の検査結果だ。
「医師から直接聞いたほうがいいって。明日、一緒に行ってくれる?」
「もちろん」
そのまま研究室を後にした兼作は、地下鉄に乗りながら思考を巡らせた。確率。医師も口にしていた言葉だ。羊水検査で問題が見つかる確率は低いけれど、ゼロではない。
アパートに着くと、悦子は心なしか青白い顔をしていた。
「何も食べてないでしょ」と兼作は言った。「何か作るよ」
二人で黙々と夕食を食べながら、兼作は考えていた。昨日まで、研究のことで頭がいっぱいだった。細胞の振る舞いを予測できない不確かさに苛立っていた。けれど今、その不確かさは細胞の中だけではなく、自分の人生そのものにも存在している。
「何考えてるの?」
「ん?」悦子の声で我に返る。「ああ、ちょっと研究のこと」
嘘ではなかった。
「大丈夫」悦子は微笑んだ。「明日、一緒に行こう」
翌日の病院。医師の言葉は、研究者の兼作にとっては、両義的だった。
「検査結果には若干の異常値が見られますが、統計的には大きな問題を示唆するものではありません」
「確率的には、どのくらい…」と兼作は聞きかけたが、悦子の手が彼の手を握った。力強く。
医師は続けた。「確実なことは言えません。定期的な検査で経過を見ていきましょう」
帰り道、二人は言葉少なく歩いた。春の陽気とは不釣り合いな重さを抱えて。
「私、怖い」と悦子が小さく言った。
咄嗟に科学的な説明をしようとした兼作だったが、代わりに彼は妻を抱きしめた。顕微鏡では見えない、人間という存在の複雑さを感じながら。
翌日、兼作は再び研究室に戻った。顕微鏡を覗くと、細胞たちは相変わらず自分のペースで分裂している。
「同じに見える条件でも、微細な違いがある」と兼作は呟いた。「見えない要因が、常に影響している」
ふと、大学院時代のノートが目に入った。表紙には「生命の本質解明へ」と若々しい情熱で書かれている。ページをめくると、野心的な仮説と、途方もない理想が並んでいた。
「当時の僕は、生命を完全に理解できると思っていたんだな」
微笑ましい。だが同時に、何か大切なことを忘れていたようにも思える。
兼作は新しいノートを開き、書き始めた。
「細胞分裂における不確定要素の研究—生命システムにおける偶然性と必然性の共存について」
書きながら、兼作は顕微鏡をのぞき込んだ。細胞は静かに、しかし確かに生き続けている。完全に予測できなくても、それでも、生きている。
「僕らみたいだな」兼作は思わず呟いた。条件は与えられ、環境は整えられても、すべての存在が同じ道を歩むわけではない。
外では春の雨が降り始めていた。窓ガラスを伝う雨粒は、どれも同じ重力に従いながら、少しずつ違う道筋を描いていく。
兼作は思った。自分たちは、細胞と何が違うのだろう。
僕らは悩み、僕らは考える。それだけが、僕らがここにいることを、かすかに示してくれる気がした。
生きていくしかない。細胞も、自分も、そして—これから生まれてくる命も。
