【短編小説】ばあちゃんの信仰
桜の花びらが舞い散る四月の朝、みどりばあちゃんは今日も小さなお寺の石段を上っていた。
本堂に入り、静かに合掌する。背筋を伸ばし、目を閉じ、祈りの言葉を心の中で繰り返す。白髪を整え、着物の襟を正して、何かへの感謝を込めるように立っている。
「今日も元気でいますように」
祈りを終えたみどりばあちゃんは、静かに本堂を後にした。
境内の隅では、松本禅がそっとその姿を見送っていた。彼はこの寺の次男だった。
声はかけなかった。ただ、懐かしい背中を目で追った。
みどりばあちゃんが帰った後、松本は本堂で作務をしていた兄の龍道に尋ねた。
「みどりばあちゃん、まだ毎日来てるのか」
龍道は頷いた。「ああ、三十年以上、毎日欠かさずにね。雨の日も、雪の日も」
その言葉に松本は呟いた。「相変わらずだな…」
数日後、町の商店街で松本は偶然、みどりばあちゃんを見かけた。
重そうな買い物袋を下げ、足元をふらつかせながら歩いている。
思わず駆け寄ると、彼女が躓き、転びそうになった。
「大丈夫ですか?」松本が支えながら尋ねると、みどりばあちゃんは目を細めて笑った。
「ありがとう。あなたは……禅ちゃんね。懐かしい顔だねえ」
懐かしい呼び名に、松本は思わず微笑んだ。「毎日のお参り、大変じゃないですか?」
彼女は空を見上げ、桜の花びらが舞う様子をしばらく眺めていた。
「わたしにとっては、生きる意味そのものだからね」
その言葉が、胸に静かに降り積もる。
松本は、彼女の買い物袋を持つことを申し出た。
みどりばあちゃんは、遠慮がちに言った。
「実は今日は特別な日なの。病院に行かなきゃならないんだけど」
「今日はタクシーの仕事をしているんです。お送りしましょうか」
車窓から流れる風景に、みどりばあちゃんは時折「あの公園では息子がよく遊んでいたのよ」と懐かしそうに呟いた。
松本はハンドルを握る指にふと目を落とした。そこに、ひとひらの桜の花びらがそっと舞い降りた。
「息子さんは……」
「三十年前に亡くなったの」みどりばあちゃんの声は、風に溶けるように静かだった。「交通事故で脳死になって」
「でも、臓器提供で五人の命が救われたのよ」
窓の外を見つめながら、彼女は続けた。
松本の意識は、静かに流れを変えた。
幼い頃の記憶。本堂の朝もやの中、みどりばあちゃんの佇む姿。まだ子供だった松本は、毎朝の散歩の帰り道、寺の縁側に座って彼女を見ていた。
なぜあの人はいつも同じ場所で祈るのだろう。祈りの言葉は誰に届くのだろう。子供心に不思議だった。
雨の日の朝。風の強い日の朝。雪の朝も。みどりばあちゃんの後ろ姿はいつも変わらなかった。
「おばあちゃん、誰にお祈りしてるの?」と聞いたことがある。みどりばあちゃんは振り返り、優しく微笑んだ。
「みんなのためよ」と答えただけだった。
みんなって誰なのか。そのとき松本は理解できなかった。
あれから歳月が流れ、今、松本は初めて「みんな」が誰かを知った。
松本は言葉を失ったまま、ただハンドルを握り直した。
春の光がフロントガラス越しに車内をやわらかく包み込んでいた。
「お医者さんからは、個人情報は教えてもらえないの。でも、『五人とも元気です』とは教えてくれるの。それが、私の生きる力なんだよ」
言葉にできない感情が松本の胸を満たしていた。三十年という時間の重み。毎日の六人への祈り。
それは、彼女にとっての「信仰」だった。
病院に到着した。
「河原先生、いらっしゃるかしら」みどりばあちゃんは、受付の看護師に尋ねた。
「みどりさん、今年も来てくださいましたね」
みどりばあちゃんは松本に向き直る。
「毎年、この日だけは必ず来るんです。臓器移植の記録を見せてもらいに」
そして小さく頭を下げた。「ありがとう、禅ちゃん」彼女は、病院の中へ歩いていった。
松本はタクシーに戻り、ハンドルに手を置いたまましばらく動けなかった。
窓の外では、桜の花びらが静かに、静かに舞っていた。
数日後、松本が寺で座禅を組んでいると、本堂の方から静かな足音が聞こえた。
立ち上がり、本堂に向かうと、そこにはみどりばあちゃんの姿があった。
今日も彼女は六人のために、静かに祈りを捧げている。
祈りを終え、みどりばあちゃんと目が合った。
彼女はそっと微笑んだ。
「今日はどこかに行かれるんですか?」松本は尋ねた。
みどりばあちゃんは、境内に積もる花びらを見渡す。
「今日は、普通の日。どこにも行かないわ」
彼女は、桜の花弁を手に取った。五枚の花びらが、放射状に並んでいる。
「でも、きっと、五人の特別な日かも」
その言葉を聞きながら、松本は静かに空を仰いだ。
春の光が、境内いっぱいに広がっていた。
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