【短編小説】神マストダイ
神は、まだ死んでいなかったらしい。
死んでいるなら、世界はもっとマシなはずだ。
翔のスティックが弾け飛び、右手から血が滲む。客はスマホを見ている。ふざけるな、音楽はBGMじゃない。止めてやるか。
「God must die! God must die!」
拓海の声が地下の空気を裂く。蛍光灯がチカチカ痙攣して、十二人の観客を照らす。誰も俺たちなんて見ていない。どうせ、前座だ。
健太のギターがフィードバックで悲鳴を上げ、大輔のベースが床を這う。
「God is dead!」
スマホと片手の鈍い拍手が、最後の余韻すら殺す。後列にいるワイシャツの男だけが、じっと見つめていた。
犬小屋のような楽屋で、「ウーバーメンシュ」の四人は缶ビールを開ける。
「NSN47の武道館、三分で完売だってさ」大輔がスマホを見ながら吐く。
拓海が壁を蹴る。「ふざけんな。あんなの音楽じゃねえ」
「でも、売れてる。俺たちの十万倍」翔が呟く。
「売れてるから何だよ」
「まあね。でも食えない」
翔の携帯が光る。深夜のコンビニバイトのシフト表。高校を辞めてから、ずっとこれだ。
渋谷の夜が蠢く。ネオンが街を染めて、NSN47の新曲が垂れ流される。
『会いたかった〜、会えなかった〜、VIBE!』
「還暦近いおっさんがこの歌詞書いてるんだろ、キモいよな」健太が顔をしかめる。
「どうせゴーストライターだろ」大輔が唾を吐く。
「握手券がなきゃ何も売れない。キャバクラじゃねえか」拓海が呟く。でも心の奥で知っている。俺たちが彼女たちを叩くのは、結局嫉妬だ。
嫉妬。周りは皆大学生活を楽しんでいる。進学校を辞めてまでこの道を選んだのに、嫉妬?自分がダサくて笑えてくる。
「ファンもバカだよな」翔が毒を吐いた。
「拓海?」
振り返ると、ワイシャツの男が立っている。この顔には見覚えがある。
「田辺先生」
三年ぶりの声。倫理の授業。ニーチェの『善悪の彼岸』。
「久しぶりですね」田辺が微笑む。「バンドをやっていると、後輩から聞いて」
「先生の授業、覚えてます」拓海が胸を張る。「僕ら、ニーチェの『神は死んだ』を実践してるんです」
「実践」田辺が呟く。「そうですか。授業を覚えていてくれて、嬉しいです」
やっぱり分かってくれる。俺たちは本物を知っている。
「ところで」田辺が続ける。「神を殺した後、君たちは何を見つけましたか?」
「自由です」拓海が答える。「権威から解放されて」
「自由」田辺が頷く。「でも、自由って何でしょうね」
拓海の言葉が詰まる。
「さっき、アイドルグループの話をしていましたね」田辺の声が静かになる。「彼女たちをどう思いますか?」
健太が前に出る。「クソですよ。本物じゃないです」
「本物」田辺が繰り返す。「では、本物って何でしょう?」
四人が顔を見合わせる。
「私もよく分からないんです」田辺が夜空を見上げる。「それが本物かどうか、誰が決めるんでしょう?」
翔が震え声で言う。「俺たちは、ちゃんと音楽やってます」
「そうですね。それは素晴らしいことです」田辺が振り返る。「でも、なぜ音楽をやるんですか?」
「それは…」
「売れたいからですか?認められたいからですか?」田辺が問いかける。「それとも、他に理由が?」
沈黙が降りる。
拓海は自分の心の奥を覗く。なぜ音楽をやっているのか?ただ逃げているだけなのか?
「私には、分からないんです」田辺が呟く。「でも、君たちは何かを探しているように見えます」
拓海の膝が震える。
「もしかすると」田辺が続ける。「探しているものが見つからないから、苦しいのかもしれませんね」
健太が叫ぶ。「じゃあ、どうすればいいんですか?」
「分からないんです」田辺が振り返る。「だから、考えるんです」
四人が息を呑む。
「でも」田辺が続ける。「一つだけ聞かせてください。同じ人生を永遠に繰り返すとしても、君たちは音楽を選びますか?」
誰も答えられない。
「今度、もう少し話しませんか」田辺が名刺を差し出す。
田辺が去ると、四人は立ち尽くす。
「何だったんだ、あれ」健太が呟く。
「分からん」
電車の中で、四人は沈黙する。窓に映る自分たちの顔が、やけに幼く見えた。
翔が呟く。「俺たち、何やってるんだろう」
「何って?」
「高校辞めて、バイト掛け持ちして。で、何してるんだろう」翔の声が震える。「同級生はもう就職決まってるやつもいるのに」
健太が続ける。「要するに、俺たちって負け組じゃない?」
大輔が窓を見つめる。「家族に何て言えばいいんだ。『バンドやってます』って、いつまで言い続けるんだ」
拓海も黙り込む。同級生の顔が浮かぶ。みんな大学で充実した日々を送っている。なのに俺は何をやっているんだ。
「音楽やる理由、分からなくなった」翔が呟く。
拓海が答える。「俺も。批判ばっかりして、結局逃げてただけかもしれない」
「逃げて?」
「現実から。就活から。普通の人生から」
長い沈黙。
健太が口を開く。「でも、やめたくない」
「なんで?」翔が振り返る。
「分からん。でも、やめたくない」
大輔が続ける。「どうせ売れなくても?」
「売れなくても」
拓海が言う。「意味が分からなくても?」
「分からなくても」
三日後。同じライブハウス「VOID」。観客は八人。
「次の曲で最後です」拓海がマイクを握る。
いつもの「God is dead」を始める。でも何かが違う。今度は叫ばない。呟くように歌う。
翔のドラムが心臓を刻み、健太のギターが風を紡ぎ、大輔のベースが意志を支える。
前は怒鳴っていただけだった。でも今は、音が誰かに届くことを願っていた。
最後の音が響く。
静寂。
そして、八人全員が拍手する。今度はステージを見て。
犬小屋のような楽屋。いつもの缶ビール。
「何も変わらないな」健太が呟く。
「でも、何か変わった」拓海が答える。
「何が?」
「分からん。でも、変わった」
意味がなくても、続けようと決めた。
少しだけ、何かを超えたのかもしれない。
世界の神は、まだ生きている。
でも、僕らの神は、死んだらしい。
