【短編小説】売れない芸人の神話
中橋雄二はマイク前に立ち、恒例の自己紹介をした。「どうもー!!笑いの神話、バシナカです!」
会場の数十人ほどの客は、ほとんど彼に注目していない。スマホをいじる若者。腕を組んで目を閉じる中年男性。ただ、眼鏡の男だけが静かに見つめていた
「最近AIアシスタントが便利すぎて…『ねえ、今日の夕飯何がいい?』って聞いたら、『あなたの笑顔が見たいです』って返ってきて…」
中橋は間を取った。
「いや、飯を作れよ!笑顔は腹膨れないから!」
沈黙。
「あと、政府の新しい福祉政策もAIアシスタントが実装されたじゃないですか。あれ、僕の母親が『息子みたいに返事してくれるから嬉しい』って。いや、実際の息子の方がこっちなんですけど!」
ポツリと咳払いが聞こえるだけ。
二十分のネタが終わるまで、笑いは一度も起きなかった。そしてこれが中橋の二十年間だった。
水野陽介は「エイデス」のカウンターで雨音を聞きながらウイスキーを飲んでいた。村上という店主は天体写真家で、雨の日の夜だけ、バーを開いていた。
ドアが開き、ずぶ濡れになった中橋が入ってきた。水野はすぐに彼を認めた。
「あの、すみません」水野が声をかけた。「先週のライブ、見させてもらいました」
中橋は驚いた表情を浮かべた。「あ、ありがとうございます」
「僕、笑いって大事だと思うんです」水野は急に真面目な顔になった。「前の会社の頃、笑いに救われたことがあって」
「そうですか…」中橋は困ったように笑った。「でも僕、今日も全然笑い取れなくて…」
「でも、毎週新しいネタ考えてるんですよね?」
「はい。次こそは笑わせられると思って」
「ギリシャ神話に、ある男の話があります。」水野はグラスを傾けた。
「彼は大きな岩を山頂まで押し上げ続ける。頂上に着くたび、その岩は下に転がり落ちる。不条理ですよね。それでも彼は何度でも押し上げる」
「...なんだか、僕のことみたいですね」中橋は苦笑した。
「その姿、格好いいと思います」水野は遠くを見るように言った。
「僕もそれに似た経験がありますよ。何度もやり直す。それがいい」
それから雨の日が来るたび、中橋はエイデスに足を運んだ。水野も会うたびに、自分の研究の失敗談や成功談を語った。初めのうちは気まずい沈黙もあったが、次第に二人の会話は自然になっていった。
「研究ってね、ほとんど失敗なんですよ」ある雨の夜、水野は笑った。「でも、その失敗から何かを学ぶ。それが大事なんです」
中橋はうなずいた。彼は初めて、自分の「売れない」という事実を別の視点で見ていた。
三ヶ月後、水野の会社は創立記念パーティーを開き、水野は余興として中橋を推薦した。
「あの...本当に良いんですか?」中橋は不安げに尋ねた。「私、笑いを取れないかも」
「大丈夫です」水野は微笑んだ。「ただ楽しんでください」
パーティー当日、中橋は水野との雨の夜の会話から着想を得たネタを披露した。
「みなさん、僕は二十年間売れないお笑い芸人をやってます。そう、実験結果で言うなら『大失敗』ですね。でも、水野さんに言わせると『それこそ研究の本質』らしいです。つまり僕は芸人じゃなくて『科学者』だったんですね!」
会場から笑いが起きた。中橋は一瞬驚いたが、続けた。
「この前、『薬って儲かるんでしょう?』って聞いたら『売れない方がみんな幸せです』って。僕、なぜか涙が出てきました!」
笑いは大きくなった。中橋は水野を見つけ、目で感謝を伝えた。
次の雨の夜、二人は再びエイデスで会った。
「なぜ今日は笑ってくれたんでしょう」中橋は不思議そうに尋ねた。
「わからないけど」水野は肩をすくめた。「もしかしたら、笑わせようとするのをやめたからかも。あなたが本当に感じていることを話したから」
中橋は黙って考え込んだ。確かに彼は、笑いを取ることだけを考えていなかった。彼は単に、水野との会話を楽しんでいただけだった。
「水野さん、僕はこれからも続けるよ。たとえ岩が何度転がり落ちても」
「それが一番だと思います」水野も笑った。「僕も研究、続けますから」
窓の外で村上が空を見上げていた。雨が止み、星が見えはじめている。
「今日はもう店じまいだ。帰った帰った」
「まだ飲んでるじゃないですか!」
中橋の表情には、不条理を受け入れる、確かな笑みが浮かんでいた。
