【短編小説】運命はかように扉を叩く
四つの鼓動が、シャロウンの空間に鳴り響いた。
運命はかように扉を叩く、ベートーヴェンはそう言った。
指揮棒が宙に止まり、最後の音が空間に消えていく。大澤隆はお辞儀をしながら、静寂の重みを感じていた。
ベルリン・フィルハーモニー。三年前、初めてこの街に降り立った日から憧れ続けた殿堂。でも、それはこの場所ではない。この楽団ではない。
「小ホール」が、拍手に満ちた。
彼は、その響きに満足できないでいた。
携帯が鳴り響く。
大澤は、楽屋で燕尾服を脱ぎながら、電話に出る。
「お疲れさま。いつもの場所で待ってる」
雪音の声。いつものように、穏やかで少し遠い。
ブランデンブルク通りの小さな日本料理店は、夜の静けさに包まれていた。雪音は林と並んで座り、温かいお茶を飲んでいる。結婚して十年、ピアニストと研究者の夫婦。二人の間には、長い時間が作り出した静かな理解があった。
「今夜の演奏は素晴らしかった」林が言った。「特に第三楽章の、あの静寂の作り方」
大澤は微笑んだ。しかし、その笑顔の奥に何かが引っかかっていた。
「でも最近、自分がここにいることの意味を考えてしまう」
雪音が箸を止めた。
「意味?」
「この街で音楽を作ることの意味。三年経っても、まだ答えが見つからない。ベルリンフィルを振るなんて、まだ夢のまた夢だ。いつまでここにいるんだろう」
林は少し考えてから言った。
「僕はここで二十年研究を続けているけど、本当の故郷が分からなくなった。きっと君もそうなる。でも、悪いことじゃないさ」
雪音は何も言わなかった。彼女にとって、この街は生まれ育った場所。でも周囲からは「日本人」として見られる。その複雑さを、彼女は言葉にしたがらない。
店の扉が開き、一人の日本人男性が入ってきた。明らかに旅行者の装い。きょろきょろと店内を見回した後、驚いたような顔をした。
「すみません」
その男性が三人のテーブルに近づいてきた。
「もしかして、先ほどのコンサートで指揮をされていた方でしょうか」
大澤が頷くと、男性は深くお辞儀をした。
「本当に素晴らしい演奏でした。特にベートーヴェンの第四楽章、胸が震えました」
「ありがとうございます」
雪音が席を勧めた。男性は恐縮しながら座る。
「実は明日、帰国予定なんです。最後の夜に日本の方にお会いできて嬉しいです」
「帰国前の最後の料理が日本料理で良いんですか?」大澤が聞いた。
「ドイツ料理が胃にもたれてしまって」男性が苦笑する。「でも、皆さんに会えたから、アイスバインに感謝ですね」
「あれは慣れないと重い」林が笑う。
「お仕事は?」大澤が聞いた。
「高校で教師をしています。今回が生まれて初めての海外旅行で、毎日が驚きの連続でした」
男性は少し照れたように笑った。
「皆さんは、こちらにいらしてどのくらいになるんですか?」
「三年です」大澤が答えた。
「二十年」林が続けた。
雪音は静かに言った。
「ずっと、ここで」
男性は興味深そうに三人を見つめた。
「故郷を離れて暮らすということが、どういうことなのか、僕にはまだ想像がつかないんです。一週間でも、もう日本が恋しくて」
大澤は湯飲みを両手で包んだ。温かい。
「最初は、すべてが新鮮で刺激的でした。でも時間が経つと、自分がここにいる理由を探してしまう。まだ、この街が自分の場所だという感覚がないんです」
「僕の場合は」林がゆっくりと言った。「長くいすぎて、今度はどちらが本当の家なのか分からなくなった。東京に戻ると、逆に違和感を覚える。でも、ここにいても、完全には馴染めない」
雪音は窓の外を見つめていた。街灯が雨に濡れた石畳を照らしている。
「私は、日本に住んだことがありません。だから、皆さんとは少し違うかもしれません」
三人が雪音を見た。
「でも、時々、自分がどこの人間なのか分からなくなることがあります」
四人は沈黙した。
「日本は今、どんな様子ですか?」大澤が聞いた。
「平穏です。ただ学生を見ていても、みんなが漠然とした不安を抱えているような気がします」
四人は日本の話をした。懐かしい場所の話、変わっていく街の話、変わらない人々の営み。三人は、久しぶりに故郷のことを思い出していた。
「お名前を」別れ際、男性が名刺を差し出した。
田辺裕一。
「また、お会いできれば」
田辺は丁寧にお辞儀をして帰っていった。
翌朝、大澤は電話の音で目を覚ました。
「テレビをつけて」
雪音の声が震えていた。普段の彼女からは想像できないほどに。
画面に映ったのは、黒い水だった。
街を、家を、車を、人を飲み込んでいく巨大な水。現実とは思えない光景だった。
発電所から白い煙が立ち上っている。アナウンサーが何かを説明しているが、言葉が頭に入ってこない。
いつものカフェで、三人は無言でテレビを見つめていた。同じ映像が何度も繰り返される。津波、崩壊する建物、避難する人々。ドイツ人の客たちも、食事の手を止めて画面を見つめている。
「連絡は?」雪音が小さく聞いた。
「つながらない」大澤が答えた。
「僕も」林が言った。
雪音は何も言わなかった。彼女には、安否を確認する家族がいない。
テレビでは、白煙を上げる発電所の映像が流れ続けている。何かを訴えるように、執拗に。
「なんで、こんなことになったんだろうな」林の声は沈んでいた。
「日本の技術って、世界一だと思ってたのに」大澤が呟いた。
「昨日まで、『平穏な日本』について語っていたのにな」林が天井を見上げた。
「あ、田辺さん」雪音が思い出した。
昨夜の名刺を取り出して電話をかける。
「空港にいます。どの便も欠航で」疲れ切った声が出た。
「迎えに行きます」
一時間後、四人は同じテーブルに座っていた。
田辺の顔は青白い。しかし、その表情には恐怖を超えた何かがあった。
「昨夜まで、僕たちは笑って話していました」田辺がゆっくりと言った。「それなのに」
テレビでは津波の映像が流れ続けている。
「僕は、今、ここにいます。なぜでしょう」
その問いかけに、誰も答えられなかった。
大澤は自分の手を見つめた。昨夜、ベートーヴェンを指揮したこの手。今は、何も掴むことができない。
「正直に言います」大澤が静かに言った。「一瞬、安堵してしまいました。日本にいなくて良かったと思ってしまった。それが一番つらい」
田辺が深く頷いた。
「僕もです。運が良かったと思ってしまった。旅行に来ていてラッキーだったと。あの一瞬」
林の声は、震えていた。
「僕は、二十年もここにいて、この瞬間も日本にいない。みんなと同じ苦しみを受けていない。僕は、日本人なのでしょうか」
雪音は、静かに林の手を握った。
四人は沈黙した。
太陽が街を照らしていた。ベルリンの三月にしては、暖かい日だった。
「今、僕たちはここにいる」林が呟いた。
そうだった。明日も、明後日も、ここにいる。
なぜ自分たちだけが、この暖かい場所にいるのか。
運命は扉を叩いた。遠い故郷で。
その音は確かに、ここまで届いていた。
