【短編小説】底なし沼にも底はある
ポケットには、1111円が入っていた。
ゾロ目だ。きっと良いことがある。そう思えるうちは、まだマシなのかもしれない。1000円札一枚と小銭が111円。東京競馬場で給料全てを溶かした俺の、最後の残骸。
25万円を失ったのに、何も感じなかった。
また底だ。いつもの「底」。
電車賃すら惜しい。もうギャンブルはやめると誓いながら、家まで歩く。
足取りは重い。帰っても赤紙が待っている。家賃滞納の最終通告。消費者金融からの留守電。いつものこととはいえ、気が滅入る。
翌日、人事部から連絡があった。
「城田くん。構造改革のため、君の部署は縮小される」
十三年間が一枚の紙切れに要約される。どうやら人生とは軽いものらしい。
それでも、解雇通知を馬券より重く感じたのは、まだ俺が正常な証拠だろう。
「底」の奥にはまだ「底」があった。
いや、「底」はなかった。これは底なし沼だ。
土曜の朝。アパートで天井を見上げていると、腹が鳴った。そういえば、競馬で負けてから何も食べていない。
仕方なく外に出る。飯を買いに行くはずなのに、足はパチンコ屋へ向かった。俺にとっては家よりも居心地の良い聖域。
角の台に、高岡がいた。
壮年の男で、職業は知らない。たまに会話をする程度の関係。すべてを達観しているかのように、流れる玉を見つめている。
俺は隣の台に座り、1000円札を投入した。
111円が手に残る。まだ、ゾロ目だ。
「また負けたのか」
高岡が玉を打ちながら、こちらを見ることもなく言った。
「ええ、まあ」
勘の良い男だ。「また」という言葉が俺の人生を端的に要約している。懲りない反復こそが、俺という人間の本質なのかもしれない。
高岡は何も言わず、黙々と玉を打ち続けている。
二時間ほど経った時、空になった俺のドル箱を見て高岡が呟いた。「すべては流れるだけだ」
その時、携帯が鳴った。母からだった。
「雄一、お父さんが倒れた。医者が、もう長くないって言ってる」
心臓が激しく鼓動し始めた。
「分かった。今から行く」
思考より先に、言葉が口から出ていた。
サラ金にはもう借りれない。金を貸してくれた友人は皆去って行った。親に金を無心しても、入金は週明けだ。
パチンコ屋を出て歩き始める。国道を北へ向かう。考えてみれば無謀な話だ。111円で何ができるというのか。
三時間ほど歩いた頃、寒さが身に染みてきた。耐えきれず、自販機で缶コーヒーを買った。手のひらに伝わる温かさが、ありがたかった。
残りは11円。10円玉1枚と、1円玉1枚。
歩き続けた。時折、親指を立てて車に合図する。当然、誰も止まらない。こんな男を乗せる物好きなど、いるはずがない。
父の顔を思い出そうとしたが、うまく思い出せない。最後に会ったのはいつだったろう。借金の話をしに行った時だったかもしれない。あの時の父の顔は、疲れ切っていた。
雨が降り始めた。小雨だったが、次第に強くなってくる。
そのとき、車が止まった。
高岡だった。
「どこへ行く」
「青森の病院です」
「俺も同じ方向だ。乗れ」
「なんで青森に?」
「急な取引があってな」
車内は温かく、ラジオからピアノの音が流れている。「加藤雪音の演奏だ。バッハは落ち着くだろ」高岡はそう言った。
車は静かに北へ向かった。ワイパーが規則正しく雨を払う音だけが響く。
途中、サービスエリアで車を停めた。高岡はコーヒーを二つ買ってきて、俺に一つ渡した。
「ありがとうございます」
「父親とは、どんな関係だった」
「最悪です。金の無心ばかりしてました」
高岡は頷いただけで、何も言わなかった。
「取引先って青森のどこにあるんですか?」俺は高岡に聞いた。
高岡は答えなかった。
車は再び走り出した。夜の高速を、高岡は黙々と運転している。バッハの旋律が、妙に響いた。
青森の病院に着いたのは、深夜だった。
母がICUの前のベンチで眠っていた。看護師に起こされて、俺の姿を見ると目を丸くした。
「どうして…」
「なんとか来れた」
俺は父の病室に入った。人工呼吸器に繋がれた父の顔は、ひどく小さく見えた。手を握ると、冷たかった。しかし、かすかに握り返してくれたような気がした。
「親父、雄一だ。来たぞ」
父の瞼がわずかに動いた。聞こえているのだろうか。俺は父の手を握り続けた。こんなに長く父の手を握ったのは、子供の頃以来かもしれない。
三時間後、父は静かに息を引き取った。俺はその瞬間を見ていた。
「来てくれて良かった」
母は涙を流しながら言った。
俺は何も答えられなかった。
翌朝。母と一緒に、病院の小さな地蔵にお参りをした。俺は残りの11円を見つめていた。10円を賽銭箱に投げ入れる。
高岡の滞在するホテルに向かう。
高岡は帰り支度をしていた。仕事の資料があるようには見えなかった。
「あなたは、何者なんですか」ついに聞いた。
「昔はK商事の鬼と呼ばれていた」高岡は静かに答える。
「世界を動かしているつもりでいた。要は、奢っていたんだな」
俺は黙って聞いていた。
「気づいたら、両親はいなくなっていた。そして、バブル崩壊ですべてを失った」
高岡はジャケットを羽織った。
「だが、得たものもある。自分でコントロールできることと、できないことの区別。だからこそ思う。限界に向き合えば、人は変わるかもしれない」
俺は、思いを口に出した。
「俺は何も変わらなかった。親父の死に向き合ったのに」
「何かが変わることを、期待していたのか」
高岡の眼差しは鋭かった。
そうだった。父の死に立ち会えば、何かが変わると思っていた。
ホテルのロビー。別れ際、俺はついに疑問をぶつけた。
「なんでここまでしてくれたんですか」
沈黙が続いた。やがて高岡が口を開く。
「かつての俺が、もっと早く限界に向かい合っていたら。それが気になってな」
「納得する結果にはなったんですか」
「残念ながら、まだ結果は出ていない」高岡は静かに笑みを浮かべた。
「取引なんて、嘘でしょう?」
「ビジネスのタブーはなんだと思う?嘘をつくことだ」高岡の目が真剣になる。
「『これ』が取引だ。報酬はもらうぞ」
俺は呆気に取られた。そうか、取引先は、俺か。
「すいません、今は、金ありません」
俺は慌てて答えた。
「ポケットにあるだろう。何せ、君は昨日から服を着替えていない」
俺はポケットを探った。1円玉が1枚。
「それで良い」
俺は1円玉を差し出した。高岡はそれを受け取ると、親指で弾いた。
「これで君は完全に文無しだな。『ゼロからのスタート』ってやつだ」
高岡は初めて、声を出して笑った。
「君は自分が変わらないことを知った。それが始まりだ」
三ヶ月後、俺は高岡の小さな貿易会社で働いていた。
ギャンブルの誘惑は今もある。だが、それが現実逃避であることが、ようやく分かってきた。
ある日、高岡が出張の件を持ちかけた。
「青森だ。行けるか」
「はい」
東京駅までの道中、俺は考えた。
どう変わるかについて。
俺は歩き続けた。
歓声と罵声の入り混じった叫びが聞こえ、俺は立ち止まった。どうやら、いつのまにか場外馬券場を通りすぎたらしい。
「底なし沼にも、底はあるんだな」
生温い風が頬を撫でていく。
父が死んで、俺は生きている。
そして俺は、また歩き始めた。
