【短編小説】英雄のカフェイン摂取が増えた理由
俺は、英雄じゃない。もうたくさんだ。
その言葉を、何度頭の中で繰り返しただろうか。岡崎太一は悩んだ末に、探偵事務所の扉をノックした。
三ヶ月前。岡崎太一は夜勤の消防署で、三杯目のブラックコーヒーを啜っていた。三十二歳、救急歴九年。平凡だが、正義感だけが武器だった。
午前四時半、湾岸東部を震動が走った。
メタル工業の第三工場が爆発した。炎の音が轟き、夜明け前の静寂を引き裂く。
「岡崎、行くぞ」
相棒の宇治原が運転席でハンドルを握る。サイレンが夜明けの街を切り裂いていく。
現場は想像以上に酷かった。鉄骨が曲がり、コンクリートの破片が散弾のように飛散し、空には黒煙が立ち上っている。岡崎は迷わず炎の中に飛び込んだ。一人、二人、三人。気がつくと五人の夜間作業員を救出していた。
「すげえな、岡崎」宇治原が感心する。「お前、今日は冴えてるじゃないか」
岡崎は煤けた顔を拭い、苦笑いした。「別に、いつもこうだろ」
その夜のニュースで、岡崎は小さく取り上げられた。「工場爆発で五名救出、救急隊員の活躍」という三十秒のVTR。
岡崎は、少し誇りに思った。
翌々日、岡崎は新聞を読んで眉をひそめた。爆発から三日も経たないうちに、ディベロパーの東帝不動産が「跡地活用計画」を発表している。
「なんかタイミング良すぎない?」
同僚の宇治原が肩をすくめる。「よくある話じゃない?企業は素早いから」
それからが、運命の歯車の始まりだった。その週末、突然、朝の情報番組から出演依頼が来た。
「岡崎さんの勇敢な救助活動を、ぜひ全国の皆さんに」
スタジオは眩しく、司会者の笑顔は作り物めいていた。岡崎は緊張しながらも、事実を淡々と語った。しかし放送された内容は、彼の記憶とは微妙に異なっていた。
「死を覚悟して炎に飛び込んだ」「市民の安全のために体を張った」「真のヒーロー」
岡崎は首をかしげた。そんな大げさな話だっただろうか。
それから事態は加速した。
まず夕方の報道番組だった。次に深夜のバラエティ。週刊誌の記者が消防署まで押しかけてきた。
そして、CM出演の話まで舞い込んだ。インスタントコーヒーのエスカフェ。「頑張る人のコーヒーを、現場で支える英雄に」というキャッチコピー。「公務員は副業禁止」と断ったが、署長がすでに話をまとめていた。
さらに奇妙だったのは、東帝不動産からの連絡だった。「新・湾岸プロジェクト」のPRイベントに、地域復興のシンボルとしてゲスト出演してほしいという。工場爆発の被害地を開発する会社が、なぜ自分を呼ぶのか。
「岡崎さん、今度は青木厚生労働大臣との対談番組です」
テレビ局のディレクターが嬉しそうに告げる。岡崎は困惑した。自分はただ、目の前の人を助けただけだ。なぜこんなことになっているのか。
爆発現場の工場は、早くも解体され始めている。自分を祭りあげることで、何を企んでいる?
爆発事故から一ヶ月後。岡崎は探偵事務所の扉を叩いた。
「工藤南子です。どんなご相談でしょうか」
南子は、岡崎の話を真剣に聞いた。
「つまり、この祭りあげられ方が異常だと?」「ええ。裏があるような気がして」
工藤は頷いた。「東帝不動産、調べてみましょうか」
一週間後、工藤が持参した調査結果は、岡崎の予想を完全に裏切るものだった。
「陰謀は…ありませんね」
工藤は困ったような顔をした。
「東帝不動産の再開発の件も、元から決まっていたようです。メタル工業の工場も老朽化で移転するつもりだったと」
岡崎は唖然とする。
「ただ、面白いことがわかりました。誰も連絡を取り合っていないのに、みんながあなたを利用したがっているんです」
「利用?」
「テレビ局は視聴率が欲しい。広告代理店は英雄のイメージが欲しい。政治家は庶民派アピールがしたい。出版社は感動実話を売りたい。ディベロパーは『希望のシンボル』で付加価値をつけたい」
工藤は資料を広げた。
「でも誰も悪意はないんです。みんな『いいこと』だと思ってる。ただ、たまたまあなたが全員にとって都合がよかっただけです」
岡崎は余計に背筋が寒くなった。つまり、自分は誰かの意図で祭り上げられたのではない。ただ、無数の思惑が偶然一点に収束したのだった。
それから一ヶ月。転機は突然訪れた。
隣県で子猫を救出した女性消防士の映像が、SNSで爆発的に拡散された。若くて可愛らしく、映像も完璧だった。
同じ週に、岡崎が路上でタバコを吸う写真が週刊誌に載った。「英雄のイメージと違う」「歩きタバコする救急隊員」という見出しつきで。
電話が鳴らなくなったのは、それから三日後だった。
番組キャンセルの連絡が相次いだ。
「岡崎さん、申し訳ないんですが番組の方向性が変わりまして」テレビ局のプロデューサーは申し訳なさそうに言った。「視聴者も飽きてるし、新しい話題も出てきたし」
岡崎は受話器を置き、深く息をついた。窓の外では、東の空が夕焼けに染まっている。
三ヶ月後。
夜勤の消防署で、岡崎は四杯目のコーヒーを飲んでいた。前より多く飲むようになったのは、エスカフェから贈られた豆が余っているからだ。あれだけ騒がれて結局手元に残ったのは、それだけだった。
無線が鳴った。
「湾岸東部で交通事故。負傷者三名。至急現場へ」
「了解。みんな、行くぞ」
岡崎はコーヒーカップを置き、救急車へと走った。宇治原達も乗り込み、シートベルトを締める。サイレンが、再び街を駆け抜けていく。
俺は、ただの救急隊員だ。それでいい。今日も誰かが助けを求めているなら、ただ行くだけだ。
東の空は、いつものように静かに明けていく。
英雄達が、現場に向かっていった。
