【短編小説】さよならパーティー、もう抜けようよ
グラスが高らかに触れ合う音が、青木健太郎の耳に響く。彼はネクタイの締め付けを少し緩め、息をついた。ホテルの会場は柔らかな光に満ちていたが、どこか息苦しさを感じていた。
三年前、メディアは彼を「政界の新風」と呼んだ。初めて国政選挙に当選したあの高揚感は、今どこにあるのだろう。
「この度のご支援、まことにありがとうございます」
青木は完璧な笑顔を浮かべながら、建設会社重役の杯と自分の杯を合わせた。この笑顔も、この立ち振る舞いも、三年間で身についた技術だった。
初当選直後の自分の政治資金パーティーを思い出す。あの時も同じように頭を下げ、同じように感謝を述べた。胸の奥が重くなる。
会場の一角に佇む女性の姿が、青木の目を引いた。西園寺真理子。先月、西園寺グループの当主となったばかりの彼女は、どこか異質な存在感を放っていた。凛とした佇まいに、青木は一瞬見惚れる。
しかし次の瞬間、自分を疑った。彼女の美しさに惹かれているのか、それとも「西園寺」という名前に?
「西園寺様」
青木が声をかけると、真理子は静かに目を向けた。
「青木議員」彼女の声は落ち着いていた。「鷹野先生にはいつもお世話になっています」
「こういう場所は、息苦しくないですか」青木は思わず尋ねていた。
真理子の表情がわずかに緩んだ。「伝統には重みがありますね。時に、その重みは人を押しつぶしそうになる」
青木は会場を出た。外の風を浴びたかった。
そのとき、廊下の向こうから聞こえる声に足を止めた。
「来月の高速道路拡幅工事、御社に優先配分できると思いますよ」鷹野議員の声だった。
「ありがとうございます。来週の献金は、前回より増額させていただきます」建設会社社長の声が続いた。
青木の胸に冷たいものが広がった。三年前の自分の姿が脳裏によぎる。
次の日、鷹野議員が青木の事務所を訪れた。
「昨夜はお疲れさまでした」鷹野は椅子に座りながら言った。「政治資金の透明性について考えているようですが」
「はい」
「青木君、君はまだ若い。私だって昔は君のようだった。でもね、家族を養い、地元の期待に応え、党の方針に従う。そうしているうちに気づくんだ。完璧な正義なんて存在しないって」
鷹野は窓の外を見つめた。「君の地元の橋の補修、覚えているか?あれも政治資金パーティーでの約束があったから実現した。君の支持者たちは喜んでいたじゃないか。何が悪いんだ」
青木は何も言えなかった。確かに、その橋の件で自分の評価は上がった。
一週間後、青木は議会図書館で時を過ごした。埃を被った法文を読みながら、彼は自分の心の中にある何かを必死で探していた。
そして、西園寺真理子にコンタクトを取った。
「このシステムに亀裂を入れたいと思っています」青木は静かに言った。
真理子の指先がわずかに震えた。「私も同じことを考えています。こんなつまらないことに富を使うのではなく、正しい場所に届けたいのです」
青木は黙って頷いた。
「それが、大切な友人との約束です」真理子はやや遠い目をして付け加えた。指輪のない左手の薬指を、無意識に右手で撫でている。
青木は一瞬、その「友人」を羨ましく思い、すぐに感情を押し戻した。この感情さえも、彼女の地位への憧れの一部なのかもしれない。
「西園寺グループの理事会は強く反対するでしょう。あなたも党からの圧力は想像できるはずです」彼女は言った。
「覚悟はしています」青木は答えたが、心の中では別の声が響いていた。この「勇気ある決断」で自分が得る称賛を、密かに期待している自分がいるのではないか?
一ヶ月後、青木の政治資金パーティー。同じホテルの会場に、今度は青木を中心として人々が集まっていた。
青木は壇上に立った。用意された原稿を開く。
「本日は皆様お忙しい中、私のためにご参集いただき、誠にありがとうございます。おかげさまで、当選以来三年間、地域のため、国民のために尽力することができました…」
完璧な政治家の言葉が続いた。しかし青木の脳裏には、三年前の自分が重なっていた。同じ言葉を、同じ調子で語っていた自分。
刹那、目が西園寺と合った。彼女は、わずかに頷いた。青木の胸がかすかに熱くなる。
そして、彼は原稿を閉じた。
「皆様、私は考えています。私たちはなぜここにいるのでしょうか」
会場の空気が変わった。鷹野議員の眉がわずかに寄る。
「毎週のように繰り返されるこの集まりで、私たちは何を交換しているのでしょう。表向きの言葉と裏側の期待。献金という名の投資と、配慮という名の見返り」
青木の言葉は静かに、しかし確かに会場に広がっていった。同時に、彼は自分の言葉に酔いしれている自分に気づいていた。
「正直に申し上げます」彼は続けた。「こんなパーティーはつまらない。やめてしまいましょう。カネではなく、国民のために。誠実な政治を始めましょう」
会場が凍りついた瞬間、一人の女性が立ち上がった。西園寺真理子だった。
「青木議員の言葉に、私も共感します」彼女の声は会場に静かに響いた。「西園寺グループは今後、このような形での政治献金ではなく、社会課題の直接解決に資金を使う決断をしました」
しかし青木は気づいていた。会場の隅で、西園寺グループの重鎮らしき男性が険しい顔をして携帯電話で通話していることを。真理子の決断は、明日には覆されるかもしれない。
その夜、青木は夜空を見上げていた。冷たい風が、彼の肌を刺していた。
明日、彼は離党と議員辞職の記者会見を開く。しかし、本当にこれで何かが変わるのだろうか?彼の「勇気ある決断」は、結局、新たな形での政治的パフォーマンスではないのか?
冬の選挙戦。雪は白く街を覆い、人々の足跡が刻まれていた。西園寺真理子は、窓辺に佇んでいた。案の定、理事会は彼女の決定を覆そうとしている。
遠くからエンジンの音と、青木のかすかな声が聞こえる。彼女は、まだ見ぬ春を思いながら目を閉じた。しかし、その春は本当に来るのだろうか?
風のような決意が、古い沈黙の上をただ吹き抜けた。風は空を回り続けるだけかもしれない。
しかし、風は種を運ぶ。
それだけは間違いなかった。
