【短編小説】幸せの鐘が鳴り響き 僕はただ悲しいふりをする
春の光が大理石の床に斜めに差し込む。
藪田健人は事務机の前で今日の進行表に目を通す。「5月15日 挙式11時」と記された紙面。1日に何組も式を挙げるこの会場では、名前は視界をかすめるだけで、心には何も残さなかった。
大手ホテルの法務部から左遷されて三ヶ月、彼はそれなりに式場支配人の役割に馴染んでいた。
午前十時半。藪田は式場内を巡回する。光の粒子が舞い、空間を神々しく染める。儀式の直前、新郎新婦への挨拶。
「次の式は、川島様、柏木様です。建築士のご夫婦ですね」
プランナーの言葉に促され、薮田は控室のドアをノックした。
「失礼します」
扉が開き、白いドレスの女性と視線が交わる。
時間が止まる。
彼女の瞳に、最初に浮かんだのは困惑。そして何か言葉にできない感情。
柏木杏子。
大学図書館の窓際。設計課題に没頭する横顔。「すれ違ってばかりだ」と震える声で告げた別れ。すべてが一瞬で蘇る。
「藪田...さん?」
彼女の声は思ったより落ち着いていた。
「お久しぶりです」
言葉が自動的に口から出る。自分の声の平坦さに驚く。
「ええと…こちらが川島です」
背後から現れた男性は穏やかな笑顔を浮かべていた。しっかりとした握手。
「この式場の支配人をしています、藪田です。本日は、誠におめでとうございます」
我ながら驚く。まるで別の自分が話しているようだ。
「ありがとうございます」
柏木の表情は読めない。そこには怒りも悲しみもない。ただ、静かな確かさ。彼女は川島の腕に自然に触れ、何かを言う。言葉は聞こえるが、意味が遠い。
「では」
彼が辞去しようとすると、川島が尋ねる。「藪田さんは柏木と大学でお知り合いだったんですか?」その声には悪意がない。
「はい、友人でした」
それだけ告げ、藪田は部屋を出た。廊下の冷たい空気が肌を撫でる。
十一時。
儀式が始まる。藪田は会場の隅に立つ。日の光がステンドガラスを通り抜け、祭壇に虹を描く。神聖と世俗の境界が曖昧になる瞬間。
彼女が入場する。柏木の顔は静かな緊張に包まれている。七年前、彼女が建築について語っていた時と同じ表情。
藪田はその時、彼女の情熱と自分の平凡さの距離を感じた。「すれ違い」という言葉は、自分自身への言い訳。
誓いの言葉。川島の声。柏木の返答に混じる微かな震え。「はい」という言葉の余韻が消えないうちに、鐘が天井から静かに降下する。
リボンを引く二人。「幸せの鐘」が鳴り響く。
藪田は自分の頬に触れる。乾いている。
悲しいのか、悲しいふりをしているのか。もはや区別がつかない。
人々が退場していく。藪田は立ち尽くす。会場は次第に静寂に包まれる。「幸せの鐘」だけが、かすかに揺れている。
「美しい式でしたね」
黒いワンピースの女性。名札に「藤野美礼」。
「参列者の方ですか」
「柏木さんは私の事務所の大切なスタッフです」藤野は微笑んだ。「川島くんともよくチームを組んでいます」
無言の頷き。
「そうだ、まだテラスは開放されていますか?少し空気を吸いたくて」
藤野は華奢な指でバッグを探り、タバコケースを取り出した。藪田は無言で彼女を案内した。
「この建物を設計するとき、私は『聖と俗の境界』を意識したんです」藤野は天井を見上げる。「あなたはどうですか?この場所で」
「私は...」言葉を探す。「ただの支配人です」
首を傾げる。「あなたは、聖なる場の見守り人ですね。日常と非日常の境界線に立つ存在」
胸の奥で何かが揺れる。
次の式の準備が始まる。藪田は窓際に立ち、春の光を浴びる。鐘が鳴り響いた時、柏木の顔に浮かんだ感情。
彼女は本当に幸せなのだろうか。
かつて彼が彼女を振ったとき、自分が「普通の幸せ」を守るために行動したと信じていた。今、彼はその「幸せ」の外側に立っている。
それは悲しいことだろうか。もはやわからない。ただ、この異質な場所での日々。少しずつ取り戻す自分自身の輪郭。「境界線に立つ存在」という言葉の反響。
次の結婚式まであと一時間。
藪田は鐘を見上げる。鐘は式の余韻を受け止めるかのように、静かに佇んでいた。
彼は柏木の姿を思い出す。彼女の幸せを祝福しながら、同時に自分の選択を後悔する。矛盾した感情が彼の中で共存していた。
式場の支配人として、彼は無数の幸せの鐘が鳴り響くのを見守るだろう。その度に彼は何かを感じるふりをするのだろう。それが彼の役目だ。
藪田は鐘を見つめながら、微笑んだ。
幸せの鐘が鳴り響き、彼はきっと悲しいふりをした。
それでも、「ふり」の中に芽生える微かな痛みが、彼の輪郭を少しずつ取り戻すような気がした。
薮田は、不意にリボンを引いた。
幸せの鐘が鳴り響き、誰にも届かずに消えた。
薮田の過去の話は以下です。
