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【短編小説】超超超、気持ちいい

「超、気持ちいい!」

英雄が、叫んだ。

声が水面を破るように弾けた。雄介の手が、時間に捕らえられたように止まる。

テレビの向こうで、水しぶきが金の粒になって散っていく。計算のない歓喜。生の、裸の爆発。

ホテルの一室で、中島雄介はシーツを見下ろした。綿の繊維に刻まれた、快楽の記憶。体温の記憶が、まだ織物の奥で眠っている。

彼の仕事は、この痕跡を無へと返すことだった。空間を、再び夢見る状態に戻すこと。

雄介は、シーツを剥がした。バッグが、ベッドの隙間に挟まっていた。真紅の革が艶かしく光り、銀色の金具が照明を写し込む。まるで、豪奢な空間が圧縮されたようだった。


清掃後。雄介は紛失物ノートにバッグを記録し、フロントに預ける。

その時、女性がやってきた。

巻き髪が肩で波打ち、マニキュアが血のように紅い。雄介がバッグを差し出すと、彼女の顔が曇った。まるで汚れたものに触れるように、一瞬手が躊躇う。

「ありがとうございます」

声が硬い。足音が急いで遠ざかっていく。

雄介は首をかしげた。


その夜、歌舞伎町のラーメン屋は人の熱気で満ちていた。

「相席でよろしいですか」

小さなテーブルに、年の違う二人の男性がすでに座っている。偶然が糸を紡ぐように、三人は向かい合った。

「醤油」「同じく」「私も」

同じ注文。同じ待ち時間。沈黙が水のように流れる。

右側の男性がタバコを取り出し、ポケットを弄っている。四十代の穏やかな顔に、どこか影がある。

「すみません、火を貸してくれませんか」

雄介がポケットを探ると、ホテルの名前が印刷されたマッチが出てきた。硫黄の匂いが微かに立ち上る。

「どうぞ。勤め先のやつですけど」

「ああ、このホテル!」男性の目が一瞬輝いた。「榊原といいます。いつもお世話になってます」

雄介の頬が赤くなる。

「雄介です」

左隣の若い男性が視線を上げた。

「もしかして俳優の榊原さんですか」

「ええ」榊原が火をつけながら微笑む。「脇役専門ですけどね」

「佐藤と言います。あの弁護士ドラマの詐欺師役、印象的でした。ただ、法理論的には疑義がありましたが」

「もしかして、本業の方で」榊原が苦笑いする。

三つのラーメンが、湯気と共に運ばれてきた。

「いただきます」

箸が同時に動く。それぞれの手が、それぞれのリズムを刻む。

「お仕事は?」佐藤が雄介に聞いた。

「清掃の仕事をしています」

「そうですか」

間が、空気の中で形を作る。

「世の中、色々な仕事がありますね」榊原が言った。声に温度がある。

「榊原さんこそ。俳優業って、不安定でしょう」

「ええ」榊原が麺をすすりながら答える。「四十過ぎて、まだこんな具合ですから」

雄介が箸を止めた。

「なぜ続けるんですか?」

榊原がしばらく考える。湯気が顔の前を漂っている。

「別の人間になれるからかな」

言葉が、テーブルの上で静かに響く。

「一瞬でも、違う自分になれるっていうか」

その言葉に、自分の存在への静かな信頼が滲む。

佐藤が興味深そうに身を乗り出す。

「つまり、憑依ということですか?」

「というより、一人の人間を創造する感じです」

雄介が箸を置いた。

「僕の仕事は、その逆かもしれません」

「逆?」

「人が使った跡を消して、元に戻す。誰もいなかったみたいに」

「原状回復の概念ですね」佐藤が頷く。「法理論上も、重要な原則です。ただし現実には、完全な復元は困難ですが」

「難しいです」雄介が笑う。「でも、そういう仕事です」

「面白い対比ですね」榊原が微笑む。「僕は虚構を創って、雄介さんは現実を消す」

「佐藤さんは?」

「その境界を線引きする仕事でしょうか」佐藤が自嘲的に笑う。

三人が静かに食べ続ける。テレビでは、競泳のニュース映像が流れている。

「あの人、すごいですね」雄介が画面を見ながら言った。「僕も昔、水泳をやっていたので」

「確かに、体格が良いと思いました」佐藤が返す。

「でも、強化選手には届かなくて」

榊原が頷いた。「僕だって、まだ主演諦めてませんよ。諦めなければ、いつかは」

「アスリートには年齢がありますから」雄介は、寂しそうに笑う。

「清掃業も重要な職業です。大切なのは、その先にあるものでしょう」佐藤が静かに返した。

雄介は、ふと思い出したように言った。「そういえば、今日変なことがあったんです」

「どんな?」

「忘れ物を返したら、嫌そうな顔をされて」

佐藤が箸を止めた。「何の忘れ物ですか?」

「バッグです。赤い革の、高そうな」

榊原の手が、わずかに止まった。

「どんな方でした?」

雄介が思い出すように語ると、榊原の表情が微妙に変わった。

「もしかして、知ってるかもしれません」

沈黙が三人の間を流れる。

「行きつけの店で働いてる子なんです」榊原が小声で言った。

理解が、静かに広がっていく。

「受け取る時、すごく嫌そうで」雄介が続ける。

「彼女は、自分がどこにいたかを覚えていたくないんでしょうね」榊原が静かに言った。

「そんなものですか」

「人って、複雑だから」

榊原の言葉が、テーブルの上で重みを持つ。

「じゃあ僕は、どうすればよかったんでしょう」

「あなたは仕事をなさった。それで十分です」 

佐藤が頷いた。「相手方がどう受け取るかは、もう相手方の判断に委ねられます」

テレビの中で、英雄が再びゴールした。

「超、気持ちいい!」

「この人、純粋ですね」榊原がテレビを見ながら言った。「演技じゃできない感じ」

雄介が頷いた。

「あの感覚、分かります」

佐藤が興味深そうに聞いた。

「どのような感覚ですか?」

雄介がしばらく考えてから言った。

「泳いでいるとき、たまに。水の重さを感じて、自分の境界が溶けるような」

榊原が少し照れながら言った。

「僕は、女性と…。じゃなくて役がハマったときですね。自分を忘れて、別の誰かになりきれた瞬間」

二人が佐藤を見る。

「ないです、そのような経験は」佐藤が苦笑いした。「法律家は感情と距離を置かねばなりませんから」

でも、少し考え込むような表情を見せた。

雄介がしばらく黙っていた。

「難しいものですね」

「難しいね」榊原が微笑んだ。「だから、面白い」

雄介はお冷やを注ぎ足していく。氷が、微かな音を立てる。


三人は店を出た。夜風が頬を撫でる。

雄介は空を見上げた。星が、見えない糸で結ばれている。

「美味しかったですね」佐藤がコートの襟を正す。

「そうだ」雄介がポケットを探る。「ホテルのクーポン券、いりますか?」

「助かります」榊原が笑った。

「それでは、また」

三人は別々の方向に歩いていく。それぞれの足音が、異なるリズムを街に刻む。

雄介は少し振り返った。さっきまでの引っかかりが、水のように流れて消えていく。

雄介は歩きながら、小さく口笛を吹いた。
予期しない、透明な音。
想像していたよりも、ずっと澄んでいた。



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