【短編小説】バスの揺れ方で正しさの意味が揺らいだ木曜日
梅雨の木曜日。
バスの窓から見える雨は、次第に激しさを増していた。藤原正義は、膝の上の資料に目を落とす。明日、清水直樹の控訴審を担当する。
清水は学生を勧誘して詐欺グループに引き込んだ罪で起訴された。しかし、組織について証言し、一審では執行猶予付き判決を受けた。検察は実刑を求めて控訴していた。
木村刑事の証言が蘇る。「清水被告は、祖母の介護費用に追われ、罪を犯しました。しかし、祖母をネタに脅され、詐欺グループを抜けれなかったのです」
バスが急停車した。藤原は前に投げ出され、資料が床に散乱する。
運転手の声が響く。「申し訳ありません。停留所が塞がれているため、しばらくお待ちください」
乗客たちが小さなため息と不満の声をあげる。
駅前の停留所には白い軽自動車が停まっていた。運転手はバスを降り、車に向かって怒鳴るように声を上げる。
「ここは停留所です!いい加減にしてください!みんな迷惑してるんですよ!」
助手席の老人が、焦ったように歩行困難者の証明を提示する。運転席は、空だった。
「歩行困難者であっても停留場は駐車禁止です!すぐに移動してください」
薬局から老婆が足を引き摺りながら必死に歩いてくる。小さな紙袋を握りしめている。
「すみません、すみません!主人の薬を…普段は息子が来てくれるんですが、今日は仕事で…」
運転手の顔が怒りで歪む。
「いつまで待たせる気ですか!規則は規則です!バス停に車を停めるなんて、常識でわかるでしょう!」
背後では乗客たちがざわめいている。
「次のバスに間に合わないよ」
「ここで降りたら雨に濡れるぞ」
老人は老婆の腕をつかみ、「帰るぞ」と言いかける。だが老婆は夫の様子を見て、不安げに言う。
「でも薬を…顔色が悪いわ」
老人の顔は青ざめ、汗が浮かんでいる。老人は胸に手を当て、苦しそうに息をする。
藤原はバスから降り、静かに近づいた。
「どうされましたか?」
老婆が振り返る。「主人の心臓の薬を買いに薬局に…急いでいて、停留場と気づかなくて…」
老人は苦しそうに藤原を見上げた。「…わかっている。俺が悪い。…すぐに移動しよう」
藤原は迷った。車をすぐに移動させるのが当然の解決だ。しかし、老人はこのままでは発作を起こすかもしれない。
法的には明らかに老夫婦が規則違反だ。しかし今、目の前にいるのは、法文ではなく息も絶え絶えの人間だった。
藤原の脳裏に、恩師の言葉が蘇った。
「無知のヴェールの向こう側で、あなたはどのような社会を選ぶだろうか」
自分が老人だったら。自分が運転手だったら。自分が次のバスを逃しそうな乗客だったら。どんな規則を望むだろうか。
藤原は運転手に向き直った。
「お薬が必要とのことです。例外措置が可能なら、検討いただけませんか?」
運転手は首を横に振った。
「規定上、停留所での駐車は一切認められません。会社の規則です。もう移動してもらわないと」
後ろからスーツ姿の男性が声を上げる。「いつまで待たせるんだ!」
藤原は老人を見た。彼の顔には苦しみと怒りと恥辱が混ざっている。彼は息を切らしながらも、車に向かって一歩踏み出した。
藤原は老人の肩に手を置いた。
「薬を飲まれてから移動しませんか?」
運転手が口を開こうとするのを、藤原は手のひらを軽く上げて制した。
「一分だけです」
バス停には他の乗客たちも立っている。雨に濡れながら、様々な表情で状況を見守っている。焦り、同情、苛立ち、傍観—多様な感情が交錯する。
老婆は恐る恐る夫に薬を飲ませる。老人は歯を食いしばり、プライドを傷つけられた表情で薬を飲む。
運転手は時計を見て、困った表情を浮かべる。
「もう…これ以上は…本当に処分されますよ…」
乗客の中からもざわめきが聞こえる。老婆が急いで運転席に戻り、車を発進させた。
バスは再発進し、規定の位置に停まった。降車時の空気は重く、誰も大きな声では話さなかった。それでも、小さなつぶやきが藤原の耳に届く。
「遅れたら責任取れるのかな」
「あの人、本当に具合悪そうだったね」
「ルールって何のためにあるんだろう」
雨は激しさを増していた。高橋は次のバスを待つため、ベンチに座る。
老夫婦が違反していたのは、間違いなかった。運転手の主張は正当だ。しかし、その「正しさ」は誰を守るためのものか。
乗客たちは多少遅れるか、雨に濡れる程度だろう。しかし老人は…。
ふと、藤原は清水のことを考えた。彼は確かに罪を犯した。しかし、清水には祖母を抱える事情があり、彼もまた被害者だった。
スーツの男性は結局、接続バスに間に合わなかった。彼は黙ってタクシーを拾った。
藤原は次のバスに乗った。
無知のヴェールの実験を思い出す。もし自分が清水の立場だったら。もし自分が詐欺の被害者だったら。あるいは、もし自分が清水を脅した組織のリーダーだったら。どんな判決が「正しい」と言えるだろうか。
バスの揺れを感じながら、藤原の心に奇妙な静けさが訪れた。法と正義、規則と例外、形式と実質。明確な線で区切られると思っていた概念が、実は絶えず揺れ動く波のようだと感じた。
解決のない葛藤。誰も完全には満足しない妥協点。それでも、何かをしなければならない瞬間。
明日の裁判で、彼がどのような判断を下すかは、まだ彼自身にもわからなかった。
藤原は、露ごしに見た老夫婦の顔を、しばらく忘れられそうになかった。
