【短編小説】生類憐みの令は現行法だとやや過剰
午後の陽射しが斜めに差し込むペットショップで、田川仁美は子犬たちの水入れを取り替えていた。トイプードルの子犬が小さな前足でガラスを叩く。
「すみません」
振り返ると、紺のスーツの男性が立っていた。真っ直ぐな目をしている。
「犬を、飼いたいんです」
機械的な口調だった。
「どちらか気になる子はいらっしゃいますか」
男性の視線がトイプードルの子犬に止まった。クリーム色の毛玉のような子犬は、尻尾を振りながら男性を見上げている。
「この子は、逃げることはありませんか」
「はい。人懐っこい良い子ですよ」
「そうですか」
男性は子犬をじっと見詰めていた。何かを確かめるような目だった。
ドアベルが鳴り、もう一人の男性が入ってきた。常連客だった。
「いつものやつを、お願いします」
ドッグフードの袋を取りながら、犬の写真を見せる。
「うちの保護犬、だいぶ成長しましたよ」
その時、店の扉が勢いよく開いた。
「すみません、調査でお邪魔します」
中年の女性が店内を見回しながら入ってきた。手にはカメラを持っている。
「調査…ですか」仁美は戸惑った。
「NPO法人、『動物の尊厳を守る会』の藤井です。ちょっと写真を撮らせてもらいますね」
藤井はケージに向けてカメラを構えた。
「ちょっと待ってください」仁美は慌てた。
「見てください、この狭いケージ!」藤井の声が響いた。口角が微かに上がっている。「こんなところに閉じ込められて、ワンちゃんたちがどれだけストレスを感じていることか。あなたに良心はないんですか」
「温度管理もしっかりしてますし、法的な基準は満たして…」
「法的基準?」藤井は鼻で笑った。「そもそもこんな売り方自体がおかしいんですよ。ヨーロッパでは、店頭での生体販売は違法です」
「でも、都内でペットショップをやるとなると、どうしてもスペースが…」
「言い訳ですね。こんな狭いところに命あるワンちゃんを押し込めて」
仁美は黙り込んだ。
「私も…似たような環境に住んでますけど」
「え?」
「15平米のアパートです」仁美の声は小さかった。
藤井は一瞬、表情を変えた。しかしすぐに首を振る。
「それとこれとは違います。あなたは好き好んでそこに住んでるんでしょう?ワンちゃんたちは選択できないんです」
仁美の顔が強張った。
「失礼します」
常連客が二人の間に割って入った。
「佐藤と申します。弁護士をしております」
佐藤は名刺を渡して、言葉を続けた。
「お話を聞かせていただきました。しかし、住居というのは基本的人権に関わる問題ではないでしょうか。この方が15平米のアパートに住んでいるのは、経済的制約によるものでしょう。動物の福祉も重要ですが、まず人間が人間らしく生きられる社会の実現が前提では」
「今は、ワンちゃんの話をしているんです!」
「住環境の問題を無視して動物愛護を語ることに、ある種の欺瞞を感じます」
藤井の顔が赤くなった。
「欺瞞?私たちは純粋にワンちゃんたちのことを思って…」
「その純粋さが、時として他者への想像力を奪うのではないでしょうか」
その時、最初の男性が口を開いた。
「桐島です。検事をしております」
桐島の声は機械的だった。佐藤が一瞬表情を硬くする。
「動物取扱業の基準により、この店舗は適正な管理をしております。藤井さん、あなたは何を法的根拠に批判されているのでしょう」
藤井が桐島を見た。
「法律が間違ってるんです!」
「店舗への無断侵入による撮影は威力業務妨害罪に該当する可能性があります」桐島は淡々と続けた。「営業の自由は憲法22条で保障された権利です」
「憲法!?実際に苦しんでいるワンちゃんたちがいるのに」
「感情的判断では法的根拠になりません。あなたはまず、動物たちの『苦痛』を立証せねばなりません」
桐島は子犬を見つめる。表情は変わらない。
佐藤が続けた。「現実的に、藤井さん、代替案はあるんですか。保護犬だけでは需要に対応できませんし」
「ドイツでは!フランスでは!ブリーダーが!制度設計次第でできるんです」
藤井の声が高くなった。攻撃的な輝きが増している。
「あなたたちは既得権益側だから現状維持したいだけでしょう。ワンちゃんたちの苦痛より自分たちの都合を優先して」
「既得権益?」佐藤が首をかしげた。「私は保護犬を飼っていますし、この方は明らかに経済的に困窮している」
「でも結局、システムを変えようとしない」
「システムを変えるには段階的なアプローチが」
「段階的?その間にどれだけの動物が苦しむと思ってるんですか」
桐島が口を挟んだ。
「感情論では法は変わりません。あなたにできることは、立法府に訴えることだけです」
桐島は淡々と言った。
仁美は三人を見回していた。それぞれが正しいことを言っているような気がした。それぞれが間違っているような気もした。
「じゃあ」仁美の声が震えた。「どうしろっていうんですか!」
三人が振り返った。
「私が悪いんですか。この仕事を選んだ私が。15平米のアパートに住んでる私が。動物が好きだからこの仕事してるのに。でも生活のためでもあるし。どうしろっていうんですか」
店内が静まり返った。
桐島が子犬から目を逸らした。
「個人的感情は、法の適用に影響しません」
桐島は無意識に子犬に向かって「いい子だね」と呟いてから、店を出て行った。
佐藤は困ったような顔をして、ドッグフードの代金を置いた。
「すみません。私たちも…結局は自分の立場から話していただけかもしれません」
藤井だけが残った。カメラを下ろして、仁美を見ている。その目には光るものがあった。
「ワンちゃんたちは…本当に苦しんでいるんです」
最後にそう言って、藤井も店を出て行った。まるで何かを諦めたような足取りで。
一人になった仁美は、トイプードルの子犬を見下ろした。子犬は無邪気に尻尾を振っている。
「この子たちは理屈じゃないから好き」
小さく呟いた。誰に向かってでもなく。
「もう、私も檻の中で飼われたいよ」
仁美は静かにケージの掃除を始めた。空調の音と、小さな鳴き声だけが店内に響いていた。
「今だって檻の中か」
動物たちに向かって、そう呟いた。
