【短編小説】誰にも行けない場所がある
「上原さん、このあとの打ち合わせは四階の会議室Cね」
佐々木の声に、美咲は一瞬だけ息を止めた。
広報担当の佐々木は、端正な顔立ちと完璧なスーツ姿で、入社二年目とは思えない風格を漂わせている。
「四階って、エレベーターなかったっけ?」
「ええ? あったはずよ」
佐々木はそう言いながら、すでにキーボードに向かって戻っていた。デスクの上には、付箋で埋め尽くされた企画書の山がそびえ立っている。
美咲は静かにため息をついた。川上書房に入社して三ヶ月。そろそろ同僚たちに毎回説明するのも疲れてきた。四階の小会議室Cへはエレベーターホールから段差があり、車椅子では行きづらい。
「佐々木さん、すみません。四階のCは車椅子だと少し...」
キーボードを叩く音が止まった。佐々木は振り返り、一瞬だけ困惑の表情を浮かべた。
「じゃあ、二階のAに変更するように言っておくわ」
そう言って彼女は電話に手を伸ばした。美咲は「ありがとう」と言いながら、微かな疲労感を覚えた。入社以来、何度目だろう。毎回説明し、毎回謝罪され、そして次も同じことが繰り返される。
誰も美咲を排除しようとしているわけではない。ただ、世界は彼女のような存在を前提に設計されきれていないだけだ。
美咲の机の上には、自分の企画書が広げられていた。
「傷ついた言葉たち——文学と身体の境界線」
文学博士としての専門性を生かした企画だった。新人編集者としての最初の挑戦である。
「これ、けっこう面白そうだね」
隣のデスクから、村山の大きな声が響いた。ラノベ担当の彼は、美咲が院生時代に書いた論文のプリントアウトを手に取っていた。
「ありがとうございます。でも、ちょっとニッチすぎるかなと...」
「いや、最近はね、ラノベでも障害のある主人公って増えてるんだよ。ただ、どうしても『克服』の物語になっちゃうんだよね」
「人に頼ることが弱さとして描かれるのが気になります」
美咲は思わず口にした。実際には誰もが誰かに頼りながら生きているのに、障害のある人だけが「自立」を求められる矛盾。彼女の博士論文のテーマでもあった。
「そうそう!」村山は大きく頷いた。「実は、うちの母親が去年から車椅子なんだ。だから、少し考えるようになったんだよね」
彼は照れくさそうに後頭部を掻いた。
編集会議で美咲の企画が議論されたとき、予想外の声が上がった。
「私、この企画に賭けたいです」
佐々木だった。会議室の全員が彼女に注目した。彼女の意見は、若さに似合わぬ説得力で周囲を黙らせることが多かった。
「この手の企画には、確かにマスマーケットは見込めません。でも、最近のSNSを見ていると、こういったテーマへの関心は高まっています。特に若い読者層に」
佐々木は淡々と数字を並べ始めた。美咲が知らなかったデータもあった。明らかに事前に調査していたのだ。
「それに、上原さんは当事者視点と学術的専門性の両方を持っている。この企画にぴったりの人材です」
編集長は腕を組み、しばらく考え込んでいた。
「わかった。試験的に進めてみよう」
会議室を出たとき、美咲は佐々木に追いついた。
「なぜ?」
「あなたが優秀だから」佐々木はシンプルに答えた。「それに、この企画には価値があると思った」
彼女の言葉には打算めいたところがなかった。
「あと、上原さん。あなたはいつも『ありがとう』と言うけど、『当然』って顔押してて良いのよ」
そして彼女は、整然とスカートの裾を揺らしながら歩き去った。
十月の夕暮れ、美咲は会社の近くのカフェで原稿を読んでいた。企画は実現し、寄稿者から原稿が集まりつつあった。
「上原さん」
見上げると、そこに佐々木が立っていた。普段の彼女からは想像できないほど、少し迷いがちな表情をしている。
「この席、いいですか?」
美咲が頷くと、佐々木は向かいに座った。しばらく原稿の話をした後、彼女は唐突に口を開いた。
「私、あなたの企画に興味があるの」
「ありがとう」
「興味があるって言うのは、単に面白いというだけじゃなくて...」佐々木は言葉を選ぶように続けた。「私自身、見えない形で悩んでいるから」
美咲は黙って聞いた。
「睡眠障害と不安症があって。会社では完璧に振る舞おうとして、余計しんどくなる」
佐々木の完璧主義の背後にあるものが、少し見えたような気がした。
「私たちのような立場の人間が、何か形に残せたらいいなと思って」彼女はそう言って微笑んだ。「だから、あなたの企画、絶対に成功させましょう」
美咲は言葉に詰まった。「私たちのような」。その言葉が胸に刺さった。美咲はこれまで、自分がひとりだと思っていた。
車椅子という目に見える障害を持つ彼女と、完璧に見える佐々木が同じ「立場」だなんて。
「あの、佐々木さん...」
「なに?」
「私、ずっと浮いた存在だと思ってました。会社でも、大学でも、どこでも」
美咲は自分でも驚くような言葉を口にしていた。
「でも、実はみんな、何かと戦ってるんですね」
佐々木は小さく頷いた。
半年後、美咲の企画は出版が決まった。『傷ついた言葉たち——文学と身体の境界線』の正式な承認メールが届いたのだ。
村山が大きく親指を立て、遠くから佐々木が小さく微笑みかけてきた。美咲は深く息を吐いた。
今日の打ち合わせは一階の大会議室。エレベーターも必要ないし、段差もない。誰にも何も説明する必要がない。
美咲はカバンから企画書を取り出した。表紙には新しいタイトルが書かれていた。
「声にならない言葉たち」
そっと佐々木の方を見ると、彼女もまた美咲の方を見ていた。静かに頷き合う二人の間に、言葉にならない了解があった。
この世界で、二人はもう少しだけ、居場所を広げようと思った。
