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【短編小説】駅前の聖者の、今日の永遠

雨は細く、執拗に降り続けていた。

駅前の小さな屋根の下、藤田英二は静かに立っていた。手には、聖書と自作の小冊子。「聖書はいかがですか」

彼の声は雨音に埋もれた。通り過ぎる人々の多くは目を合わせず、足早に立ち去った。
受け取られるのは、週に数回あれば良い方だった。それも、一人は常に同じ男だ。

時折、「あの人、いつもいるわね」「見ちゃダメよ」という声が耳に届く。

夕方になり、彼は聖書と小冊子を丁寧に整え直した。毎日の儀式。ただそこに立ち続ける。

「あなたはなぜここにいるんだ」と尋ねた男がいた。藤田は静かに微笑み、聖書を差し出すだけだった。彼自身も、答えを持たなかった。

帰り際、藤田はカバンから古い本を取り出した。彼はある一節を黙読した。

「あなたの今日は永遠である」

言葉を心の中で繰り返す。それは、彼を支える呪文のようだった。


翌日も雨だった。藤田は同じ場所に立っていた。そのとき、一人の若い女性が彼の前に立ち止まった。

「藤田先生、ですか?」

細い声に振り向くと、傘を持った女性が立っていた。

「春野、瑞稀です。覚えていらっしゃいますか?」

瞬間、藤田の胸に何かが落ちた。その名前が、彼の記憶の扉を開いた。

「瑞稀さん…」彼の声は震えた。「もちろん、覚えていますとも」

「私、会いたかったんです」

近くの喫茶店で、彼らは向かい合った。

「十五年前…」瑞稀は言葉を探るように言った。「あの日のことは覚えていますか」

藤田は無言で頷いた。忘れるはずがなかった。朝の光が木々を透かし、子どもたちの歓声が公園に響いた日。彼は一瞬、水筒を拾うために目を離した。

ブレーキの利かなくなったトラックが歩道に乗り上げるまで、世界は平穏だった。

「あなたの弟さん、健太くんは…」藤田は言葉を詰まらせた。

「五歳でした」少し間を置いて、彼女は視線を落とした。「あの日が、誕生日だったんです」

事故調査報告書は彼に過失はないと断言していた。園長も保護者たちも、彼を責めることはなかった。それでも。

「でも、時々考えてしまうんです。もしあの時、違う場所に連れて行っていたら。もし別の日だったら」彼女の指がカップの縁をなぞった。
「そんな風に考えるのは、もう止めようと思っているのに。でも、離れないんです」

藤田は黙ってうなずいた。彼もまた、毎日「もし」という言葉と暮らしていた。

「これをずっと書き続けています」彼は小冊子を彼女に差し出した。それは十五年かけて書き溜めた言葉だった。

「許すということは、忘れるということでしょうか?」瑞稀は尋ねた。
「だとしたら、私はできていない。あの日から一度も、健太のことを忘れたことがないから」

藤田は首を横に振った。「許すことは、忘れることではないと思います」


翌日、瑞稀は母・みどりと共に駅前にやってきた。みどりの瞳には、静かな輝きがあった。

「臓器提供をしたんです」みどりは言った。「別の体の中で、健太は生きています。だから、あなたも、自分の命を歩んで」

藤田の視界が歪んだ。彼は俯き、目元を押さえた。


数日後、藤田はいつもの場所に立っていた。
マスク姿の男性が立ち止まった。いつも小冊子を受け取る、奇特な男。

「今日は…お話してもいいですか」

その声色に、藤田は既視感を覚えた。背筋に冷たいものが走る。

男は小冊子を取り出した。「これを書かれたのは、あなたですよね」

そこには、藤田の筆跡。「健太くんへ。あなたの10回目の誕生日に。あの日、もし私が…」

「私は…」男はマスクを外した。「あの日のトラックの運転手です」

藤田の体が凍りついた。十五年間、彼の夢に何度も出てきた顔。脳裏に血の気が上った。  

「なぜ…」

「最初は、救いを求めて聖書を受け取ったんです」男は声を震わせた。「その後、小冊子を読んで…あなたがあの時の保育士だと気づいたんです」

藤田は一歩前に出た。何かが彼を駆り立てる。
握った拳は、冷たかった。

「藤田先生?」

振り返ると、みどりが立っていた。

男は深く頭を下げた。言葉が喉に詰まったように見えた。
みどりの表情が変わった。目が見開かれ、体が微かに震えた。「あなた…」

みどりの表情が変わった。「あなた…」

「許してくれとは言いません」男の声は小さかった。「あの日、健太くんを轢いたのは、私です」

沈黙が三人を包んだ。

「十五年間、毎日あの日のことを考えていました」男はようやく言った。 

「だからどうだというの!」みどりの声には怒りが滲んでいた。「私たちの痛みが軽くなるとでも?」

「いいえ」男は首を振った。「ただ…伝えたかったんです。あなたの息子さんのことを、私も忘れたことはないと」

みどりが深く息を吸い、ゆっくりと吐いた。

「健太の臓器は、五人の子どもを救いました。あなたが奪った命は、別の形で生き続けている」彼女の声には静かな強さがあった。

「もう、会いません。あなたも、自分の道を行きなさい」

言葉とは裏腹に、その声には冷たさはなかった。

みどりは歩き始めた。
男は、小冊子を抱えたまま立ち尽くしていた。やがて彼も、別の方向へ歩き出した。

空は晴れていた。光が人々の影を地面に映し、別々の方向に伸びていく。

同じ空の下、彼らはそれぞれの「もし」を抱えながら、少しずつ前に進んでいく。

彼らの今日は、永遠だった。



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