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【短編小説】整うまで帰れません

夜が街を包み込む頃、松の湯の休憩所ではマッサージチェアが三台、律動を刻んでいた。その振動は古い寺院の読経のように、一日の疲れを溶かしていく。

塔野輝がフルーツ牛乳のストローをくわえたまま、「ああ、これこれ」と呟く。隣で西野誠がテレビを眺め、佐藤健太がタオルを頭に乗せて瞼を閉じている。

千鶴が番台から顔を覗かせた。

「お疲れさま。もうすぐ閉店よ」

「あ、千鶴さん」塔野が立ち上がる。「今日、元気がないみたいですが」

千鶴は溜息をついた。湯気が薄らいだ浴室の向こうを見つめながら、「もう限界かもしれない」と漏らす。

「何かあったんですか」佐藤が身を起こした。

「お客さんが減る一方で。来月の光熱費も払えるかどうか」

「それでしたら」塔野が前に出る。「不動産業の経験から、宣伝文句を工夫するだけで客足は変わりますよ」

「弁理士として技術面からお手伝いできます」西野が続いた。「設備の効率化で光熱費も削減できるはず」

「弁護士として」佐藤も加わる。「地域活性化の補助金申請をサポートします」

千鶴は首を振った。「ありがたいけれど、小手先のことじゃもうどうにもならない」

三人の表情が変わった。

「では、本格的に考えてみましょう」塔野の声に熱が籠もる。

「システム全体を最新技術で見直して」西野も身を乗り出した。

「法的枠組みから根本的に変えていけば」佐藤の目にも闘志が宿る。

「でも、そんな大げさなことしなくても」千鶴が困惑する。

「いえいえ、千鶴さん」塔野が手を振る。「これは専門的な話になります。これは男の闘いです。千鶴さんは黙っていてください」

「そうです」西野も頷く。「技術的な議論は複雑ですから」

「法律の話も難しいでしょうし」佐藤も同調する。

三人はサウナに向かった。千鶴は呆れて番台に戻る。


密室のサウナで、三人の議論が始まった。

「本格的なブランディングを!」塔野が汗を拭きながら熱弁する。「『都心の隠れ湯治場』として完全高級路線転換。一回三千円でも富裕層なら必ず来ます」

「完全リニューアルです!」西野も熱を帯びる。「IoT技術で入浴データを徹底解析、個人別湯温制御、AIによる健康診断サービス、ブロックチェーンで入浴履歴を管理」

「法的保護が先決だ」佐藤が拳を握る。「銭湯保護条例の制定、文化財指定申請、特別税制優遇措置の導入」

三人は止まらない。密室のなせる効果なのだろうか。徐々にエスカレートしていく。

「超高級銭湯リゾートへの建替を!」塔野の声が響く。「檜風呂完備、食事はフレンチのフルコース、会費三万でエンタープライズサブスクリプション!」

「銭湯メタバース構想の実現だ!」西野が立ち上がった。「VRで世界中の人と仮想入浴体験、全身触覚スーツで湯の感触を完全再現、NFT化した湯の記憶を国際取引所で売買!」

「銭湯共和国を建設しよう!」佐藤も続ける。「独立自治体として経済特区を設立、銭湯パスポート配布で入湯者を完全管理、銭湯憲章で入浴権を基本的人権として明文化、湯温決定は住民投票!」

千鶴は、サウナのドアを勢いよく開けて叫んだ。

「もう我慢できない!あんたたち、頭を冷やしてきなさい!」

三人は慌てて水風呂に飛び込んだ。

「うわああああ!」

十六度の冷水が、サウナで熱くなりすぎた頭と体を一瞬で冷却する。思考が完全に停止し、ただ息をするのが精一杯だった。

「寒い!寒い!」「何これ、拷問?」「氷みたい!」

千鶴の怒声が響く。

「誰が水風呂に入れと言った!もう、出ていきなさい!」


追い出された三人は、銭湯の外のベンチに並んで腰を下ろした。夜風が肌に心地よく当たる。

街の向こうから電車の音。コンビニの看板の光。普通の夜の風景。

その時だった。

「あ」

三人が同時に声を上げた。頭が澄み渡り、何かが見えてきた。

「銭湯の良さって」塔野がつぶやく。「この『何もしない時間』だったんだ」

「特別なことなんて何もいらなかった」西野が続けた。「ただお湯に浸かって、気持ちいいねって言うだけで」

「僕たち、完全に間違っていました」佐藤がため息をついた。「千鶴さんを排除するなんて、最悪だった」

千鶴が顔を覗かせた。「やっと気がついたの?」

三人は顔を見合わせて笑った。

「すみませんでした」塔野が深く頭を下げる。「答えは最初からここにあった」

「何も変える必要なんてなかった」西野が反省する。「千鶴さんの意見を聞くべきでした」

「この場所を守り続ければよかっただけだった」佐藤が静かに言った。

千鶴は微笑んだ。「とりあえず、服を着なさい」


翌週から、三人は動き始めた。

佐藤が提案したのは、休憩所を住民に無料開放することだった。「銭湯を公園のように、誰でも気軽に立ち寄れる場所に」

塔野は看板を新しくした。「松の湯銭湯公園」。派手な文句はない。「お疲れさまでした。ここで少し休んでいきませんか」という心からの言葉だけ。

西野は小さな電光掲示板を設置した。「現在:ゆったり」「サウナ:空いています」。混雑状況が分かる、温かみのある表示。

最初は近所の人が買い物の帰りに休憩していく程度だった。

でも「今空いてるなら」と久しぶりに湯船に浸かってみる人が現れた。休憩していた別の人も「私も」と続いた。フルーツ牛乳を飲みながら「やっぱりいいね」と語らう声が戻ってきた。

ある日、千鶴は帳簿を開いた。数字が少しだけ上向いていた。

マッサージチェアに座る人、富士山を眺めながら湯に浸かる人、休憩スペースで新聞を読む人、湯上がりに談笑する人たち。

千鶴は帳簿を閉じ、久しぶりに自分も湯船に身を沈めた。

湯けむりの向こうで、人々が微笑み合っている。ここには、人と人とが出会う、古くて新しい奇跡が息づいていた。



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